花嫁は患者を選ばない――魔王城診療録
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話 黒い召喚陣と“花嫁”の指環
夜は、井戸の底のように深く、静かだった。
風が止むと、辺境の診療院は息をひそめる。藁葺きの屋根は冷え、土間の灯は壺に閉じた火のようにかすかで、患者の寝息だけが時間の継ぎ目を縫っていく。セレスは石台に広げた帳面へ最後の走り書きをほどこし、墨のにおいと指先の痺れを確かめると、小さなランプの火を絞った。――これで今夜は終わりだ。外は霜、明け方には背戸の桶が薄氷でふさがるだろう。
扉がかさりと鳴った。
「先生」
呼び声は幼い。孤児院の子の一人、白ヤギのように臆病なミオだ。
「どうした、眠れないか」
「夢を見たの。黒い輪っかが先生の指に吸いつく夢」
子どもの夢はしばしば未来の端を引っかけてくる。セレスは笑って、ミオの髪を梳いた。
「輪っかじゃなくて包帯なら歓迎だがね」
「ちがうよ。黒くて、鼓動があって……」
そこで言葉は途切れた。扉よりも暗い影が、部屋の床に広がったからだ。
最初に変わったのは、空気の密度だった。
灯が揺れ、輪郭が水の底のように歪む。土間のひび割れが黒い墨汁で満たされるみたいに光を失い、そこから、紋が起きた。紗で織ったような細い線が、円を描き、円は花弁をかたどり、それらが何重にも絡み合って、床一面に“陣”の図形を咲かせる。
セレスはミオを抱き上げて寝台に押し戻し、咄嗟に掌をひらいて、かすかな浄化の術式を唱えかけた――が、間に合わない。
直後、世界はひとつ息を吸い込んだ。
落下――ではない。
引き抜かれるのだ、とセレスは思った。毛細血管から針で血を抜くように、現実そのものが極細の流路に延びていく。視界の端で壺の火が弾け、帳面のページが翻る。ミオの叫びは厚いガラスの向こうに押しやられ、音の輪郭が次第に薄く薄く溶けて、最後に、黒がすべてを吞み込んだ。
*
石の匂い。
冷たく、乾いた、黒曜の匂い。瞼の裏でゆっくりと光がひらく。
セレスは片肘で上体を起こした。足の裏に触れるのは磨き込まれた黒い床。遠くまで反射するほど平らで、けれど鏡ではない鈍い艶。視線を上げると、階段。さらにその上に、玉座――黒曜石の塊を彫り抜いて作ったような高座がそびえ、背後には裂けた夜空のような天蓋、そこに薄い銀の鎖が垂れて風もないのに微かに揺れている。
「ようこそ、辺境の治癒師」
声は低かった。洞窟に火がともるみたいに、言葉が空間の温度をわずかに上げる。
玉座にいた。角を戴く影。銀ではない、鉄でもない、夜の結晶のような黒角が、こめかみから後方へ流れる翼の骨のように伸びている。瞳は深い赤――いや、赤の手前の色、葡萄酒の底でひそむ熱。喉の奥で名前ひとつが音に変わる。
「……魔王」
「名はアレクシス。この城の主だ。多年の誓約により、おまえを我が“花嫁”として迎える」
間髪をいれず告げられた宣言に、セレスは一拍、言葉を見失った。
「花嫁、とは、比喩ではないのか」
「比喩で王冠は支えられぬ」
口元がわずかに笑う。笑いなのに冷えた刃に似て、近づけばこちらが切れてしまいそうな、端正な危うさ。セレスは呼吸を整え、周囲を見渡した。左右に控える影――黒衣の壮年の男と、白い外套の青年、それから甲冑に黒紋を刻んだ守衛たち。すべての視線は掴んで放さない針のように、セレスに突き刺さっている。
「誓約など交わした覚えはない。私は辺境の診療院で――」
「覚えがないのは、おまえだろう」
魔王は指をひらいた。
黒い指環が空を切る。指輪の内側で、金の糸が一瞬光ったかと思うと、飛来したそれは音もなくセレスの左手へ――避けた。はずだった。
だが、避けられなかった。
指環は、まるでそこに昔から居場所があったみたいに、薬指に吸いついた。
冷たい。
氷水を流し込まれるような冷たさではなく、傷口に金箔を貼るような、乾いた冷。指の皮膚がきゅ、と内側から縮み、脈拍に合わせて指環の内側が微かな鼓動を返す。……心臓の速さではない。もう一つの、別の拍動。
セレスは反射的に左手を握り締めた。抜こうとすればするほど、指環は瞬きのあいだに微小な棘となって皮膚の内側へ沈んでいき、やがて痛みは消え、代わりに、遠い海鳴りのような呼吸が耳の底で満ち引きを始めた。
「やめろ」
声が出た。耳鳴りに似た呼吸音は止まない。
「これは契約の半分だ。もう半分は言葉。だが言葉は、おまえの選ぶタイミングでよい」
魔王の声音は不思議な柔らかさを帯びていた。
セレスは眉間に皺を刻んだ。
「勝手な話だな。私の承諾もなしに」
「勝手に命を救っていったのは、そちらでもある」
一瞬、空気が変わった。
セレスは即座に自分の感情を閉じる。こちらが揺れれば主導権は向こうに移る。診療所で学んだ術の一つ――心の呼吸を整え、目の表面に薄膜を落とす。“診眼”をひらく時と同じ手順だ。
視る。
まずは呼吸。胸郭の拡がりは浅いが律動は正確。下腹へ落とす呼吸――鍛えた者のパターン。
次に皮膚。色は夜の金属、しかし耳殻の内側は人に近い血潮の温度を映す。
そして目の縁、涙丘のわずかな乾き。
――疲れている。長距離の跳躍か、あるいは、この場所自体が彼に負担を強いるのか。
「こちらを視るな」
魔王がわずかに身じろぎした。気づかれた。
セレスは“診眼”をすっと閉じ、左手を下ろす。指環の内側の鼓動が、さっきよりも規則的だ。こちらの呼吸に合わせるのをやめ、向こうの心拍へ同調し始めている。
「高座でお話のところ恐縮だが、誓約の由来を伺っても?」
「ここでは落ち着かぬな」
魔王が立った。マントの裾が石を薙ぎ、黒曜の床に薄い影を置いていく。
「ダントン」
黒衣の壮年が一歩前に出た。眼鏡の奥の瞳は感情を示さない鏡のようだ。
「花嫁の身支度を。……それと、療堂を一室、用意しておけ」
「畏まりました、陛下」
あまりに自然に告げられた“療堂”の二文字に、セレスは目を瞬いた。
「患者を診る場所を、いただけるのか」
「おまえの矜持は聞いている。捕虜ではなく患者。……そう言ったと」
いつ、誰に。問いかけは喉で止まった。黒衣の男――ダントンが手を差し出す。
「こちらへ。花嫁様」
「その呼び方は、胸焼けがする」
「烏龍茶に梅干しをひとつ落とせば治まるかと」
乾いた冗談が飛んだ。セレスは小さく噴き出し、同時に、距離の測りにくいこの執事が底の知れない池のように思えた。
階を降りる途中で、白い外套の青年が壁から離れる。
「宮廷魔術師、ルーメンだ。ひと目で気に食わないが、陛下の命で同行する。逃げても無駄だ」
「逃げない」
セレスは短く返す。
「逃げ道を先に見ておくだけだ」
「言うじゃないか。……ほら、指環の鼓動、分かるだろう? それが、おまえの逃げ道の終点だ」
左手の内側で、規則正しい鼓動が波紋のように広がる。セレスは深呼吸し、心臓の早まりを押さえ込む。
――恐れるな。恐れは手を震わせ、手は患者の痛みを増やす。
師から習った言葉を、心の中で唱える。
案内されたのは、北塔の中腹に設えられた小部屋だった。
石の部屋だが寒くはなかった。壁に埋め込まれた黒鉄の管に温風が流れている。窓は狭く縦に切ってあり、風景は細い額縁に収めた絵のように見える。遠く、闇の平原。さらに遠く、凍った川。
「灯りと水は紐を。夜間は下層に降りないこと。獣舎は臭い、台所は熱い、記録庫は危ない」
ダントンがひとつずつ説明し、最後に、銀の茶匙を机に置いた。
「これは?」
「護身用です」
「茶匙で?」
「目を突くには十分です」
「……あなたが怖い」
「よく言われます」
そう言って執事は頭を下げ、影のように去った。扉が閉まると、静けさが降りてくる。セレスは左手の指環を見下ろし、そこに落ちた微かな光の輪郭を確かめる。黒金の中を、糸のような金色がときどき走る。鼓動は、もうすっかり馴染んでいた。
ベッドの脇に、洗面台。
水をため、顔を洗う。冷たさが意識を澄ませる。鏡などという贅沢はないが、水面は十分に輪郭を返した。濡れた指で口元を拭う。
「花嫁、ね」
口に出してみると、言葉はちっとも似合わなかった。
セレスは、窓に体を寄せて夜の色を吸い込んだ。魔王城の外の暗さは、辺境の夜と違う。光が少ないのではなく、暗さそのものが濃い。星にまで重力があるなら、ここの夜は星から光を引き剥がして自分のほうへ落とし込んでいる。
――ここは、敵地だ。
意識に刻む。忘れないために。敵だからといって、患者ではない、というわけではない。だが、警戒をやめた治癒師は、患者の命を長く預かれない。
ノック。
返事より早く、扉は半分だけ開いた。
「近衛隊長のガルドだ。見回り。問題は」
「ない」
彼は大きかった。肩幅が扉の枠いっぱいに見える。兜は脱いでいるが、髪は短く刈り上げられ、顎には古傷。瞳は獣に似て、観察の眼差しは武具のように硬い。
「陛下の命により、当面はこの階に兵を常駐させる。……花嫁殿」
「その呼称、やめてくれないか」
「公的にはそうだ。私的には、治癒師殿でいい」
「それは助かる」
「助け合いは嫌いじゃない」
彼は唇の端だけで笑い、目は笑わないままだった。
「寝る前に、いくつか忠告を。ここでは“視ない”ほうがいいものがある。夜中の窓の外、塔の陰、階下の糸車の音。覗けば、覗き返される」
「覚えておく」
「それと……陛下は、ひとに見せないものをたくさん持っている。しつこく問うと、黙る」
「すでに学習しつつある」
「なら、いい」
ガルドは踵を返しかけて、扉に手を置いたまま、ふと思い出したように付け加えた。
「おまえが来てから、城の風が変わった。良いか悪いかはまだ分からない」
「どちらにも出来る。その匙加減を、私は知っているつもりだ」
「なら、花嫁殿――治癒師殿。寝るのも治療のうちだ。休め」
扉が閉まる。セレスは再び窓に眼をやり、吐く息を白く曇らせた。
眠りは浅く、短かった。
どこか遠くで鐘が鳴り、金属の軋みが塔の骨組みに伝わってくる。左手の指環は従順に、向こうの鼓動を運びつづける。数を数えた。五十で一度、百で一度、僅かに拍がズレる。そのたびに、体温が変わる。こちらの皮膚が、それに合わせて汗腺をひらいたり閉じたりする。距離の向こう側の体調が、まるで枕元で寝返りを打つかのように伝わってくる。
朝は、突然、割れた。
笛の声。兵の靴音。廊下を急ぐ気配。ノックではなく、拳で叩く音。
「治癒師殿、起きているか!」
ガルドだ。
「起きている。どうした」
扉が開き、鋼の匂いが流れ込む。
「下層の井戸で小鬼が倒れた。瘴気の噴き上げだ。魔法隊が来る前に診られるか」
「ふたつ質問。まず、井戸はどの程度深い。次に、その小鬼はどのくらい小さい」
「深さは三十尺。小鬼は……小さい」
「説明が雑だ」
「行けば分かる」
セレスは外套を引っかけ、肩に小さな袋をはねかけた。袋には、乾いた布、薬草、針、糸。どこの世界でも変わらない医療の最小単位。
「ルーメン」
曲がり角に寄りかかっていた白い外套が、面倒そうに身を起こす。
「起きているなら先に言ってくれ」
「起きていた。言わなかっただけだ」
三人は階段を駆け下りる。階段の踊り場ごとに窓があり、冬の光が薄く差し込む。下層へ降りるほど空気は湿り、金属の匂いが強くなる。やがて、井戸。円形のフロアの中心にぽっかり開いた黒い口。周囲に集まるのは兵、下働き、そして、泣いている小鬼の親らしき者。
覗き込むと、底に黒い霧がうずまいていた。
「降ろせる縄は?」
「これだ」
ガルドが太さのある縄を投げる。
「待て。おまえが降りるのは筋が違う」
「患者を選ばない――と解釈してくれていい」
セレスは器用に縄を腰に回し、結び目を確認して縁へ立つ。
「ルーメン、霧が濃すぎたら上から風を入れてくれ」
「命令するな」
「頼んでる。お願い」
「……三呼吸だけだ」
セレスは笑って、井戸へ降りた。半ばまで降りたところで、霧の匂いが鋭くなる。肺がむず痒く、舌の奥に金属の味。底に近づくほど、霧の粒子が光を吸い、世界が濃度で満ちていく。
底へ。水はない。石の床に小さな影が折りたたまれている。小鬼――角は柔らかく、肌は灰。体温はすでに危うい。胸は弱く上下し、呼吸は早いが浅い。
「大丈夫」
セレスは膝をつき、手短に触れる。脈はある。瞳孔は縮んでいる。霧の影響を受け、呼吸反射が過敏になっている。
「上へ引き上げる。……いや、待て」
上で、ルーメンが短く呪文を唱え、風が井戸の壁に沿って渦を巻いた。霧が裂け、一瞬だけ視界が開く。セレスはその瞬間に小鬼を抱き、縄で自分と括る。
「いける」
「引け!」
ガルドの声。縄がきしみ、セレスは小鬼を胸に抱いて、井戸の壁に足を突いて昇る。肩の筋が悲鳴を上げる。息を吐くたび、霧が喉に刺さる。――上だ。縁の手が伸び、腕を引く。床に転がる。
「離れて」
セレスは小鬼を寝かせ、手早く体を横向きにし、背中を撫でて咳反射を促す。粘ついた黒い唾液が口からこぼれる。喉の奥を軽く押して反射を引き出す。呼吸は少し深くなった。
「水を。……いや、温かい布を」
誰かが布を渡す。セレスは顎の辺りを拭き、胸の前に置く。
「過敏になった気道を落ち着かせる。刺激するな」
小鬼の腹がふっと柔らかくなる。泣いていた親がすすり泣きを止め、床に額をつける。周囲から、押し殺した安堵の吐息が漏れる。
セレスは立ち上がり、指の骨を鳴らした。
「井戸の霧は排出できる?」
「時間をかければ」
ルーメンが肩をすくめる。
「ならば、換気を。人間にはきつい。魔族でも子どもは危ない」
「命令するな、と言った」
「忠告だ。命令なら、もっと嫌な顔をするだろう?」
「……生意気」
ルーメンが鼻で笑い、指をはじいて換気の符を浮かべる。ガルドは縄を片付けながら、セレスの肩を一度だけ叩いた。軽いが、重い意志を含んだ叩き方だった。
そのとき、空気の密度がもう一段、変わった。
人の気配。いや、王の。
黒の端正が歩いてくる。誰も告げはしないのに、廊下が、視線が、呼吸が彼のために道を開ける。セレスの左手の指環が、わずかに熱を帯びた。向こう側の鼓動が、近い。
「朝から井戸仕事か」
アレクシスの声は、薄い皮肉の色を持っていた。
「どうやら私の花嫁は、手を汚すことにためらいがないらしい」
「医療の現場は清潔だが、いつだって汚い」
セレスは乾いた声で返し、裾の泥を払う。
「――花嫁呼びは、そろそろ料金を取りたい」
「後で払おう。高くつくのは嫌いではない」
言葉の端が、少しだけ柔らかい。周囲の兵の肩がわずかに緩み、ルーメンが攻撃性を引っ込めるのが分かった。緊張は伝染するが、緩和もまた伝播する。
「誓約の由来を教えると言っていた」
セレスは視線で王を射た。
「時間はあるか」
「あるとも。おまえが時間を作ると言えば、王国は動きを止める」
「それを権力と言う」
「そして、権力の使い道だ」
アレクシスは手を差し出す。取れ、と目が言う。
セレスは半歩、躊躇し、結局、指先で触れるだけにとどめた。指環の内側で、鼓動がひとつ、跳ねる。
「……記録庫へ行こう。昔話は、古い紙に囲まれた場所のほうが匂いが合う」
王はそう言って踵を返す。セレスは彼の背に並びかけ、しかし一歩だけ距離を空けた。
「ダントン、療堂の支度は」
「すでに」
階段の上で、黒衣の影が音もなく頭を垂れた。
「花嫁様が患者を選ばれぬと仰せですので。こちらも世話を選ばぬ覚悟で」
「頼もしい」
「おためごかしを」
乾いたやりとりの奥で、人界と魔界の憎悪は厚く、深い。だが手当は、厚さを少しずつ薄くする。
セレスは自分に言い聞かせる。これは始まりだ。捕虜の始まりでも、支配の始まりでもなく、“医療”の始まり。
指環の鼓動は、さっきよりも穏やかだった。向こう側の心臓が、どこか、静かに整っている――そう感じた。感じてしまった。
それが弱点なのだと、分かっていても。
記録庫は、城の腹の奥にあった。
厚い扉。古い契約文字が銀釘で打たれ、開閉のたびに薄く鈴の音がする。内部は乾燥していて、ページの匂い、革の匂い、古いインクの匂いが層を成して積もっていた。高い書架は人の背の三倍はあり、梯子が縦横に走る。
「人の閲覧、禁ず」
扉の守護者が、まるで生き物のように告げた。
アレクシスが言葉を返す。
「王の番は例外だ」
守護者は沈黙した。許された。
セレスは足を踏み入れ、空気を一口、飲み込む。紙の粉が舌に落ち、記憶の門が音もなくひらいた。
最初の棚は、古い地図。次の棚は、交易記録。さらに奥、ひっそりと、薄墨の背表紙が並ぶ一角がある。アレクシスは迷いなくそこへ向かい、指先で背表紙をなぞった。
「“花嫁”の記録だ」
ぱらり。ページがめくれ、名前が列をなした。異界の名、人界の名、魔族の名。抹消の線。生還者の少なさ。
「……陛下」
セレスは静かに言った。
「これは、あなたの王朝の呪いか」
「呪いというのは便利な言葉だな。責任を抽象に押しつけられる」
「では、責任は誰に」
「私に。いつだって」
アレクシスは本を閉じ、セレスに視線を向けた。
「昔話は、簡単には終わらない。おまえが来たことで、終わり方の選択肢が増えた。それが、誓約の由来だ」
「意味がよく分からない」
「今はそれでいい」
王は珍しく、逃げた。
セレスは追わない。追い詰められた患者は、最悪のタイミングで最悪の告白をする。準備が整うまでは、沈黙は薬だ。
……だが、一ページだけめくる。
記録の末尾。薄墨で、まだ乾ききっていないインクの滲み。
“セレス”という字形が、そこに、あった。
胸の内側で、音がひとつ欠けた。
左手の指環が、それを埋めた。代わりに鼓動がひとつ、増える。
セレスは目を閉じ、呼吸を数えた。
五つ。十。十五。
目を開けると、王は扉の前に立っていた。
「昼には城下へ降りる。療堂のためだ。護衛をつける」
「患者を攫いに来るのか」
「買いに行くのは、薬だ」
王は小さく笑い、そして、ふと真顔になった。
「セレス」
はじめて、名を呼ばれた。
「陛下」
呼び返す。
「危ないことはするな。……と、言っても無駄だろうが」
「無駄だ。だが、予防接種の代わりに忠告は受け取っておく」
「なら、よい」
二人は記録庫を出た。扉の鈴が、古い銀の音を吐き、ゆっくりと閉まる。
廊下の奥で、ルーメンが頬杖をついていた。
「読んだ?」
「読んだ」
「泣く?」
「泣かない」
「強情」
彼は肩をすくめ、マントを翻して先に行く。ガルドは壁にもたれ、腕を組んだまま、二人を一瞥するだけで道を空けた。ダントンはどこからともなく現れ、セレスの襟元の埃を指先で払う。
「花嫁様。城下は人が多い。足下にお気をつけて」
「ありがとう」
「どういたしまして」
執事は微笑むでもなく、ただ、次の段取りへ身を滑らせる。城は巨大な生き物で、ひとつ命令が出れば何千もの血管が同時に動き始める。セレスはその体内へ、医師として踏み入れていく。
階段を降りる途中で、ふいに左手が熱を帯びた。
鼓動のリズムが早まる。――アレクシス?
振り返ると、王は一段下で立ち止まり、ほんの少しだけ息を整えていた。
「大丈夫か」
「大丈夫だ」
短い返事。だが、“診眼”の膜をひらかずとも、分かる。疲労は、確実に彼を削っている。
セレスは言葉を飲み込み、前を向いた。歩幅を、ほんのわずかだけ、彼に合わせて狭めた。
城門が開く。
冷気が頬を刺し、群青の空が広がる。城下は朝の仕込みでざわめき、香草と油とパンの匂いが混ざる。遠くで子どもが笑い、近くで商人が声を張り上げる。
誰かが囁く。「魔王の花嫁だ」。
別の誰かが舌打ちする。「人間め」。
第三の誰かが、ため息をつく。「……でも、朝に井戸から子を引き上げたのは、あの白衣だろ」
囁きは風に混じってほどけ、視線は矢のように集まるが、今はまだ、射手を持たない。
セレスは、黒衣の王の影を横目に、白衣の袖をまくった。
治すべきものは、いくらでもある。
恐れるべきものも、いくらでもある。
だが、歩むべき道は一本だ。指環の鼓動が、足取りの拍を刻む。
――捕らわれの“花嫁”ではなく、患者を選ばない“治癒師”として。
そして、それがどれほど危うい綱渡りであっても、彼は渡ると決めていた。
渡る先に、王の孤独の終点が、あるような気がしてならなかったから。
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