I miss you

れいとうきりみ

暗闇に溺れ死ぬ。

 夜は生き物だ。人生に疲れた僕らを、暗闇でやさしく包みこんでくれる。考えることは一切必要ない。この身を委ねて、心が安らかに落ち着くまで、ずっとそばにいてくれる。

 学校終わり、夜8時。冬だからかすでにあたりは深夜のように暗い。かじかんだ手を口の前にもってきて、息を吐く。白い息が気が抜けたように空に消えていく。寒い。だが当分家に帰るつもりはなかった。

 家は居心地が悪い。家の空気は常に重い。帰っても「居場所」と呼べるような場所はなかった。幸い都合がいいことに、両親ともに放任主義のため、たとえ家に帰らなくてもお咎めなし。隠れてしていたバイト代もかなり溜まっており、年齢を装ってネカフェで寝泊まりする日も多くなった。

 それでも、決して不幸せだ、とは思わなかった。これが我が家の「普通」なのだ。おかげで僕は奥の深い「夜」を知った。憎たらしい両親だが、そこは感謝している。

 歩道橋を上がる。鉄の鈍い音を、革靴が奏でる。一歩、また一歩と階段を上がる度に、高揚感が増す。胸を打つ鼓動が早くなる。

 階段を上り終えると、左へ曲がり、また歩き出す。ちょうど中心まで歩いて、そこに置かれたベンチに腰を下ろす。

 僕は、この歩道橋が大好きだ。夜の暗さ、せわしなく下を通る車、いつでも死ねると安心させてくれる高さ…。歩道橋の全てが、僕を癒してくれる安息の地なのだ。

 落としていた視線をあげ、走る車を見る。もうすぐ家に帰れるんだと、どの車も浮足立っているように見える。いい景色だ。

 「あれー、君高校生?」

 肩が震えた。まずい。誰かに見られた?家に帰されるのはごめんだ。バッグを持って逃げようとしたその時。

 「何で逃げるのさ?」

 目の前に、声の主がいた。声と逆方向に逃げるつもりが、パニクって声の方を向いてしまった。

 膝まで延びたスカート、藍色のブレザー、蝶ネクタイ、丸眼鏡、涙ぼくろ。少し襟元を着崩しているのが、いかにも高校生という感じの、儚い少女。なぜ儚いかをうまく説明することはできない。でも、直感でそう感じた。

 「君は…?」

 「さあ。誰でしょう?」

 制服は明らかに僕の学校のものではない。周りに興味を示さな過ぎたため、この制服がどこの学校か、僕にはわからない。

 「そんなことより!なんで高校生がこんな時間にここにいるわけ?寒くないの?おうちは?」

 「小学生じゃあるまいし…。てかそれを言うなら君だって何でここに?」

 「私は普通に学校の帰りだけど」

 「僕もここでちょっと休んでただけですけど」

 「そんなこと言って、もう30分くらいここにいるじゃん」

 見られていたのか。恥ずかしさよりも焦りが勝った。このまま家に帰されてしまうのではないか、と。

 「でも、ここいいよね」

 ゆっくり歩いてきた彼女は、僕が座っていたベンチに腰をおろした。

 「どうせ家に帰りたくないとかなんでしょ。思春期だねえ」

 図星すぎる。なんでこんなに僕のことがわかるんだ?彼女は隣を手でたたいた。こっちに座って。僕は吸い寄せられるようにそこに座る。

 「ここの景色、私も好きなんだあ。いつでも死ねるっている安心感が良くてね。たまに来るんだ」

 彼女の目は遠くを見ていた。瞳は街灯を吸収し、宝石のように輝いている。

 「君もここが好き?」

 横を向く。なびく髪が、僕の胸を弾ませる。

 「まあ…。嫌いと言ったら嘘になる」

 「素直じゃないなあ。好きっていったらいいのに」 

 彼女はくすっと笑ってそういう。言えればいいよ。でも‘‘好き‘‘は簡単に変わってしまう。そんな一時的な言葉、軽はずみにはいえない。

 「私、明日も来るから」

 席を立ち、彼女はそう言い残し僕から去っていく。風が吹いて揺れるスカートは、多分、生きている。


 🌉


 彼女が来ようが来なかろうが、僕は毎日ここへ来る。人生を生きるためのほんのわずかな安らぎを、この場所で感じるために来る。これが僕の日課なのだ。

 今日はいつもに増して車通りが良く、またスピードも出ていた。この橋が落ちたら、あの車にひかれるのだろうか。不思議とこの妄想に恐怖は一切感じず、むしろ安心感さえ覚える。彼女が「いつでも死ねる安心感が好き」だと、昨日話していた。僕と同じだ。もしかしたら彼女も、家に居場所がないのかもしれない。

 「今日も来てる」

 驚いた、という声で、彼女は階段を上ってきた。そりゃまあ、毎日来てますから。

 「もしかして私に会いたくて来たのー?」

 「いや普通にここに来たかっただけです」

 「素直じゃないなー」

 「素直じゃないです」

 僕は遠くの景色を眺める。相変わらず夜は、心を落ち着かせてくれる。彼女もそう思っているのだろうか。

 「ねえ、知ってる?」

 いつものかわいらしい声ではなく、低い声だった。

 「この歩道橋、自殺スポットらしいよ」

 思わず彼女の顔を見る。細い泣きぼくろの目が、僕をじっと見つめる。

 「もしかして、ここにきたのそういう感じ?」

 小声で、僕にそう聞く。自殺ができる場所ではあったが、自殺をしよう、とは思わなかった。

 「別に…。ほんとにここが好きなだけ」

 目をそらす。かわいいのがむかつく。こんな女に、僕の悩みなど知られてたまるか。

 「そっかあ。私は最初死にに来たんだけどね」

 唐突な告白に、平然を装っていながらも目が泳いだ。死?死ぬ?何不自由なさそうな彼女が、死のうと思っていた?

 「でも、この景色見て死ねなくなっちゃった。すごいきれいなんだもん。でも、もしかしたら、死んじゃった人ってこの景色に引き寄せられて死んだのかもとも思うんだ」

 何を言っているのか、さっぱりわからなかった。彼女はスクールバックを持って、

 「君、名前は?」

 と聞いてきた。

 「なんで」

 「いや、名前で呼びたいなって」

 ただの、偶然歩道橋で会った同年代の赤の他人。普通の人なら名前なんて教えないし、虫の居所が悪い人なら、警察に通報しているのだろう。

 「…翔」

 「翔…いい名前!私莉子!じゃね!」

 それだけ言い残して、彼女は階段を下りてしまった。莉子。莉子。頭の中で復唱する。なんだか少し、いつもよりいい日だった、ような気がする。


 🌉


 昨日に増して冷える夜だ。セーターを中に来て、手袋をして、マフラーをかけて。それでも、身震いするほどに寒い。

 「今日冷えるねえ」

 彼女―莉子は、今日も来た。腕をさすって、吐く息は白い。

 「ずいぶんあったかそうだね。対策ばっちりじゃん」

 「いや。十分寒いです」

 「まあだよねー」

 うんうんとうなづきながら、いつものベンチに座る。もうすっかり定位置になっている。僕もその隣に座る。なんとなく、ここが一番落ち着くのだ。

 「ねえ、翔はさ、夜、好き?」

 莉子はいつも僕に質問をする。莉子の質問から、夜の時間は始まる。

 「まあ。嫌いじゃない。過ごしやすいし」

 「そっかー」

 残念と言わんばかりの声。

 「莉子は嫌いなの?」

 「うーん嫌いではないかな。普通」

 「じゃあいつが好きなの」

 「あさかな。明るい光が私を照らしてくれると、今日も生きてるって思う」

 「変なの」

 「変なのは君の方だよ。夜なんて、眠いだけで面白くないよ?」

 夜は、僕の心を感傷的にさせてくれる。それは、僕を救う助け舟なのだ。

 「僕はゆうひを見た方があさを感じるな」

 「ゆうひなのにあさって。変なの」

 莉子は笑って、僕の肩を軽くたたく。たしかにそうだ。顔を赤くする。それに気づいたのか、「ふふん」と笑いかける。

 「でも、今は夜も好き」

 足をぶらぶらさせ、そして。

 「君に出会えたから」

 思考が止まった。体も止まった。こんなこと言われたの、生まれて初めてだ。数少ない友達にすら言われなかった一言。彼女はすでに階段を下りていたが、僕は動くことができなかった。


 🌉


 恋は、あやかしだ。僕の理性を奪いに来る、妖怪なのだ。そして恋の方程式は、誰にも解けない。相対性理論よりも難しい、超難問なのだ。なんかこんな歌あったな。まあいいや。

 そんなくさいことを考えながら、今日も彼女は来るのだろうと、心を躍らせている。吹き抜ける刺すような冷たい風も、今日は気にならない。これが恋というやつだ。多分。

 だが、いつまでたっても彼女が現れることはなかった。思い返してみれば彼女は「毎日来る」など言っていないのだ。今まで来てたのも珍しいくらいだ。そろそろ風邪をひきそうなので、あきらめて帰ることにした。その時。

 「いやあ…ごめんごめん遅くなっちゃった」

 息を切らして階段を駆け上ってきた莉子が、あきらめた僕の視界に飛び込んできた。

 でも、そこにいるのはいつも見ている莉子じゃなかった。髪は乱れ、スカートは丈があっておらずガタガタ。おまけにいつもつけている丸眼鏡はなく、目がはれている。誰かと喧嘩したのか。いや、違う。ああ、そうか。

 「…遅くないよ」

 僕は莉子の元へ歩いていく。床に倒れこむ彼女の背中をさする。

 「実はね…私…」

 身構える。次にどんな言葉を言われてもいいように。固唾をのむ。


 いじめられてるの。


 分かってた。うすうす気づいてた。僕がそうだったから。こんなとき、どう返せばいいのだろう。どう返したら、当時の僕が救われたと感じるだろう。


 そっか。


 口をついて出たのは、励ましの言葉でも、疑問でもなかった。ただ、うなずくことしかできなかった。


 🌉


 繰り返すことになる。彼女はかわいい。それ故に、同じクラスの女子から虐げられる存在だったそうだ。理解はできないが、よくある話だ(といったら被害者に失礼だが)。自分よりいい人に嫉妬し、悪戯をするのはよくある話だ。人間の本性というものなのだろうか。

 日常的ないじめに耐えられなくなった彼女は、先週飛び降りようと決心したらしい。場所を、自殺スポットで有名なここに決めて。

 でも彼女は飛べなかった。この景色に見惚れた、というのはどうやら本当だったらしい。「ここに来るために生きる」と思える。ここは彼女にとってのオアシスだった。

 そんななか僕を発見した。どうやら今まで時間がずれていたために会うことがなかったが、偶然彼女が遅れてきたとき、僕を見つけたそうだ。そして、今に至る。彼女にとって歩道橋は心の支えであり、僕は生きる理由だった。


 🌉


「ごめんね、こんな重い話」

 話し終わった彼女は、まだ瞳を潤わせている。

 「いいよ。僕もいじめられてたし」

 運動ができなかった僕は、部活内でいじめられていた。顧問も見て見ぬふりをして、誰も助けてはくれなかった。学校に居場所がないというのに、家にもなかった。安心する帰る場所が、僕にはずっとなかったのだ。

 「気持ちがわかる…なんて言っちゃいけないってわかってるけど、でも、なんでも言って。力になるから。だって僕は」

 鼻を啜る彼女は、顔を上げて僕を見る。驚いた顔をしている。


 だって僕は、莉子が好きだから。


 紛れもない、本物。唯一揺らぐことのない本心は、夜の暗闇に溶けて消えた。


 🌉


 「え…」

 「あ…ごめん…忘れて?ちょっと勢いに任せていい過ぎたっていうか」

 もじもじと言い訳をする僕の心を見透かすように、少し笑ってこう言った。

 「今日が一番幸せな日だ」

 彼女はふらふらと歩き、歩道橋の策に手を添える。

 「ねえ、この前、ここが自殺スポットだって話、したでしょ」

 涙で濡れた顔で精いっぱい笑顔を作りながら、そういう。

 「私、ちょっと理由が分かったかも」

 柵に座る莉子。風で揺れる髪が、より美しさを際立たせる。

 「翔はさ、ほんとは死のうとここに来たでしょ」

 彼女の前で、嘘は通用しない。その通りだ。一番最初の動機は、死ぬためだった。

 「私を、君の永遠にしてよ」

 華奢な体は、空に浮いて、そして地面にたたきつけられた。


 🌉


 彼女に忘れられない呪いをかけられたみたいだ。しばらく歩道橋には行けていない。噂によれば、あの後すぐに遺体が発見され、回収されたようだ。遺留品も遺族のもとに届けられ、家族葬が行われたそうだ。全てネットニュースで知った。

 彼女は僕の告白に喜んでいた。ならなぜ、あの日飛び降りたのだろうか。それだけがずっと心残りだった。おそるおそる、久々に歩道橋に向かった。

 あの夜、色々起こった歩道橋は、今日も平然と自分の仕事をこなしている。誰も通らない橋の上に、僕一人。


 ―もしかしたら、死んじゃった人ってこの景色に引き寄せられて死んだのかもとも思うんだ。


 莉子の言葉がフラッシュバックする。確かに、この橋から見る景色はとてもきれいだ。僕は柵に向かってゆっくりと歩く。この景色は、僕を飲み込む。柵に上り、景色を一望して、息を吸い込む。

 この先に、莉子が待っている。

 僕はゆっくりと体の重心を前に倒した。

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I miss you れいとうきりみ @Hiyori-Haruka

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