ヴィデオグラムの女

AoiLia

第1話ヴィデオグラムの女前半

 夏だった。雨の日曜日に、僕は渋谷のカフェで彼女を待っていた。カフェの屋内は、雨の匂いがした。僕はそのカフェを彼女に指定し、一日中彼女の姿を求めた。しかし、彼女は姿を見せることなく、時間は過ぎ去っていった。ウォークマンの音楽は、ビートルズが鳴っている。ウェイトレスの物憂げな表情に、外の雨。僕はブレンドコーヒーとサンドウィッチを注文し、窓の外の雨を眺めた。長い雨だ。最初に、彼女と出会ったのは昨年の夏だった。その日は、今日と同じように長い雨が降っていた。

 しかし、その日、彼女はとうとう姿を見せることはなかった。閉店の時間になり、僕はカフェの会計を済ませ、外に出て傘を差した。

 彼女はいったいどこにいったのだろうか? 僕は大きく息を付いて、静かにアパートメントに帰った。

 アパートメントに戻ると、僕はスコッチ・ウイスキーのロックをつくり、二杯飲み、煙草を吸った。僕の心に、彼女の笑顔があった。リビングのソファに座り、ラジオの音楽を二、三曲聴くと、僕は目を閉じた。テーブルには、スコッチ・ウイスキーの香りがした。ラジオはフィオナ・アップルの『クリミナル』を流していた。僕は耳を澄ませ、その曲を聴いた。

「此処に私はいる。だけど、同時に此処に私はいない」とある日、彼女は言った。その言葉は、僕の胸に長いあいだ留まっている。

 雨は乱雑に、執拗に降っていた。僕は雨の音に耳を傾け、三杯目のスコッチ・ウイスキーを傾けた。

 アリス、と僕は思った。


 如月アリス。年齢は二十二歳。彼女は神戸の出身で東京の私立大学に入学し、英米文学を専攻し、勉強した。スコット・フィッツジェラルドやサリンジャー、アーネスト・ヘミングウェイなどの作家の作品を読み、研究した。将来の夢は、翻訳家だった。僕は昨年の夏、雨の日に、渋谷のカフェでアリスと出会った。彼女はライトブルーのワンピースを着て、プラチナのネックレスを身に付け、フランツ・カフカの『城』を読んでいた。髪が長く、美しかったし、繊細だった。相席になった僕は、彼女に声を掛け、話をした。僕の職業はシステムエンジニアで、年齢は二十八歳だった。

「文学はお好き?」と彼女は訊いた。

「僕の父親は私立中学の国語教師で、僕は幼い時から世界文学全集や谷崎潤一郎の著作を読み、時間を過ごした」

「文学っていったい何のためにあるのかしら?」とアリスは訊いた。

 僕はブレンドコーヒーをすすり、静かに笑った。

「違う世界に入り、追体験をするために」僕は返事をした。

「そうね。作家はその世界をつくるために、ベストを尽くす」

「僕は学生のときに、小説を書いていたよ」

 断片的なものだったが、僕は確かに小説を書いていた。

「面白いわね」と彼女は言って、笑った。

 僕たちはカフェを出ると、イタリアン・レストランに行って、アルコールを飲み、食事を取った。そのときにあったアリスの影は、とても僕を魅了している。彼女の表情にはある種の影があった。その影は、色濃く彼女の顔をつくっていた。そこに、彼女の美しさがあった。僕はイタリアン・レストランで、仕事の話を主にした。彼女は僕の話に興味を持ったようだった。僕たちは連絡先を交換し、お互いのことを求め合った。アリスは渋谷区にアパートメントを借り、一人暮らしをしている。

 その日、僕たちは駅で別れた。僕は山手線の外回りの電車に乗り、アパートメントに帰った。アパートメントに辿り着くと、僕はミネラルウォーターを飲み、煙草を一本吸った。僕の胸には、彼女の温かみがあった。

 翌日は日曜日だった。僕は午前中、朝食を取るとフィットネスクラブに行って汗を流し、昼はカフェに入り、スパゲティーを食べた。午後は私立の図書館に行って、調べ物をし、夜になるとスーパーマーケットに行って食材を買って、夕食をつくり、食べた。僕の胸に、アリスの姿がある。眠る前に、風呂に入り、疲れを取った。午後の十時を回った頃に、彼女の電話があった。温かい内容の電話だった。僕は二、三の返事をし、電話を切って眠った。

 月曜日には会社に行って、インフラ関係の構築の仕事をした。僕の中に、アリスの笑顔がある。仕事はいつも忙しく、大変だったが頑張ることが出来た。気がつくと、僕の内側にアリスの占める割合は大きくなっている。


 秋の初めに、僕とアリスは二回目のデートをした。彼女は水族館に行きたいと言った。僕は車を出して、神奈川県の水族館に向かった。助手席に彼女は乗って、オアシスのアルバムを掛けた。オアシスの曲は良かったし、僕の胸は躍った。

 水族館に辿り着くと、僕たちは入場チケットを二枚買って、中に入り、水槽の魚を眺めた。魚は綺麗だったし、水族館の中は冷たかった。僕は彼女の左手を握った。温かみがあった。途中、世界中のくらげを展示してあるコーナーに入った。アリスはゆっくりとくらげを見て、微かに笑った。ピンクやブルーのくらげがいる。

「私は此処にいる。だけど、同時に此処に私はいない」と彼女は言った。「私たちの実体っていったい何処に在るのかしら?」

 僕はその言葉の意味を推し量った。

「くらげって自由で良いわよね。私もくらげのように、漂っていたいわ」

 アップライトの光に当たったくらげを眺め、アリスは表情を崩した。僕はゆっくりと、彼女の身体を寄せた。彼女は力を抜いて、僕に寄り掛かった。周りに、客はいない。

「私は幼い頃から、英才教育を受けた。医者の両親は、私を医者にするべく、努力を払った。だけど、私は高校三年生のときに、東京の私立大学の文学部を志望した。とくに、父親はがっかりした。私は英米文学を研究し、翻訳家になりたかった」

 僕は黙っていた。

「だけど、その夢も確かに在るとは言うことが出来ないわ。私は何者にもなりたくないのよ。くらげのように、漂って人生を送りたいと思う」

 アリス、と僕は言った。

「タダシさんは良いわよね。仕事は出来るし、上手くいっている。世界に違和感を持っていない。私は時々、苦しくなるのよ。世界にぴったりと合っていないような気がする」

「僕は仕事が楽しいし、生きていく世界は苦痛じゃないね」

「そう」

 僕たちはくらげの展示室を出て、順路を回った。水族館の外に出ると、太陽の光は眩しかった。僕は彼女とソフトクリームを食べた。そして、パーキングエリアに行って、車に乗り、湘南に向かった。その日は、よく晴れていた。

 湘南の海に辿り着くと、僕たちはテトラポットを見つけ、座った。アリスは缶のコーヒーを二本買って、僕に一本手渡した。僕は缶コーヒーのプルタブをあけ、ゆっくりと飲み、煙草を一本吸った。

「私たちって、ベストカップルよね」と彼女は言った。

 僕は耳を立てた。潮騒の音に、海の香りがした。太陽は西の方に向かって沈み、オレンジ色の光線を放っていた。

「君のことが好きだし、素敵だと思う」

「何処が素敵なの?」

「ほっそりとした身体に、美しい目。優しい性格に、哲学的な思考。君は二十二歳で、とても綺麗だ」

 ありがとう、と言ってアリスは笑った。

 僕たちはしばらくのあいだ、海を眺めた。アリスは僕の左手を握った。温かみがあった。僕はゆっくりと彼女の身体を引き寄せ、彼女の唇にキスをした。その瞬間に、アリスは目を細めた。

 僕たちのファースト・キスのシチュエーションとしては、とても良かった。湘南の海に、夕景、潮の香りに、白波のくだける様子。僕の胸は温かくなる。

 夜になると、僕たちは車に乗って東京に戻った。アリスを渋谷区のアパートメントに送り届け、僕は帰った。彼女は僕にウェッジウッドの紅茶アソートパックをプレゼントした。僕は礼を述べ、紅茶を受け取った。

 アパートメントに帰り、僕は遅めの夕食を取り、ブランデーのロックを二杯飲み、そして紅茶をつくり、飲んだ。二十二時を過ぎると、僕はシャワーを浴び、歯を磨いて眠った。夢を見たが、朝起きた頃にはいったいどんな夢だったのか忘れてしまった。目覚めると、僕はラインで彼女に紅茶のお礼を言った。彼女はスヌーピーのスタンプを僕に送った。僕は仕事の準備をし、ブルックスブラザーズのスーツを着て、会社に向かった。その日は、小雨だった。


 前にも言った通り、僕の父親は私立中学校の国語教師だった。幼い頃より、父親の書棚を漁り、文学作品を読み、時間を過ごした。友達は、テレビゲームや漫画に夢中だったが、僕は読書をした。アリスの問いに『文学っていったい何のためにあるのかしら?』というものがあったけども、読書には読者の世界を広げ、思考を促す効果があると思っている。読書の影響を受け、僕は大学時代に断片的な小説を書くようになった。私立の理系の大学に進み、勉強をしたが、僕は小説を書くことが好きだった。

 当時、付き合っていた女の子が、僕の小説を読み、そのたびに批評をした。彼女の名前は佳奈子で、高校時代のクラスメートだった。彼女は文学が好きで、村上春樹をよく読み、僕と同じ大学に通い、社会学を専攻した。僕たちは仲が良かったし、喧嘩一つしたことがなかった。僕は佳奈子のことを愛していた。

「小説は書ける人には書けるわ」とある日、佳奈子が言った。僕たちは彼女の部屋にいる。僕は毎日三時間机に向かって、小説を書いていた。新人賞に応募しようとしていた。しかし、佳奈子の批評は概ね厳しかった。

 僕は彼女の批評を元に、改稿作業を重ねた。そして、原稿が出来上がると彼女に見せた。彼女は村上春樹以外にも、谷崎潤一郎や太宰治のことが好きだった。彼女の将来の夢は、社会学者になることだ。

 僕は佳奈子の理知的な部分を好み、付き合っていた。僕たちは二十歳で再会し、二年間付き合った。僕たちは愛し合っていたし、仲は良かった。彼女のアパートメントは八王子にあり、僕は電車に乗ってよく遊びに行った。部屋に入ると、アルコールを重ね、彼女と寝た。時折、彼女は料理をつくり、僕を楽しませた。

 しかし、大学四年生の冬に、佳奈子は交通事故に遭って亡くなった。僕はそのことに驚いたし、哀しかった。お葬式に顔を出し、彼女の両親にお悔やみを言った。その日から、僕は小説を書くことを止めた。ショックだったのだ。

 僕は理系の大学院に進学を決めていたし、そのことに意識を集中した。以前ほど、たくさんの文学書を読まなくなり、代わりに技術書などに目を通した。佳奈子を失ったショックで、僕は長いあいだ、アリスと出会うまで女の子と付き合うことが出来なかった。佳奈子は笑顔が素敵だったし、立派な夢を持っていた。

 僕は時折、自身の小説を読み、彼女の冥福を祈る。亡くなったばかりの頃は、アルコールに耽溺し、日常生活に復帰することが困難だった。長い時間は僕の傷を次第に癒し、僕はアリスと知り合い、恋に落ちた。

 しかし、小説を再び書き始めることはなかった。


 僕とアリスは美術館に行ったり、映画館に入ったりした。デートが終わると、彼女のアパートメントに行って、手料理を食べ、アルコールを飲み、よくセックスをした。彼女の肌は綺麗だったし、彼女の身体には温かみがあった。吐息が肩に掛かり、宇宙の調和のように親密に僕たちは交わった。


 僕はシステムエンジニアという仕事に誇りを持っているが、アリスはシステムのことにたびたび言及した。

「人間がつくり出したシステムが、逆にシステムが人間をつくり出す。その壮絶なパラドックスに、私は時々愕然とする」

「システムは人間を幸福にするよ」

「私の知り合いに、システムを風刺した画家がいるわ。彼は、美大を卒業し、システムをテーマに作品を描いた。人々に警鐘を鳴らすために、黙々と作品をつくった。だけど、その絵は殆ど値を付けないのよ」

 僕たちの話は平行線を辿った。アリスはかたくなだったし、僕も折れるつもりはなかった。だけど、いったいどちらが正しいのだろうか? あるいは両方とも正しいのかもしれないな、と僕は思った。


僕は若い恋人が出来たことに自信を持っていた。アリスの容貌は美しかったし、綺麗だった。彼女は知性的だし、ある種の人生観を持っている。日曜のある日、僕は友人の須貝に、アリスのことを紹介した。須貝は僕の大学のサークル仲間で、地質学の研究所に勤めている。須貝はアリスを見ると、にっこり笑い、「びっくりするくらいに綺麗だ」と述べた。彼の言葉は、僕の耳に響いた。アリスは目を伏せて、大きく息をついた。

「タダシの恋人だね。想像以上に、ずっと綺麗だ。僕は感心したよ」と須貝は言った。春だった。屋内に入ると、アリスはベージュのスプリングコートを脱いで折り畳み、椅子の背に載せた。

「須貝さんは、研究者と伺っています」とアリスは言った。

「確かに、地質学の研究者だ。二十九歳、独身。タダシとは大学のサークルで知り合ったんだ」

「どんな研究を?」

 地震の研究だよ、と須貝は返事をした。アリスは白の椅子に腰掛け、真っ直ぐに須貝を見た。

 須貝は白いカップにロシアンティーとイチゴジャムを淹れた。僕とアリスは礼を言って、ロシアンティーをすすった。甘く、美味しかった。音楽はバロック・ミュージックが掛かっている。須貝のアパートメントには、防音の設備があった。

「僕は映画を観ることが趣味でね。せっかくだから、上映しようと思う」

 そう言うと、彼はプロジェクターを広げ、映写機をセットした。須貝は邦画を上映した。聞いたこともないマイナーな映画だったし、僕たちは主演の若い女優のことを知らなかった。サスペンスの要素がある映画で、ミステリー仕立てだった。

「この女優と、僕は会ったことがある」と突然、須貝は言った。「高校時代、関西に住んでいるときに、街で顔を合わせた。僕は話し掛けようと思ったが、声が出なくてね。彼女は、一人でブティックを見て周っていた。ヴィデオグラムの中にいる女優が、実際に目の前にいると妙に興奮したものだった」

「君は大阪の出身だったね」と僕は言った。

「大阪の生野区だ。良い街だよ。その女優を見たのは、心斎橋のブティックだった。冬の頃だね。彼女は映像よりも綺麗だったし、身体つきは細かった。偶然会って、しばらくのあいだ、僕は熱を持った。ファンというわけじゃなかったが、素晴らしいものを見たと思った。しかし、時間が経っていくにつれ、僕は熱を失い、また齧りつくように、彼女のヴィデオグラムを眺めた。その箱の中にいる彼女の方が素敵だと思った」

「つまり、実際の人物より映像の人物の方が素敵だったということでしょうか?」とアリスは尋ねた。

「そう、まさしく」と須貝は言って、笑顔をつくった。「彼女はヴィデオグラムの女だった」

 僕とアリスは顔を見合わせた。その邦画の上映が終わると、須貝は僕たちとレストランに入り、アルコールを飲み、料理を食べた。僕はアルコールに強かったが、アリスはそうでもなかった。しかし、珍しく、アリスは杯を重ねた。

「映像の中にこそ、人は永遠に生き続けることが出来る。若いときも、人生絶頂のときも思いのまま」と須貝は言った。「映像美という言葉があるように」

 アリスの機嫌はみるみる悪くなっていった。須貝という男を生理的に受け付けないのだろうか。アリスは更に、アルコールを重ね、黙っていた。

「作者を超える作品など存在しない」と僕は言った。

「確かに。確かに」須貝は少し酔っていた。

「そのヴィデオグラムの女性は、今、どうしているのですか?」とアリスは訊いた。

「三年前に亡くなったよ。睡眠薬自殺だ。三十五歳だった」

「そうですか」アリスは声を小さくした。

「バルビツール酸系の睡眠薬を大量に飲み、亡くなった。理由はよく分からない。ただ、彼女には多くの映画作品があった。くだらない作品も多いが、光る作品もある。僕はその知らせをインターネットで知った。ネットは便利だね」

「どうしてそのヴィデオグラムの女性を好きなのだろう?」

 須貝は鼻を高くした。頬は少し赤い。

「可憐だね。すぐに手に入りそうで、難しい。そういう次元に、彼女の姿はあった」

 僕たちはレストランを出ると、散会した。僕はアリスと電車に乗った。アリスは言った。

「偏愛だよね」

「そうだ」と僕は肯定した。

「須貝さんは偏っている」

「確かに」

「だけど、偏っていない人間なんているかしら? 皆、何かしらに寄りかかり、生きているわ」

 アリスの言う通りだった。


 四月になると、アリスは知り合いの翻訳事務所に籍を置いて、働き始めた。小さな翻訳事務所だそうで、主に学術書の翻訳を行っていた。アリスは働くことが初めてだったので、懸命に仕事に当たった。


 ゴールデンウィークの日に僕の車は、東名高速道路を伊豆方面に向かって走った。アリスと一緒に伊豆に行くのだ。よく晴れた、気持ちの良い昼だった。僕は前方を眺め、アクセルを踏み、時折彼女の視線を感じた。

「僕の父親は小説家志望だった。物を書くということに対し、父親は貪欲だったが、才能はあまりなかった。彼は僕の幼少期に、いろいろな本を読ませ、物語をつくらせた。自身の夢を乗せ、僕を育てた」

 僕はサマセット・モームやチャールズ・ディケンズ、アーネスト・ヘミングウェイといった小説家の作品を愛した。アリスはその話を聞くと、目を細めた。

 二時間後、僕たちは伊豆に辿り着いた。僕は知り合いのペンションのところまで車を走らせた。その白いペンションは海辺の近くにあった。僕たちはドアをあけ、車を降りるとペンションのエントランスに行って、チャイムを二度押した。

 四十代の男性オーナー、達也が出て来た。

「いらっしゃい」と彼は言った。

 僕とアリスは挨拶をし、リビングのテーブルに着いた。

「久しぶりだね」

「学生時代に一度来て以来です」と僕は言った。

「そちらの女性は?」

 達也は神妙な表情を浮かべ、微かに笑った

「タダシさんの恋人です」とアリスは言った。

「そう。よろしくね」

 僕は腕時計を見た。昼の二時だった。僕たちは部屋に行くと、荷物を置いて海に行った。アリスはゆっくりとした歩調で歩いて、海を眺めた。

「神戸の海と、何かが違う」と彼女は言った。

 太陽の光は、僕たちの身体に当たっていた。眩しかったので僕は木陰に腰を下ろし、じっと海を見つめた。

「海を眺めると、落ち着くね」と僕は言った。

 アリスは静かに、呼吸をした。

「君は十分に魅力的だ」

 僕は彼女のウェストに右手を回した。「僕たちは深い森を抜け、お互いを求め合う」

「その先に、きっとユートピアがあるわ」


 夕方過ぎに、僕たちはペンションに戻った。ペンションのリビングには、トゥールーズ・ロートレックの『ムーラン・ルージュ』のリトグラフが飾ってあった。僕はオーナーに、その絵のことを訊いた。僕の隣に、アリスがいた。

「貰い物の絵だよ」

 僕は『ムーラン・ルージュ』を眺めた。

「毎年、夏に来る画商のお客さんがいてね。ある日、私は一枚の絵を貰った。元々、トゥールーズ・ロートレックは好きだったし、嬉しかった」

「『人生は醜い、されど美しい』とロートレックは名言を残した」とアリスは言った。

「フランスのモルマントルのキャバレー、『ムーラン・ルージュ』は、ロートレックの贔屓の店だった。成長期における両足大腿骨の骨折によって、下半身の身長の伸びが止まってしまった。肉体的に劣等感を抱きながら、彼は画家の道を邁進し、作品を書いた。歓楽街は彼の重要なモチーフの一つだ。モルマントルに身を捧げた彼は、アルコールと梅毒の影響で三十六歳のときに亡くなった」と達也は言った。

「君はどういった画家が好きだろう?」と僕はアリスに訊いた。

「マルク・シャガール」と彼女は返事をした。「あなたは?」

「アメディオ・モディリアーニ」

「素敵ね」

 その後、僕たちはリビングのテーブルに着いて食事を取った。達也は腕を振るった。鯛のパイ包み焼きに、サーロインステーキ、クルマ海老のグリル、コーンスープ、赤ワイン。僕たちは舌鼓を打った。

「君は実に幸せそうだ。仕事は上手くいっているし、若い恋人がいる」と達也は言った。僕はゆっくりと食事を取り、彼の顔を見た。

 アリスはナイフとフォークを使って、サーロインステーキを食べた。

 達也は食事の終わりを見て、ブレンドコーヒーを二人分つくった。香りの良いコーヒーだった。僕たちはコーヒーを飲み、顔を見合わせた。僕は料理のことを褒め、煙草を一本吸った。

「人は大小、夢を持っている。夢というものは、希望と混ざり合い、真新しいヴィジョンを見せる。私は、ペンションを経営することが夢だったし、その夢は叶った」

「素敵なペンションだと思います」とアリスは言った。

 ありがとう、と達也は言って笑顔をつくった。

 その時間が終わりを告げると、僕たちは一旦部屋に戻り、入浴の準備をし、温泉に行った。透明の温泉は質感が良く、素晴らしかった。入浴場は男女に別れていた。僕はすぐに温泉を上がったが、アリスは一時間半くらい入っていた。彼女が帰った頃に、時計の針は夜の九時を回っていた。

「良いお湯だったわ」

「そうだね」

 アリスは柔らかく、笑った。僕はアリスの左手を取った。彼女の身体の温かみを僕は感じた。

「もっと須貝さんのアパートメントに行って、『ヴィデオグラムの女』を観たいわ」

「そう」

「彼女、とても綺麗よ。映像美の極致にいる」

 確かに、と僕は言った。

 翌日、僕たちは東京に戻った。僕はアパートメントに帰り、スコッチ・ウイスキーを三杯飲み、アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』を読み、静かな夜を過ごした。


 僕とアリスは二人で、時々須貝のアパートメントに行って、映画を眺めた。彼は多様な映画作品を持っていたし、シアターセットは高級品だった。邦画の作品が多かったが、洋画もあった。映画の上映が終わると、須貝は手製の料理をつくり、赤ワインと共に振舞った。アリスはすっかり須貝に心を許し、様々な話題を彼に振った。須貝のアパートメントは、広く、部屋は余っていた。僕とアリスは彼のアパートメントに泊まることもあった。

「二年前、僕はある女の子と同棲を始めた。雑誌モデル出身の綺麗な女の子だった。同棲生活は、半年くらい続いた。ある日、彼女は僕のアパートメントを出て、去った。哀しくなった。愛し合っていたというのに」

「須貝さん、モテますね」とアリスは言った。

「そのときはね。まだ、若かったし、女の子の一人くらいつくるのはわけがなかった。彼女は雑誌の中に生きていた。メイクをし、髪を整え、衣装を着て雑誌に載ると、すごく綺麗だった。びっくりするくらいにね」

 須貝は女性もののファッション雑誌を見せた。細く、肌の白い女の子が綺麗に写っている。僕はアリスと顔を見合わせた。

「彼女だよ」と須貝は言った。

 僕はミートパスタを食べ、赤ワインを飲んだ。アリスは目を細め、雑誌を眺めた。

「どうして彼女は出て行ったのだろう?」と須貝は言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る