第3話
十二月になると、アリスの誕生日に、僕と隆司はプレゼントを渡した。カシミアの紺のマフラーだ。隆司はスーパーマーケットに行って食材を買い、料理をつくった。イタリアンの料理だった。僕はその年のボジョレー・ヌーボーを買って、開けた。
「ありがとう」と言って、アリスは笑った。
その日は、とても寒かった。僕はエアコンのスイッチを入れ、部屋を暖めた。隆司は暖炉に薪をくべ、火をつけた。暖炉の音がパチパチと響き笑った。
「二十七歳になるまで、あと二年」とアリスは言った。
「二十七歳?」と隆司は訊いた。僕は彼に二十七クラブの説明をした。
「人の死は、神様の御意志に依って成立する」
僕はボジョレー・ヌーボーをグラスに注いで、アリスの目を見た。
「ディスクジョッキーの恋人は、二十七歳のときに亡くなったわ。そのときに、私は街を失ったのよ。二年間、彼の姿を求め、空洞の街を彷徨っていた。カフェで、あなたと出会うことがなかったら、私の人生はもう駄目になっていたと思う」
「確かに、僕たちは運命的に出会った」
「だけど、私は再び街の魔力を浴びた。アルコールに、ロックンロール、クラブイベント、若い男女。街を失った私の目の前に、街はその姿を見せ始めた」
「アリス」と隆司は言った。
「私、街に戻りたくなったわ」
その言葉は、僕の胸を抉った。僕はアリスにボジョレー・ヌーボーを注いだ。その液体の輝きは、僕たちの目を奪った。
「街に戻る?」と僕は訊いた。
「そう。毎週末、私は街のホテルに泊まる。週明け、海辺の町に帰って来る。だって、二十七歳になるまで、あと二年しかないじゃないのよ」
アリスは本当に、二十七歳になると死ぬと思っている節があった。僕はアリスの心変わりに、驚いた。隆司も同様のようだ。
「君は街を失った」と僕は言った。
「しかし、街は輝いたわ。ひどく、魅力的に私の目に映った」
僕たちは黙っていた。アリスは誕生日プレゼントを自室に仕舞うと、微かに笑った。僕と隆司は煙草を吸って、彼女の姿を見た。
翌年、僕たちのブログ『ドント・ストップ・フィーリング・ラヴ』はチャートの上位に位置し、様々な反響を背負うようになった。とくにアリスの小説の調子は良く、複数の出版社が彼女に声を掛けた。高名な小説家の娘という事実も拍車を掛けた。春の初めくらいになると、アリスは海辺の町に姿を見せることが極端に少なくなった。そのことを僕たちは寂しく思った。
「時制だね」と隆司は言った。
僕は彼にコーヒーをつくり、出した。
「俺は街に戻ろうと思う」
僕はセブンスターに火をつけた。
「だって、もう此処にアリスはいないから」
「僕は黙って、彼女の帰りを待ってみる。彼女にも、帰るところは必要だろうし」
そうか、と隆司は言った。
翌日、隆司は荷物をまとめ、出て行った。僕は海辺の町の広いアパートメントに、たった一人残り、絵を制作した。とにかく、『塔』の絵を描き切り、前に進みたい。僕はそう思い、創作に没頭した。
秋のコンクールの結果は、佳作入選だった。僕はそのことに喜び、笑った。すぐに、高藤さんに報告し、労いの言葉を受けた。僕は春から夏に掛け、『塔』の制作に没頭し、作品を描き上げた。『塔』の絵は、威風堂々とし、其処にあった。僕はリビングにその絵を飾り、あとは海に出て、絵を描いた。そのあいだに、アリスのほうは連絡一つ寄越すこともなかった。
夏の終わりのある日、アリスは突然亡くなった。彼女は街を歩いているときに、通り魔に遭って、ナイフで左胸を刺され、病院に搬送されたあとで翌日に命を落とした。彼女は二十五歳だった。僕と隆司は、アリスの葬儀に顔を出し、お悔やみを申し上げた。彼女の父親は無念そうに、涙を飲み、大きく息をついた。アリスの出版計画は頓挫し、アリスの名は忘却の彼方になった。僕はアリスとの様々な思い出に浸り、涙を流した。きっと、街は彼女のことを古い矛盾として回収し、僕たちの目の前に新しい矛盾を突きつけたのだろう。僕と隆司は葬儀のあとで酒を飲み、話をした。隆司は健康食品のセールスマンとして、活躍し、街の日々を送っていた。僕たちは仲が良かったし、語り合った。
「アリスのいない世界」と隆司は言った。「アリスは間違っていた。海辺の町を出て行くべきではなかったし、ずっと住み続けるべきだった」
「確かに」
「俺たち三人は上手くやっていたし、楽しかった」
アリスを失ったブログ『ドント・ストップ・フィーリング・ラヴ』は、閉鎖した。隆司は忙しくなったし、僕は賞を受けたことでより現実的に絵を描き始めた。
「とにかく、彼女の冥福を祈ろう」と僕は言った。
「そうだね」
秋の中頃に、僕はコンビニエンスストアで知り合った二十歳の女の子と恋仲になり、同棲を始めた。彼女の名前はユカリだった。イラストレーター志望で、横浜の専門学校に通っている。僕は彼女に、様々な贈り物をし、愛を深めた。彼女は駅前のアパートメントを出て、僕のアパートメントに住み、生活を送った。
「いつもたくさんの贈り物を、ありがとうございます」と彼女は言った。
「良いよ」
彼女はじっと、僕の目を見た。
「私は、『塔』の絵が欲しいです。すごく、素晴らしい絵だと思います」
僕は少し迷ったが、『塔』の絵を彼女にプレゼントした。ユカリはすごく喜び、笑った。
「先生と付き合って、良かったです」
その日以降、ユカリは来る日も来る日も『塔』の絵を眺め、時間を過ごすようになった。
毎日、熱心に『塔』を眺めるユカリは言った。
「私もまた『塔』の中にいました」
その言葉は、僕の胸に刺さった。
「『塔』は確かに、私の中に在りました。私は、ある日、『塔』を出て、外で暮らすようになりました。先生の描く『塔』に、強く惹かれ、今に至ります」
ユカリ、と僕は言った。
「先生はきっと、素晴らしい画家になります」
僕はゆっくりと頷いた。
ユートピア前夜 AoiLia @AoiLia2025
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