第2話ヴィデオグラムの女後半


 須貝は時々ヴィデオグラムの女の話をした。僕とアリスは耳を澄ませ、その話を聞いた。その女はすごく美しいというわけじゃなかったが、女優特有の美を持っていた。彼は彼女の映像作品を上映し、僕たちによく見せた。

 ヴィデオグラムの女の名前は、百合子だった。彼女は演技をし、舞った。その舞いは綺麗だったし、人の目を引いた。

 彼女は三十五年間独身で、たった一人の男性とも付き合ったことがなかった。映像の中に生き、現実世界で亡くなったのだ。彼女の姿は記憶に残り、記録媒体の中にあった。

「美しい」と須貝は言った。

 僕たちは頷いた。須貝は大きく息をつくと、微かに笑った。


その日は初夏の夜だった。アリスは僕の目の前にいた。僕はマルボーロの煙草を吸って、アイスティーを飲み、彼女を見た。彼女の左手にはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』があった。スヌーピーの白いシャツと、デニムジーンズ。そして、その本の組み合わせは僕を不思議な気分にさせた。

「タダシさんには、何か怖いものがある?」と彼女は訊いた。

 僕はマルボーロの火を消し、灰皿に捨てた。

「何か怖いもの?」

「例えば幽霊とか」

「僕は仕事の締め切りが怖いね。システムの導入は上手くいくこともあれば、上手くいかないときもある。上手くいかないときは、何とかしないといけない」

「そう」

「アリスは?」

 アリスは大きく息をついた。

「生きていくことが、時々怖くなるわ。真っ直ぐに生きたいと思っても、結局上手くいかない。歩いている道を疑ってしまうこともある。刺激が欲しくなる。そのために、何もかもを放棄して、飛び出したくなる」

「放棄?」

「今、在るものすべてを手放して……」

 アリス、と僕は言った。

「確かに、須貝さんの言う通り、映像には永遠の美があるのかもしれないわね。一点の美がそこにある」

 僕はアリスの肩に手を遣った。

「私はヴィデオグラムの女になりたい」

 その後、僕たちは軽くキスをし、抱き合った。僕は彼女の服を脱がせた。彼女は大きく息をつくと、目を閉じた。


 アリスは須貝のアパートメントに一人で行くことが多くなった。彼女は翻訳事務所の仕事帰りに、寄った。そして、百合子の映像を観て、大きく息をついた。彼女は百合子の映像に魅力を感じている。美しい舞いや目を見張る演技。アリスは深い感情を持ったようだ。


 そして、初夏のある日に、アリスは失踪した。彼女は勤め先の翻訳事務所から姿を消し、アパートメントを出て、携帯電話の番号を変更し、何処かへ行った。僕は方々手を尽くし、彼女を探したが見つけることが出来なかった。僕は彼女の実家に手紙を送り、雨の日の日曜日に渋谷のカフェで彼女を待った。

 しかし、彼女は姿を見せることがなかった。


 その雨の日、僕は渋谷にあるカフェに行って、アリスを待った。彼女とは連絡を取ることが出来なかったし、以前知った実家の住所に手紙を送っただけだった。あるいは、彼女は実家に戻っているのかもしれない、と僕は思った。

 長い雨だった。何故、彼女は僕の目の前から姿を消したのだろうか? そのことが頭に浮かび、僕は首を振った。


 失くした世界に、失くした恋人。僕は仕事が終わると、ショットバーのカウンターに座り、ジン・トニックを飲み、煙草を吸った。アリスの不在は、胸に響いた。理由がよく分からなかったし、気がつくと僕は彼女の姿を求めていた。夏が終わり、秋になった。そして、秋が終わり、冬になって新年を迎えた。

 その頃に、僕はショットバーで佳奈子に似た女の子と知り合い、寝るようになっていた。彼女の名前は、真由だった。光線の加減で見ると、真由はよく佳奈子に似ている。真由は品川に勤め口を持っているオフィスレディーで、二十四歳だった。

「アリスのことを忘れちゃいなさいよ」と真由はよく言った。「そうなることは、運命だったと思う」

 しかし、僕の頭の片隅に、アリスの姿はあった。

 僕たちは休みの日が合うと、お互いのアパートメントを行き来したり、映画館に行って映画を観たり、レストランに行って食事を取ったりした。真由は優しい性格の持ち主で、僕のことをよく気遣った。

 僕は真由のことを次第に好きになったし、彼女のために贈り物をすることもあった。春の日の夕暮れに、僕たちは渋谷駅に集まり、青山方面に向かって歩いた。真由は僕の手を握り、微かに笑った。

「結局、タダシさんはアリスのことを想っているのね。分かるわよ、そのくらい。私がいくら努力をしても駄目。タダシさんの中に、アリスがいるもの」と彼女は言った。その言葉は、僕の胸に深く下りた。

 そして、僕たちは黙って、歩を進めた。翌日に、真由は僕にメールを送り、別れを告げた。僕はその別れを受け止め、街を漂った。

 ゴールデンウィークのある日、小包が届いた。差出人は、アリスだった。岩手県の住所になっている。僕は小包を解いて、中身を見た。一枚のブルーレイ・ディスクだった。パーソナル・コンピューターを起動し、ブルーレイ・ディスクの映像を再生した。アリスが映っていた。とても、静かに。

 中世ヨーロッパ風の部屋に、アリスはいる。彼女はブルーのサマードレスを身にまとい、微かに笑顔をつくる。壁面には、マルク・シャガール風の絵が掛かっている。大理石の机に、白い椅子。机には、りんごとバナナが載っている。アリスの顔には、メイクが施され、より立体的に、美しく僕の胸に響く。

 アリスは目を細め、耳を澄ます。十分くらい経つと、庭園のシーンに切り替わり、アリスは白のドレスを着て、色とりどりの庭園を散歩する。モーツァルトの音楽が響き渡る。白い花の花弁に顔を近づけ、口づけをする。アリスはゆっくりと、池に近寄って、水面を見る。水面には、たくましい夏の太陽の姿がある。

 率直に言って、僕はその映像を美しいと思った。

 僕は繰り返し、映像を眺めた。『ヴィデオグラムの女』に、アリスはなっていた。その映像を見せると、須貝は言った。

「アリスはきっと、映像クリエイターハザマの屋敷にいるのだろうね。僕は彼の屋敷に行ったことがある。岩手にあってね。ハザマは斬新に、作品をつくる。アリスは何かのきっかけでハザマのことを知り、彼の屋敷に行った。『ヴィデオグラムの女』になるために」


 ある春の日の夜、僕はアリスに手紙を書いた。突然の失踪に驚いたこと、送って来た映像を観て美しいと思い、毎日繰り返し眺めていること、違う女性と少し付き合ったが君のことを追い浮かべてしまい別れたこと、仕事は順調だということ。便箋三枚の内容だった。僕は彼女の返事を待った。春が終わり、夏が来た。しかし、彼女の返事はなかった。


 映像はずっと僕の心を掴み続けた。僕はスコッチ・ウイスキーを飲み、煙草を吸ってよくその映像を眺めた。映像のアリスは、現実のアリスよりも遥かに美しかった。その事実は、僕を遠い場所に誘った。

 僕は時折、須貝のアパートメントに行って、フィッシュアンドチップスを食べ、缶のビールを飲み、『ヴィデオグラムの女』百合子の作品を観た。その作品で、百合子の姿は妖艶に僕の目に映った。彼女はすっと両腕を差し出し、白い肌を見せる。「此処に私はいる」というセリフを吐いた。

「いったい、何処にあなたはいるの?」

 その瞬間に、僕の頭は弾けた。

「明日、アリスに会いに行ってみようと思う」と僕は須貝に言った。

「あるいは、その方が良いね」

 現実を凌駕し、映像作品になった如月アリス。僕は彼女のことを想い浮かべ、アパートメントに戻り、彼女の映像を眺めた。


 翌日、僕は航空券を取って羽田に行った。よく晴れた日だった。僕は飛行機に乗って、岩手県に行くと、電車に乗ってアリスのいる屋敷を目指した。その屋敷は、海の傍の町にあった。僕はローリングストーンズの黒いシャツに、ジーンズという格好だった。

 屋敷は広大だった。庭には木々や花が生い茂り、甘い匂いを発していた。太陽は頭上高くに昇り、僕の身体に光を射していた。僕はチャイムを二度押し、インターフォンの向こう側の声に、「如月アリスさんをお願いします」と言った。しばらくの時間、僕は待った。

 屋敷のドアが開くと、アリスの姿があった。

「タダシさん」と彼女は言った。よく通る声だった。

「君に会いたくて、来たよ」

「とにかく、上がって欲しい」

 アリスは僕を屋敷の中に招いた。僕は靴を脱いで、屋敷に上がった。屋敷は広く、奥行きがあった。長い廊下には、アロマの匂いがした。アリスは応接室に、僕を入れた。召使が一人いて、アリスは彼にアイスコーヒーを頼んだ。

「遠い中、ありがとう」と彼女は言った。「映像の中の私はどうだった?」

「綺麗だったよ」僕は返事をした。

「私は去年の夏、東京を去ってハザマさんの屋敷に行った。インターネットで彼と知り合い、何度かの面接を通して、『ヴィデオグラムの女』になったのよ。本当に、素晴らしいわ。私は映像の中に、永遠に生きる。ハザマさんは様々な作品に私を登場させた。その商業的価値は高かった」

 僕はソファに座り、彼女をじっと見た。

「悪いことをしたわ。だけど、もう戻るつもりはないの。私とハザマさんは恋仲になったし、東京にはたまに行くけど、岩手もなかなか良いわ。あなたに、是非、一度見て貰いたいと思って、春の日に郵送で送ったのよ」

「ハザマはいないの?」

「彼は基本的に、東京にいるわ。休みの日に、時折、岩手の屋敷に帰って来る」

「僕は君のことが好きだ」

「そして、現実より映像のアリスに恋をしている」

 僕は黙っていた。

「良かったら、小説を書いて送って。私はあなたの小説を読み、感想を送るから」

「小説?」

「学生時代に書いていたのよね? 一度、読んでみたいわ」

 僕は創作のことを想った。確かに、最後に書いて七年になる。その年月に降り積もった何かは僕に小説を書かせるだろう。

「君の物語を書くよ」

「楽しみにしている」

 僕たちは応接室を出ると、庭園に行った。そこには、多くの花があった。黄色、青、ピンク。庭園には花の香りがした。アリスは腕を後ろに組み、ゆっくりと歩いた。

「百合子さんは、本当に美しかったわ」

「先日、須貝のアパートメントで『ヴィデオグラムの女』百合子の作品を観た。彼女はとても綺麗だった」

「私は彼女を目指しているのよ。真の美がそこにあった」

 僕は庭園のベンチに座った。遠景にある樹木を眺め、大きく息をついた。

「タダシさんといた一年間は悪くなかった。お互いのアパートメントを行き来し、映画館に行ったり、美術館に行ったり、伊豆で『トゥールーズ・ロートレック』について語り合ったり。だけど、私は自身の人生を見直し、進める必要があったの。私の結論は、『ヴィデオグラムの女』になることだった」

「ハザマに会いたい」と僕は言った。

「彼は西新宿にいるわ」

 アリスはあとで詳しい住所を僕に書いた。

 僕は屋敷を出て、市内にあるホテルに泊まり、アルコールを過度に取った。そして、部屋に戻ると、大学ノートに小説『ヴィデオグラムの女』の構想を練った。作品をつくることによって、何かが変わるだろう。僕の人生の何かが。


 東京に戻り、僕は日常生活に復帰し、小説『ヴィデオグラムの女』をつくった。最初に、プロットをつくり、登場人物を作成し、序文を書いた。小説のヒロインのモデルは、如月アリスだった。僕は私小説的に、その小説を作成し、四百字詰め原稿用紙百枚くらいに仕上げ、知り合いの編集者に見せ、レビューを貰った。

 そのレビューをもとに、改稿作業を行った。七年ぶりに書いた小説は、僕自身を成長させた。初夏の時期に、『ヴィデオグラムの女』は出来上がった。僕はその原稿をアリスに郵送し、反応を待った。その頃、僕は三十歳になっていた。

 僕は小説が出来上がると、ハザマのアパートメントを訪ね、彼と顔を合わした。彼はチェックの長袖シャツに、白のチノパンツという格好で、ルイ・ヴィトンの財布を手に持っていた。僕は簡単に彼に挨拶をし、中に入った。

「アリスの前の恋人ですか」とハザマは言った。年齢は三十代半ばくらいだろう。髪は長く、赤い色をしている。

「そうです。一年くらい付き合っていました。あなたとは一度、会っておきたくて」

「どうぞ、座ってください」

 僕はソファに座った。彼はキッチンに行って、イタリアン・ローストのコーヒーをつくり、僕に出した。

「如月アリスには、『ヴィデオグラムの女』になる資質がありました。彼女は美しいし、綺麗だ。そして、映像を通して、より美しくなることが出来ると僕は思いました。僕とアリスは付き合っていますが、顔を合わすのは月に一、二度くらいです。彼女を一度、岩手の屋敷に招待したときに、彼女は屋敷をとても気に入ったので、住み続けています。僕は映像クリエイターとして、彼女の存在に注目しています」

「何の映像をつくっているんですか?」

「ミュージック・ヴィデオです」

 彼はアップルのパワーブックを持って来た。そして、電源を入れ、オペレーション・システムを起動させ、ミュージック・ヴィデオを再生した。ポップソングのミュージック・ヴィデオだった。音楽が鳴り響く。

「アーティーストのあいだで、評判です」

「素晴らしいですね」

 僕は感心した。ハザマはパワーブックのキーボードとマウスを操作し、アリスの映像を見せた。海岸線を歩くアリス。沿道には、桜の木々があった。バラードソングが鳴っている。何処の海だろう?

 僕は訊いた。

「兵庫県の須磨の海ですね。彼女の故郷だった。アリスはミュージック・ヴィデオにも出演しています。評判は良かったです」

「綺麗だ」

 映像は進み、アリスはより美しく舞った。まるで『ヴィデオグラムの女』百合子のように。

「僕たち、秋に結婚します」とハザマは言った。

 僕は耳を疑った。

「映像単価が高くなったので、仕事を減らし岩手の屋敷で多く時間を過ごすつもりです。ぐっと、僕とアリスの距離は近くなると思います。僕は彼女のより実在的な美しさを気に入っているし、手放すつもりはありません。僕たちは上手くいっているし、幸福です」

 僕は何も言わなかった。ハザマは笑顔をつくった。僕は帰りに、新宿のスターバックスに行って、スターバックス・ラテを飲み、アメリカン・ワッフルを食べた。すると、向こうの席に須貝がいた。僕は彼にところに寄って、話をした。

「ハザマは新進気鋭のクリエイターだ。非常にセンスがあるし、アリスという素材をよく使っている」と彼は述べた。

「秋に、結婚するそうだ」

「そうか」

「アリスのことはもう諦めようと思う」

「また、良い女の子と会うことが出来るよ」

「まったく」

 僕たちはスターバックスを出ると、新宿御苑に行って歩いた。木々はしなやかにあった。僕と須貝はベンチに座り、遠景を眺めた。鳥の声が響き渡った。

「映像の中のアリスは綺麗だった。現実よりもずっと」と僕は言った。

「彼女は、本当に『ヴィデオグラム』の女になった」


 翌日、僕は渋谷のタワーレコードに行って、アリスが出ているミュージック・ヴィデオを一枚買った。ハンバーグの昼食を取り、ビールを飲み、アパートメントに戻ってそのミュージック・ヴィデオを観た。アリスはより美しく、その映像に収まっていた。

 美しい、と僕は思った。


 夏になると、アリスは僕に手紙を送った。彼女は小説『ヴィデオグラムの女』の感想を長い文章で書いた。『欠けた世界』という言葉が、その文章にあった。『欠けた世界』に私はいる、と。

 結婚を目前としている彼女が何故『欠けた世界にいる』のか、僕にはよく分からなかった。僕はアルコールを重ね、彼女の手紙を二度読み机に仕舞った。翌週、僕は『ヴィデオグラムの女』をとある雑誌社の純文学系新人賞に投稿した。一つの区切りだった。


 夏が終わると、秋になり、清潔な風が吹いている。僕はシステムエンジニアの仕事を辞め、フリーライターになった。そして、文学系の本を読み、小説を書いている。時々、アリスのことを思い出し、彼女の映像を観る。その精緻な映像の組み方に、ある種の感銘を受ける。僕は深くアリスのことを想う。

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ヴィデオグラムの女 AoiLia @AoiLia2025

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