第三章〜紡ぐ時間の先に〜

息子が高校へ進学するタイミングで、自らの意思でカナダへ渡ったのは三年前のことだった。

十五歳という年齢ながら、彼は自分の人生を見つめ、自分で道を選んだ。その背中を、私は誇らしくも、胸の奥に小さな穴が開いたような寂しさを抱えながら見送った。


九月から、彼はカナダで大学生になった。

言葉を覚え始めた頃に英会話教室に連れて行った。嫌がれば辞めさせてもいいと思っていたのに、公園で遊ぶより何よりも英会話に夢中になった。幼稚園はインターナショナルスクールで、毎日の会話はすべて英語。ここまで語学に興味を持つとは、私たちも思っていなかった。


小学校では語学に特化した学校に進み、そのまま中学まで内部進学。そして高校へ上がるタイミングで、彼は自らカナダへ渡った。あの決断が、今の彼の世界を広げている。



優が変わったこと。彼がもう一度、自分の足で立とうとしている姿を見て、私は静かに胸を打たれた。

それは劇的な変化ではなかったけれど、目の奥にあった芯のようなものが、いつの間にか私の心にも火を灯していた。育児に追われ、自分という存在が薄れていくことをどこかで怖がっていたのかもしれない。彼の再生を見届けたあの日から、私の中にも小さな種が蒔かれたような気がした。何かを始めたい、そんな気持ちが少しずつ膨らんでいった。息子が入園した頃、私の日常には小さな変化が生まれた。

9時に園に送り届け、私が電車で帰宅するのは10時前。そして迎えに行くのは15時。手元には自由に使える5時間ができた。


この時間をただ家事や休息に使うだけではもったいない。家庭を犠牲にするような働き方もできない。そんな中、ふと「自宅でサロンをやってみる」というアイデアが浮かんだ。


以前から定期的に会っていたサロンの恩師とも、お茶や食事の中でそんな話をするようになった。ある日、ぽろりと口にした「私、自宅でやってみようと思ってるんです」という一言に、先生はうなずきながら静かに微笑んでくれた。その頷きが、私の背中を押した。恩師の言葉は今も心に残っている。


さらに、優がくれた言葉も私の心に栞のように挟まれたままだ。

「自分で開拓したものは、やがて自分の生きる道標になるって、信じてる」

それがあったからこそ、私は資格を取り、自分の道をつなぐことができたのだと思う。


住んでいる分譲マンションの環境も幸いした。玄関すぐの洋室はプライベートエリアとして確保され、自宅サロンにありがちな問題もクリアできた。

夫は最初から大賛成で、「やりたいことがあるなら応援したい」と言ってくれた。恩師や優も、サロンの立ち上げから経営まで細かく支えてくれた。広告の出し方、集客、予約管理など、細かい部分まで二人で話し合う時間は、とても大切だった。


店はゆっくりと軌道に乗り始め、息子も小学生になり、朝の準備やランドセルの整理も自分でこなすようになった。幼稚園のときのような送迎はなく、毎朝7時の電車に乗って通学している。

企業からの仕事の依頼も少しずつ増え、固定客もつき始めた。「またお願いね」と言ってもらえる喜びが、日々の励みになる。慌ただしい毎日だが、私はようやく“自分らしく生きられている”と心から思えるようになっていた。


私は、息子を母の元に預ける。表向きは祖母と過ごす月二回のお泊まりになっている。私は悪魔のように、夫に不実で、母を騙す母親失格。母は気づいているのだろうか、それとも気づかないふりをしているのだろうか。夫はどう思っているのだろう


優とは今も、月に二度、誰にも知られない小さな逢瀬を重ねている。

月に一度は夜勤の日に有給を取り、家族には出勤と言って朝まで過ごす。土曜日の午後から夜まで、優は一旦家に帰り、翌日曜日も朝から一緒に過ごす。家族にはパチンコに行くと言って。


ふたりが会えば、ホテルで時間を重ねる。優が駅まで迎えに来て、マーケットでお酒やおつまみを買ってチェックイン。

私の日々やサロンの話を聞き、必要があればアドバイスもくれる。優の視点は、冷静で、それでいて温かい。「こういう角度から見てみるのもいいかも」そんなひとことに、何度救われただろう。

一緒に過ごす時間の中でしか触れられない想いや、言葉にしないまま残る感情が、確かにふたりの間に存在していた。


「こんなことしててバレないの?」と聞いたこともあった。

優は淡々と答えた。

「俺には興味も関心もないから。ATMとして稼働してたらそれでいいのがよくわかる。土日ずっと家にいられたら鬱陶しいのもわかる。もしこの関係がバレても、何も言わないと思う。生活に支障はないから。俺ATMやから、ATMがなくなると困るやん。信頼関係もないしな。でも離婚の選択は嫁には今はないやろな。家のローンもこれからの教育費も誰が払うんって話やろ」


優の家族でのポジションは相変わらず殺伐としている。でも、彼自身はそれを気にもしていない。




私も、自分自身の人生にもう一度光をあてるように、ゆっくりと歩き出した。

母として、妻として、経営者として、そして一人の女として。

心の奥にはいつも優の存在があった。彼の声、目線、ぬくもり——そのすべての記憶が確かに私の中に生きている。

一人の女であることを、優は静かに、確かに思い出させてくれる。

それぞれの役割を抱えながら、揺れながら、私は今を生きている。


未来はない。どこかに辿り着くこともない。

それでも、手放すことができなかった。今ここにある想いだけで、生きていけると思えたから。


私たちは未来のないゴールに向かって、綱渡りで、今もこれからも歩いていく。ただ歩く。


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