五
「素敵な夜をありがとう」
「こちらこそ、また来てね」
オリガ・イワノーヴナ軍曹は、何かが抜けたような表情で女に手を振った。【
両手を後ろにやり、オリガは物思いに耽った。部隊長はしばらく武器の変更に忙しいから、構う必要はないだろう。副長仲間のオノ・セリナ軍曹は、今頃訓練場で一服しているはずだ。
オリガは訓練場の使用状況を確認した。空いている。セリナがいると確信した。
【
オリガは一目散に走り出した。
訓練場とは名ばかりの廃墟に入ると、すぐに嗅ぎ慣れた煙草の臭いがした。
「セリナ」
「あれ、オリガじゃん、おつかれ」
セリナの口元に灯がともっていた。
痩せていて贅肉がなくすらりと伸びた長身と、ギザギザのウルフカットの髪型、長細い手足はオリガの好みに合っていて、思わず声をかけたくなってしまう。【歓楽区】にいたらなあ、と思うこともあった。
もちろん、セリナには、想い続けている人がいることも、オリガは知っていた。
「また【歓楽区】の女と遊んできたでしょ?」
「うん」
「エロい香水の臭いがする」
「やっぱり?」
「あとニンニク臭え。ヤる前に
「えー? 消臭剤飲んだのになあ。女の子に嫌われてないかな?」
オリガが苦笑しながら手を振ると、セリナは煙草を一本手渡し、そのままライターで灯をつけた。
「ほんとさ、あんまり行かない方がいいよ、あそこは」
「いいじゃん。【
そう言って、そういえば、この【詰所】で【V】同士の「そういう関係」ってあんまり聞いたことがないな、とオリガは思った。
「僕さ、自分の【
「へえ。ウチにはよくわかんないな。【
「まあ、別に、僕も全然知らないよ。僕が閲覧できる情報では確認できなかった。僕が知っているのは
「ああ、その話、有名だよね」
「本人も、そこに誇りを持っているからね」
【
その工程の中で、見た目を人間に近づけるため、実在した人間の
【参照元】により形を成した【
「思うに、結局僕ら【
「ふむ、なるほど。ところでさ、本当に興味本位なんだけど、オリガはなんで【
セリナはふーっ、と長い息を吐いた。煙草の煙が長い糸のようにたなびく。
「うーん、なんとなく、いい結果にならないだろうな、と思ったんだよね。それに、おそらく【
「そういうのってわかるもん?」
「なんとなくね。もっとも、僕は拒否しちゃったから、【
オリガの煙草が明るくなる。
「ちょっと思ったんだけど。『ルイッツァリ』ってさ、確か『
「いや、多分、【
「まあ、今はそうなってるけど、それはここの公用語が
図書館で得た知識だった。
「
「よく知ってるなあ」
「ここ来る前、図書館で働いてたんだ」
「それでも、調べようとしなきゃそういうのってわからないじゃないか」
オリガは大きく息を吐いた。煙が丸く吐き出される。
「まあ、確かにね」
セリナはあまり考えたことがなかった。図書館で働いている以上、そこに集まる情報には精通している必要があると考えていたからだ。
「そういえば、日本語だと、【
「なるほど、
オリガはけだるそうに息を吐いた。
「君は、まさに志願してなったわけだろう?」
「そうだね」
「君の『
セリナは顔を真っ赤にした。
「ばっ……」
「なんだか羨ましいよ」
オリガは力なく笑う。セリナは怪訝そうな表情をした。
「好きな人がいたとして、身体も中身も変わってしまったら、僕は愛せない」
セリナは一瞬まごついたあと、神妙な顔になった。
「言われてみれば、普通そうだよな。見た目も、中身も変わってしまったらほぼ別人なのに、どうしてなんだろうな。改めて言われると、わからないや」
「でも、変わらないんだろう? 気持ちは」
「うん、まあ――そうだな」
短くなった煙草を携帯灰皿に投げ込み、セリナは座り込んだ。
果たして、本当に変わらないのか。
そう思い込んでいるだけではないのか。
セリナは一瞬だけ、自分を疑問に思った。
「しかしまあ、なんだな、【
「ああ……まあ」
セリナはその間違いを正す気にはなれなかった。かれは【V】がなぜそう呼ばれているのかを知っているが、それがおいそれと口に出せるようなものではないことも同時に知っているからだ。
セリナは図書館の閉架に納められた、【V】を創り出した、オガシラ・マサル教授の記事を思い出す。教授は日本人だった。だからこそ、人間から【V】になる者のことをわざわざ【
「さて、僕はもう寝るよ。これで明日の任務もこなせそうだからね」
オリガは煙草を地面に投げ捨て、踏み潰した。
「明日の任務って何?」
セリナはつとめて表情を変えずに聞いた。
「
「ああ、たしか、シバタって言ったっけ」
最終訓練の時、行動不能になったハギワラ・ミツキを抱えたことにより、【
「そうそう、シバタ・アカネ。なかなか見所ある子でね、随分器用でよく気がつくんだよ。しかもすこぶる強い。何せアリシアとの初訓練で一本取ったんだ」
「アリシア? 配属してすぐ伍長に昇格したっていう、あの?」
アリシア・ジョンソン伍長は、六十一期に現在のハギワラ・ミツキと同じく一等兵で配属され、配属されて数回の戦闘でその手腕を買われ、現時点では唯一、配属期での伍長昇格を遂げた【V】であった。
「そう。あいつ、【
オリガは思わずクスリと笑顔を漏らした。
「とにかくアカネは本当に大したやつだよ」
【
「今、【
「いや、ああ、まあそうではあるけれど、そうだな、アカネじゃなくたって、【
図星を突かれ、オリガは少し慌てた。
こほん、と苦し紛れに咳払いをする。
「それこそ、サエグサや君はそうだ。特に、第一部隊長なんていうのはどこだって、その【
「そうなの?」
「そうさ。確かに【
セリナは頷かざるを得なかった。
「サエグサも君も、第一部隊の部隊長と副長に、なるべくしてなっている。そして、おそらくアカネは、いつの日か第一部隊長になる。そんな気がする」
「へえ、そこまでの力があるんだ」
訓練の時は、そんな力があるようには感じられなかった。もっとも、セリナはそこまで目を配れるような状況にいなかったが。
「ま、そういうことさ」
オリガは鷹揚に歩いて行った。
セリナは、踏み潰された吸い殻を拾って、携帯灰皿にしまった。
残っている【防衛統括本部】は、実は
そんな噂もセリナは耳にしていた。
それでもセリナは、自らに課せられた最大の任務を握りしめていた。
「ハルカ……」
届かなくてもいいから、せめて償いを。
セリナはふたたび、煙草に灯をつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます