ユートピア前夜

AoiLia

第1話

 二週間前、僕とアリスは街を失った。街には、様々な魅力があったけども、すべては過去の遺物になっていた。街は多くの矛盾を含み、僕たちの過去にあった。僕は高台に登り、その街を眺め、大きく息をついた。僕の隣には、アリスがいる。夏だった。彼女はオリーブグリーンのサマードレスを着て、プラチナのネックレスをし、微かに笑った。

「街は、静かに胎動を続けているわ」とアリスは言った。

「僕たちはある種の世界を失ったね」

「その世界線の向こう側に、街はあるの」

 僕は公園のベンチに座り、太陽の光を一身に浴びた。空には雲一つなく、風が時折強く吹いている。アリスは目を細め、街を眺めていた。僕たちは二十四歳だった。僕は先日、会社勤めを辞め、引っ越した。アリスはフリーライターの仕事をし、生計を立てている。僕たちは愛し合っているし、深い仲だった。

「君は、街を出たいとある日、言った」

 その通りね、と彼女は返事をした。「街の様々なものが、疎ましく思ったのよ。ヒエラルキー、矛盾、幻惑。そういったものが」

 僕は黙っていた。アリスはベンチに腰を下ろすと、膝を揃えた。公園に、人の気配はなく、静寂があった。僕は腕時計を見た。夕方の四時半だった。

「帰ろう」と僕は言った。

 アリスは目を細め、僕を眺めた。

「そうね」

 僕たちは立ち上がると、高台を下り、駅に行って海辺の町に向かった。その遠い町は、僕たちの新しい生活を彩っている。

 海辺の町に辿り着くと、僕とアリスはスーパーマーケットに行って食材を買って、料理をした。パスタの料理だった。アリスは料理の腕が良かったし、僕たちはゆっくりと食べた。

「街にいるときに、私は狂っていた」とアリスは言った。僕は缶のビールを飲み、パスタの料理を胃の中に入れた。

「君は確かに、狂っていたね」

「毎週のようにクラブイベントに行って、飲み歩いたし、あなたを蔑ろにしたわ」

「僕はそのあいだ、君が戻るのを待っていた」

「愛よね」

「確かに、愛だ」と僕は口にした。

 アリスはカルボナーラのスパゲティーを食べ、赤ワインを少し飲み、静かに笑みを浮かべた。

「音楽とアルコールの組み合わせは人の心を惑わすわ」

「君はクラブイベントの常連だった」

「そう」彼女は軽やかに、僕の顔を見た。

 僕たちは夕食が終わると、ソファに座り、リラックスした。僕はセブンスターを一本吸って、食後のコーヒーを飲み、煙を吐いた。

 そのクラブイベントには、人を取り込み、心を失わせる何かがあったと僕は思う。アリスは二年間、夢中になって其処に通っていた。イベントを通し、知り合いや友人が出来、そのことは彼女を新しいクラブイベントに駆り立てた。

 結局、僕たちは街を失うべきだったのだろう。

 就寝の時間になり、僕とアリスはベッドに入り眠った。海辺の光景はゆっくりと、僕の世界に浸食し、包み込んだ。夢の中で、潮の香りがした。目覚めると、朝だった。アリスはキッチンに立って、和食の料理をつくっていた。

「おはよう」と僕は挨拶をした。

「おはよう」アリスは笑った。

 味噌汁の良い匂いが漂っていた。僕は椅子に座り、料理が出て来るのを待った。


 僕は海辺の町にやって来ると、画材を買って、絵を描いた。その多くは海の絵だったし、僕には人を描くことが出来なかった。

 僕は愛媛県の高校を出ると、東京の芸術大学に進学し、油絵を描いた。コンクールで佳作を取ったこともあった。大学を卒業すると、コンピューター・グラフィックの会社に入り、グラフィック・デザイナーを二年した。

 グラフィック・デザイナーの仕事は楽しかったが、僕は再び油絵に挑戦することになった。その際に、アリスにそのことを言うと、彼女は返事をした。

「実は、街を出ようと思うの」と彼女は言った。

「街を出る?」僕は訊いた。

「街を出て、ユートピアをつくるのよ。私とあなたの……」

 その提案は、とても魅力的だった。僕は会社を辞め、画材を買って、彼女と一緒に海辺の町に引っ越した。


 海辺の町は、神奈川県の海岸線沿いにあった。人けがなく、静かな町だ。僕たちは駅前の不動産屋に行って、アパートメントを紹介して貰い、契約をした。辺りには、潮の香りが漂っていた。

 僕は愛媛県にいた頃、海辺の町に育った。海という場所に、深い憧憬があったし、僕は幼いときに、海に出て、海水浴をしたり、釣りをしたりした。両親は共に小学校の教師だった。僕は一人っ子だったし、友達は少なかったが、よく海を観に行った。

 二年前、アリスが入った会社は雑誌社だった。彼女は大学を卒業すると雑誌社のライターとして、記事を書いた。主に、フードライターだ。アリスの書く文章は、鮮やかに輝いたし、綺麗だった。彼女もまた、海を魅力的に思っている。海が持っている光に、興味があるそうだ。

「僕は海の光を色に変換し、描くよ」

「そうね、あなたの絵は本当に素晴らしいわ」

 そして、海辺の町で僕たちの共同生活は始まった。アリスは週に二度、東京に行って、取材を行い、アパートメントに戻り、記事を書いた。僕は海の絵を描いて、知り合いの画商に売り、日銭を稼いだ。

 僕たちの生活の拠りどころが其処にあったと思う。


 一年前の雨の日に、僕とアリスは街のカフェで出会い、顔を合わせた。長い雨だった。彼女はアルベール・カミュの『異邦人』を読み、コーヒーを手に取った。僕はサンドウィッチとコーヒーのランチを取り、彼女と相席になった。僕は一目見て、彼女のことを美しいと思った。

「雨がよく降りますね」と僕は話し掛けた。

 彼女はゆっくりと目をこすり、微かに笑った。

「雨の日に、読書は格別です」

「カミュは確かに良い作家だ」

「人生の不条理という点を見事に作品に表しています」

 僕たちは少し話をした。僕の目に、アリスは知性的に映った。僕は彼女に断って、セブンスターに火をつけ、煙を吸った。雨の音は僕の耳に響いた。

「君の職業は?」

「ライターです」

「僕は芸術大学出身のグラフィック・デザイナーだよ」

 僕たちは笑い合った。店内にはクラシック・ミュージックが響いていた。気がつくと、僕はアリスのことを好きになっていた。


 アリスは魅力的な女性だ。美しい容貌に、品のあるファッション・センスを有し、文学的知性と創造的な文章を持っている。カフェの出会いから、程なく僕たちは交際を始めた。初めてのデートに、僕たちは水族館に行って、魚を眺めた。アリスは海のことが好きだったし、僕もそうだった。

「海には原初の響きがあるわ」とアリスは水族館近くにあるカフェテリアで言った。僕はコカ・コーラを飲み、彼女の目を見た。彼女はミルクセーキに口を付けた。

「海を観ると、私はとても安心するの。広い海に、私という人間が含まれていると思ってね」

「海の傍に住んでいたの? 君の出身は?」

 青森、と彼女は返事をした。

「三陸海岸の近くに、実家があるの」

 彼女の父親は高名な小説家だった。幼い時から、アリスは父親の書斎にある本を読み、育った。私立のプロテスタント系の高校を卒業すると、東京の私立大学に行って文学を勉強し、ライターになった。

 上京し、アリスの目に映った街は、人々の欲望を見事に具現化していた。街は鮮やかだし、技巧的だった。彼女は休みの日になると、よく街に行って、エキサイティングに時間を過ごした。学生時代、彼女はファーストフード店のアルバイトをし、生活費の足しにした。ファーストフード店には、多くの出会いがあった。年上のアルバイトの男の子と付き合うことに決め、十九歳のときから約三年間関係を継続した。

「そのときから、街は私を掴み、離さなくなったわ」とアリスは言った。

「街は君を?」と僕は尋ねた。

「やがて街は多くの矛盾を私に突きつけ始めた」

 僕は黙っていた。アリスはソファにゆっくりと腰を下ろし、天井のライトを見た。

「亡くなったのよ、その付き合っていた彼。私を巧みにエスコートし、街の虜にして、二十七歳のとき交通事故で命を落とした。彼のいない街は、温もりを失っていたわ。彼は大学を卒業し、ディスクジョッキーをし、クラブイベントを主催した。そのイベントは人気だったし、彼のセンスが光った。ネオンの洪水の街に、彼の音楽的センスは輝いていた」

 僕はセブンスターを吸った。夜だった。彼女はエアコンのスイッチをつけ、静かに笑った。エアコンのモーター音が響いた。

「私は街にいると、とにかく心身ともに消耗するの。理由はよく分からない。アルコールの影響かもしれないし、ロックンロールの音楽がそうさせるのかもしれない。気がつくと、私は街と同化し、リビング・デッドのように彷徨っていた。そのときに、私はあなたと出会い、付き合うことになった。あなたの絵の中にある何かが、私を輝かせた。純朴だけど、切実な芸術。見事な海の絵。付き合っていくうちに、私はますますあなたのことが好きになった。すごく、良いわ。あなたの人間性、芸術、会話、雰囲気、そういったものが」

 僕は頬を赤くした。

「街というものは、多くの矛盾を孕み成立している。古い矛盾は新しい矛盾を生み、新しい矛盾は、また新しい矛盾をつくり出す」とアリスは言った。

 その日、僕たちは抱き合った。お互いを求め、息を吐いた。アリスの肢体は美しく、可憐だった。僕はアリスのことが好きだし、深く愛している。彼女にとって、街は幻想の森だ。僕はそのことを思い当たると、翌日、海の絵を描いた。


 海辺の生活は、穏やかだった。僕は日々、海の絵を描いて暮らした。アリスは時折東京に行くものの、書斎に籠り、文章を書いた。夏の日々は、牧歌的だったし、安心出来た。街にいたある男がやって来るまでは。


 その男の名前は、隆司と言った。アリスの元恋人だそうだ。隆司は三十歳で、先日、仕事を失い、リュックサックに荷物を詰め、海辺の町の僕たちのアパートメントに泊まりに来た。彼は困窮しているし、僕たちは宿を貸すことにし、アリスは彼に三食のご飯を準備した。彼は秋の初めくらいに、やって来た。

 そして、僕とアリス、隆司の三人暮らしがスタートを切った。


 隆司の元の職業は、漫才師だった。話すことに掛けては、一流だ。しかし、昨年、彼はコンビの男と喧嘩別れをし、運送業のアルバイトをクビになり、今に至る。多額の借金をし、アパートメントを出て、行くあてに困り、アリスに電話をした。アリスは親身になって、隆司の話を聞いた。そして、隆司に部屋を提供し、三度の食事の準備を約束した。実際に隆司がやって来ると、その風采は乏しく、身なりは悪かったし、僕は驚いた。

 僕は積極的に、隆司に話し掛けた。彼は山口県の出身だった。

「俺は漫才師になることが夢だった。漫才師になる夢を見て、十八歳のときに上京し、今に至る。養成スクールに二年通って、コンビを組み、活動した。しかし、三十歳になっても芽が出ることはなかった」

 その日、アリスは打ち合わせのため東京に出ていた。昼過ぎだった。僕は隆司にスターバックスのコーヒーをつくり、出した。彼は美味そうに、コーヒーを飲み、メビウスの紙煙草に火をつけた。

「しかし、良いのかい? 俺みたいなのが厄介になって。君たちはカップルだし、邪魔だろうと思ったが」

「構わない」と僕は言った。

「そうか」

 僕は隆司のことを気に入っている。彼はトークが上手だし、人間的に面白みがあった。僕は彼によく煙草や飲み物を買ってあげた。彼はヘビースモーカーで、一日に二箱の煙草を吸った。

 ある日、僕は彼に絵を見せた。僕の絵を見ると、隆司はうなった。僕は彼の反応を待った。彼はしばらくうなると、微かに目を輝かせた。

「海は、俺の身近にあった」と彼は語った。「下関の出身でね。父親は漁師だ。君の絵は本当に素晴らしいと思う。とくに、光線の加減がね」

「ありがとう」

「しかし、君は人物が描けないそうだね。アリスが言っていたが」

「そうだね」

「何故だろう?」

「街に人がいなかったせいだと思う」

 隆司の目は光った。

「街に人がいない?」

 そう、と僕は返事をした。

「だから、僕は街を出た」

「街には多くの欲望がある」

 隆司は長身だった。アロハシャツを着て、紺のスラックスに身を通している。僕は彼に煙草を勧めた。僕たちはカフェテリアのテラス席にいた。白のテーブルは太陽の光線を受け、輝いている。

「どうして君は芸人になりたかったんだろう?」と僕は尋ねた。

 隆司はコーヒーカップを眺め、微かに笑った。

「面白いことが好きだ」

 僕はコーヒーを飲み、煙草を吸った。

「十七歳のときに、俺は芸人を志し、高校を出ると上京した。街は俺の眼前にあった。俺の街だ、と思ったね」

「しかし、君は挫折した」

「運が悪かった」

 その言葉を聞くと、僕は口元で笑った。

 夜にアリスは姿を見せた。彼女は料理をつくり、出した。イタリアンの料理だった。隆司はビールを飲み、料理を食べ、話をした。アリスは当面の活動資金として、彼に十万円のお金を貸した。隆司は喜び、笑った。

「きっと、アルバイトを見つけるよ」と彼は言った。

「芸人の活動はまだ続けるの?」アリスは訊いた。

「そうだ」

 素敵だね、と僕は言った。隆司は十万円の入った封筒を仕舞うと、くつくつと笑った。

「まずは、相方を探さないといけない。俺はアルバイトで資金を貯め、街に戻る。街には、多くの魅力があるね」

 僕とアリスは顔を見合わせた。

「まだ、始まったばかりじゃないか」と彼は言った。


 僕たち三人は仲良く生活をした。隆司は海辺の町の倉庫にアルバイトの仕事を見つけ、働いた。週に五回、一日七時間の仕事だった。冷凍庫のセキュリティーだ。そして、お金を稼ぐと、アリスに十万円を返し、笑顔をつくった。

 秋が終わり、冬になった。僕は『塔』をモチーフにし、海辺の絵を描いた。『塔』というタイトルの絵だ。その絵を描いているときに、僕は森の中にいる感覚に陥った。海を見渡すことが出来る森だった。

 その森は、愛媛県に実際に在った。僕は森と共に目覚め、森と共に呼吸をした。鮮やかに輝く森の光線は、僕を刺激した。僕は人のいない世界を想った。その世界は、本当に美しいだろう、と僕は感じた。灰色の『塔』は、海の傍の森に建っていて、威風堂々とし、眼前に在った。

 傑作になる、と僕は思った。

 アリスはフリーライターの仕事にその身を忙しくした。彼女は僕に内緒で、街に出入りし、街の恩恵を受けているようだった。完全に、街を抜けることなど僕たちには出来ないのだ。彼女は隆司と二人で出掛けることもあった。二枚目の隆司は、街に詳しく、アリスとレストランに行ったり、ショットバーに入ったりした。

 三人の奇妙な生活は、続いた。


 年が明け、冬のある日に僕はアリスとデートに行った。車に乗り、街に行って映画館に入り映画を観て、ブティックを周った。街にいた当時、アリスは街の虜だったが、今は違った。彼女は、ある程度街を利用し、あとは距離を取った。街の魔力に対する彼女の意志だった。映画は面白かったし、ブティックは良かった。僕たちは買い物を済ませ、イタリアン・レストランに行って、食事を取って、僕はペリエを飲み、彼女は赤ワインの入ったグラスを手に取った。

「あの『塔』の絵、不吉だわ」と彼女は言った。

「不吉?」

 彼女はゆっくりと頷いた。

「『塔』はもうすぐ完成する」

「燃やした方が良いわよ」

 僕はその言葉に驚いた。彼女はゆっくりと息をついて、僕の目を見た。

「タロットカードで『塔』は災厄の象徴。持っていると、ろくなことが起きないわ」

 僕はじっと、白い皿を見た。アリスはため息をついた。

「『塔』は完成させる」と僕は強く言った。

 アリスは子羊のソテーを食べ、赤ワインを飲み、黙っていた。僕たちはイタリアン・レストランを出ると、車に乗って海辺の町に戻った。アパートメントには、隆司がいた。彼は台本づくりをし、缶のビールを飲んでいた。

「おかえり」と彼は言った。

「ただいま」僕は笑顔をつくった。

「新しい相方が見つかった。養成スクールの後輩でね。よく出来た奴だ」

「良かったわ」

「出て行くのか?」と僕は尋ねた。

「ああ、その相方とルームシェアをする。アリスと君には、ずいぶん世話になったね」

 彼は頭を掻いた。

 翌週、隆司はアパートメントを出た。僕たちは胸を撫でおろした。僕は『塔』の絵を完成させようとした。

 しかし、『塔』の絵を完成させることが出来なかった。色を重ね、完成に向かっていっても、その絵はとうとう完成しなかった。フランツ・カフカの小説『城』のように。

 僕の中の何かが欠けているのだ。

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