第二章〜確信犯〜
胸の奥が、一瞬であの頃に戻る。
鼓動が早くなるのがわかる。
息を整える間もなく、優の声が耳に飛び込んできた。
「元気?」
その声は変わっていなかった。
どこか甘えるようで、それでいて優しさを滲ませる、あの頃のままの声。
「うん、元気にしてるよ」
そう答えながら、頭の中ではぐるぐると問いが巡っていた。
どうして今? なぜまた?
「今、大丈夫? 話してもいい?」と優が言った。
どうしよう。
私の中で、小さな葛藤が揺れる。
日々の暮らし、母としての責任、愛しい息子の寝顔、そしてこの数年間の積み重ね。
でもこの声は、それらを壊すものじゃなくて、かつての“わたし”をそっと思い出させてくれる——そんな気がした。
「うん、大丈夫。少しなら……話そうか」
そう答えた瞬間、忘れていた空気の温度まで戻ってきたような気がした。
「今、何してたん?」
「優、私、お母さんになったんよ」
「そっか。おめでとう。いつ生まれたん?」
「去年の○月。男の子」
「うちも去年の○月に女の子が生まれた」
また同じ時期に、父になり、母になった。
不思議と、優とはいつもそういう巡り合わせだった。
「女の子かぁ。優に似て、お目目くりくりでまつ毛ふさふさなんかなぁ」
「いや、俺の要素、全くないねん、笑」
「そうなん? 女の子はお父さんに似るって言うけどね。これから変わっていくかも。……もう、嫁にはやらんって思ってる?笑」
「そんなん、ないかな……」
どこか寂しげな声だった。
あの頃と同じ、あの時のトーン。
「そのうち、“パパと結婚するー”って言われて、デレデレになるよ、笑」
「どうなんかな……」
「優? なんかあったん?」
「……ううん。ひかりの声、聴きたくなっただけ。
ごめんな、忙しい時に電話して」
「優、幸せ?」
少し沈黙があって、彼は静かに言った。
「幸せは、自分で探しに行かなあかんよな」
「優、もし少しでも話したかったら、聞くよ? 話して?」
「……そしたら、また電話してもいい? 出られんかったら、その時はそれでいいから」
「うん、わかった。じゃあ、また」
プープープー。
優?または、あるの?
最後に「また来れたらいいな」と言ってから、2年10ヶ月が経っていた。
その「また」は、あの時も今も、次が来ると約束されたものではなかった。
それでも、優は言った。「また電話してもいい?」と。
そして私は答えた。「うん、わかった」って。
「また」は、約束のようでいて、約束じゃない。
でもそれでも、信じたいと思った。
あの優しい声の奥に、ほんの少しでも“つながりたい”という気持ちがあったなら。
もう一度、優の声を聞く日は来るの?
それとも、これが本当の最後?
わからない。
でも今、確かに優の声は耳に残っていた。
そして心のどこかが、ほんの少しだけ、温かかった。
もうすぐ、3年になろうとしていた。
長かったような、あっという間だったような、そんな時間だった。
あの日、あの一本の電話から
私の心は、静かに、けれど確かにざわつき始めた。
隣では、愛おしい息子がすやすやと眠っている。
首もすわって、最近はキャッキャと声を出して笑うようになった。
お気に入りのおもちゃを口に運んでは、よだれで口元がびっしょりになる。
だから、私のポケットにはいつもガーゼ。もう手放せない存在だ。
下の歯が、うっすらと顔を覗かせていて、「ああ、もう生えるんだ」と驚く。
早いな、と思いながら、毎日の成長がただただ愛おしい。
優からの電話から、十日が過ぎた。
息子の寝顔を見つめながら、携帯電話の画面が暗くなるたび確かめてしまう。
そのたびに思う。「私はいま、誰なんだろう」って。
母としての私と、あの日の声に揺れている私。
どちらも確かにここにいるのに、その距離はどこか離れている。
優からの電話は、あれきりだ。でも言っていた。「また電話してもいい?」って。
“また”——その言葉だけが、今も私の心を離れない。
信じてる。でも、信じている自分が情けない。
私はもう母なのに。もっと強くなきゃいけないのに。
……それでも、あの声が、どうしても頭から離れない。
今日も、息子は私に向かって笑ってくれる。
その笑顔に、心のざわめきが少しだけ静まる。
けれど夜になると、また
あの日の声が、耳の奥で静かに囁く。
「ひかりの声、聴きたくなった」
ふと、思い出した。
あの日、優が電話をくれたあの日
そうだ。三年前のあの日は、私たちが出逢った日だった。
去年までは覚えていた。あれほど特別な日だったのに、
今年は……忘れていた。
目の前のこの命に、夢中だったから。
一日一日を懸命に生きて、ただそれだけで日々が過ぎていった。
その日を思い出させてくれたのが、優の一本の電話だった。
あの声。あの温度。
ほんの少し寂しげな、あの言い方
「優……
忘れてなかったの? 私は、忘れていたのに」
それとも——
「偶然」を装った、あなたの「必然」だったの?
確かめようもない問いが、胸の中でくるくるとまわる。
でも、私は思いたい。
あの日の“また”が、ただの思いつきじゃなかったって。
その日を選んで、電話をくれたのだとしたら
それはきっと…..そう期待する私がいる。
誰にも言えない、気づいてしまった“記念日”。
ただ一人、心の中でそっと祝うだけの、静かな記念日だった。
優とまた一歩、心が繋がったような気がしていた。
今日は、息子の6ヶ月健診。
うっすら見えていた下の歯が、ほんの少しだけ顔を出していた。
「はーい、お口見せてね。歯が『おはよう』ってしてるね。がんばってミルク飲んでるんだね。離乳食も食べてるね、えらい、えらいね」
先生は、手足の力の入り具合を確認しながら、にこやかに言う。体重も増えてるし、身長もぎりぎり許容範囲。「はなまる、はなまる」って、優しい声。
私は、いくつも質問したかったはずだったのに、なんだか少し上の空だった。
ごめんね。
今日は君が主役なのに。
君の大切な6ヶ月の節目なのに、ママの気持ちはふわふわと、どこかを漂っていた。
でもね、ちゃんと分かってるよ。
君は元気で、かわいくて、逞しくて。
毎日、私のそばにいてくれて、ほんとうにありがとう。
でも、少しだけ、ごめん。
ママの心の奥で、
“もうひとつの記憶”が顔を出していたの。
「今」じゃなくて「過去」を、「君」じゃなくて「誰か」を思い出してしまっていた。
どこかで、優を待ってる。
返事のない“まだ”に、まだ揺れてる。
そんな自分が情けなくて、あなたに申し訳なくて。
でも
小さな君の指が、私の手をぎゅっと握った。
その温もりが「ここにいなさい」と言ってくれてる気がした。
だから、ちゃんと戻るよ。
ちゃんと君と向き合う。
歯が生えてきた、その小さな奇跡を、誰よりも喜びたい。
春の風が、ベビーカーにそっと舞い降りる。
私はベンチに腰を下ろし、眠る君の顔を見つめながら、心の中でつぶやく。
「優…..
“また”なんて言うから、
私は今もこうして携帯を手にしてしまうんよ」
「じゃあね」だけだったなら、終われた。
切なさも、名残も、その一言に閉じ込めて、時間に流していけたかもしれない。
でも、優は「また」って言った。
その一言が、私の心に希望の種を植えた。
「もしかして」「きっと」「いつか」
そんな言葉が、芽を出し始めてしまう。
ねえ,….優?
あの日、電話をくれたのは偶然? それとも?
もし次も“あの日”を選ぶなら、それはもう確信犯。
私の気持ちを知っていて、あえて傷口をなぞりにくるなんて――ずるいよ。
…今度はちゃんと、終わらせて。
「また」なんて言わないで。
それとも――
ほんの少しでも、私を想ってくれた「また」だったの?
春の風は、やさしいようでいて、少しだけ意地悪。
あの日の声が、まだ、心の奥でかすかに重なっている。
明日、夫が帰ってくる。
久しぶりに、家族3人で過ごす時間だ。
彼は、息子の成長を本当に楽しみにしている。そして私を、何よりも大切にしてくれる。
「ひかりは、いつも頑張ってるから」
そう言って、洗濯を回し、お風呂を沸かし、小さな肌着を浸けおき手洗いして干してくれる。
ミルクをあげ、おむつを替え、私が日々積み重ねてきた育児のあれこれを、ちゃんと見て、覚えてくれている。
優しさのかたまりみたいな人だ。
…だから、つらい。
胸が締めつけられるように、苦しくなる。
私は夫に対して消えない十字架を背負っている。
彼の笑顔や、疑うことを知らない信頼が、皮肉なほどに私の胸を鋭く突き刺す。
どれほど彼が完璧でも、どれだけ私を大切にしてくれても…いや、だからこそ。
この重さは、日を追うごとに増していく気がする。
たとえ彼が何も知らないままだとしても、この罪は私の中で、永遠にそこに在り続ける。
そして、ふと思ってしまう。
もし、あの人とまたどこかで関わってしまったら
この十字架は、さらに何重にも、何重にも重なっていく。
赦されることなど、望んではいけない。
わかってる。
だけど
心は、それだけでは止まってくれない。
優…
お願いだから、今は電話をかけてこないで。
私はいま、あなたの記憶を胸にしまって、目の前の時間に向き合おうとしてる。
季節は、また巡ろうとしている。
あの日に、少しずつ、近づいている。
私の心がまた揺れはじめる、その日へと
息子がふにゃっと目を覚ます。
小さな手足を動かして、まだ夢の中にいるような顔でぐずる。
「お、起きたな」
夫がすっと立ち上がり、おむつ替えへと向かう。
手際はいい。私より、上手かもしれない。
「ミルク、単位いくつにしてる?」
「とりあえず150でお願い。飲みきるけど……様子見て」
「了解〜」
そんな何気ないやりとり。
ただの、日常のひとこま。
夫と息子と私――たったそれだけの、穏やかな時間。
なのに、どうして。
心の片隅、一角に
“優”がいる。
思い出そうとしていなくても、そこにいる。
忘れたわけじゃない。
でも、もう必要のない記憶のはずなのに。
その静かな胸の一角に、優の気配は、消えない。
それは罪なのか――
それとも、ただの記憶なのか。
夫の休みは、あっという間に過ぎていった。
また長期の出張。今度は海外も含まれるという。
とことん働く人だ。家族を守るために。
「毎日の動画ありがとうな。今回も頼むな。俺の活力やから!」
そう言って息子を抱く私の横で、夫はスーツケースを転がしながら玄関へ向かう。
エントランスまで見送り、私は「いってらっしゃい」と手を振った。
夫は少し振り返り、軽く笑ってみせた。
スーツ姿の背中が、まっすぐに、エントランスの外へ消えていく。
頼もしい。でも、どこか…遠い。
春の終わり、4月の午後。
陽射しがまぶしくて、新緑がきらきらしてる。
なのに、胸の奥にふっと影が落ちた。
部屋に戻ると、息子はあくびをひとつして、すぐにまた眠りについた。
小さな寝息。
何時間でも見ていられるほど愛おしいのに。
ふと、記憶が忍び込んでくる。
ベッドの中で眠る優の顔。
やさしくて、静かで、何もしてない時間さえ満たされてた。
そっと髪に触れたあの夜。
長いまつげ、規則的な呼吸。
一緒にいるだけでよかった、あの空間。
なのに。
なぜ今日、この春の光の中で、ふいに優の記憶が重なったんだろう。
これは罪なのか?
それとも心のどこかで、“自由”を望んでいただけ?
息子の寝息と、自分の鼓動が混ざり合っていく。
私はただ静かに、胸の奥に差し込んだ優の面影を見送った。
突然、着信音が鳴り響いた。
心臓が跳ねた。
優…じゃない。夫からだった。
なのに、どうしてこんなに息を呑んだんだろう。
「どうしたん?」
少し上ずった声。
でも、返ってきたのはただの確認だった。
「ごめん、名刺入れ。書斎の棚に置いたままか見てくれる?」
安堵。
そして、なぜか胸の奥がちくりと痛む。
私は何を待っていたんだろう。
その“何か”を、夫の声にすり替えてた。
「あったよ」
「ごめん。息子と出かける時でいいから、ホテルに送って」
「わかった、明日のお散歩の時に出しておくから」
普通の会話。
優しさで満たされた、日常のやりとり。
それなのに、着信一つで心がざわめいてしまう自分がいた。
まるで見透かされたみたいに感じた。
ありえないのに。
でも、そう…“あの日”が近づいているからだ。
5月5日こどもの日。
子どもの成長を願う、大切な日。
今の私は、息子のためにそれを迎える。
けれど同時に、私にとっては別の意味を持ってしまった日。
優も、私も、親になった。
けれど、あの日から一度も声を聞いていない。
「また」なんて言うから。
期待したくないのに、心は勝手にそっちを向いてしまう。
優…
もしその日を“選ぶ”なら、それはもう偶然なんかじゃない。
でも、来なければ私は……このまま前に進んでいけるのかな。
5月の風が、やわらかく部屋に吹き込んでくる。
名刺入れをバッグに入れながら、私は明日のこどもの日準備をする。
優のことを考えないようにして、でもやっぱり、考えてしまう自分がいた。
5月5日。
それは、まるで何もなかったかのように容赦なく訪れた。
リビングの窓際では、小さな鯉のぼりが風に揺れている。
隣には、コンパクトな兜飾り。
息子の初節句,
ちゃんとこの目で見せてやりたくて、手作りにこだわった。
けれど現実は、思い通りにはいかない。
せっかく座らせても、すぐに体をよじらせる。
兜の前に座らせてもガーゼを握って口へ運んでしまう。
一瞬の“ベストショット”を撮るために、私と父で
「あーでもない、こーでもない」と騒いだ。
「……スタジオ○○○行っとけばよかったかも」
そんな冗談まじりの後悔も、きっといつかの思い出になるだろう。
午後3時過ぎ。
親戚たちが順に帰っていった。
祝いの言葉、笑い声、気遣いの空気。
でも、小さな子がいる家に長居は禁物。
それはどこかルールのようになっていて、
気づけば、家の中には静けさだけが残っていた。
──3年前の、今日。
あの夜、私たちは生駒の展望台にいた。
少し肌寒くて、ふたり寄り添いながら見た街の灯り。
けれど、それが最後だった。
あの日、私たちは別れた。
今日、優は電話をかけてくる。
そう思っていた。いや、思ってしまった。
確かに、終わったはず。
だけど私は知っている。
優も、今日を忘れてなんかいない。
私と同じように。
「また」なんて、あの日言わなければよかった。
言わなければ、今日は息子の初節句の五月五日で済んだのに。
でも、言った。
だから私は、今日を意識してしまった。
隣では、息子がスヤスヤと眠っている。
その寝顔のすぐ横で、
何度も携帯の画面を確かめている自分がいる。
優。
かけてくるの?
それとも、かけてこないの?
どちらにしても──
また、私は揺れてしまうのに。
息子が目を覚ます。
きょとんとした顔。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、部屋には静けさが戻っている。
寝起きも寝つきも泣かない子だけど、今日は違った。
興奮しすぎたのかな。
おむつを替えて、ミルクを用意しても、首を振って泣き出すばかり。
たくさん泣いて、泣いて、泣いて……そのうち疲れて眠ってくれる。
そう信じて、抱き続けた。
1時間ほどしてようやく、腕の中でスヤスヤと寝息を立てはじめる。
ミルクは結局飲まないまま。
時計を見たら、18時を少し過ぎていた。
たった6時間。
それだけで、今日という日は「息子の初節句の5月5日」になる。
夕暮れのオレンジが、カーテン越しに部屋をやわらかく染めている。
窓の外では、街が少しずつ夜に変わっていく。
でも、私の気持ちはずっと止まったまま。
宙ぶらりんで、どこにも着地できない。
息子を抱いて過ごしたこの1時間。
その間ずっと、私は優からの電話を想像していた。
でもすぐに打ち消す。
何度も、何度も。
そのたびに、小さな体の重みが私を現実に引き戻してくれる。
泣いていた、彼。
あの時、何を伝えたかったんだろう。
何が嫌で、何に傷ついて、何に不安になっていたんだろう。
きっと私と似てたんだと思う。
「そんな日もあるよね」
泣く日も、ある。
ミルクの味がしっくりこない日も、ある。
心が落ち着かない日だって、ある。
泣いてくれて、よかった。
そのぶん、私はたくさん抱きしめて、背中をさすって、
「だいじょうぶだよ」って伝えることができた。
そのまま、すぅっと眠ってくれた息子は、
まるで、小さな優しさのかたまりみたいで。
今も私の胸の上で、穏やかに呼吸を繰り返している。
それでもまた時計を見る。
5月5日は、もう残り6時間を切っていた。
私はいったい何を待ってるの?
電話?
メッセージ?
あの日の「また」は、今日じゃないの?
いや、もうかかってこない。
息子は眠っている。
私の中の時間も、少しずつ夜に溶けていく。
息子の温もりを胸に感じながら、
私は静かに、優の「また」を手放そうとしていた。
息子が目を覚ました。
ぱっちりと目を開けて、にこにこご機嫌な顔。
おむつを替えてあげて、「さすがにミルクは飲むよね?」と声をかける。
でも、待ちきれないのか、小さな声で「うー、うー」とせがんでくる。
「ちょっと待って、いま作るからね」
あたふたと準備をして哺乳瓶を口元に持っていくと、ようやく落ち着いて飲み始めた。
「おいしいね」
優しく声をかけながら見つめると、安心したように目を閉じていく。
あれ、もういらないの?
満足そうに口を離し、そのままコテッと私の腕の中で眠ってしまった。
きっと、今日は疲れてたんだろう。
いろんな人に抱っこされて、あちこち動かされて、写真もたくさん撮られて。
小さな体で、たくさんの刺激を受けた一日だった。
そんな静かな時間の中で
優専用に設定してある着信音が、鳴った。
その一音に、心臓がひとつ、跳ね上がる。
息子はすやすやと、さっきより深く眠っている。
けれど私は、眠っていた感情が一気に目を覚ましたような感覚だった。
携帯電話を手に取る。
画面には、たった一行だけの文字。
「ひかり あれから3年経ったな」
優だ。
間違いなく、あの優から。
あれから。
言葉にされなくても、すぐにわかった。
生駒からの夜景、最後に隣を歩いたあの夜。
別れを選んだ、あの日。
3年前の、今日。
優は、それを忘れていなかった。
そして、あの日言った「また」が、やっぱり今日だった。
私は携帯を持ったまま、しばらく動けなかった。
この3年、日々をひたすら積み重ねて、ようやくここまで来たのに。
揺るがないと思っていた足元に、静かに、でも確かに波紋が広がっていく。
優……なんで今なの。
なんで、思い出してくれるの。
私はあのとき、「じゃあね」で終わったって、そう思うようにしてたのに。
でも
たった一通のメッセージが、私のどこかを確かに温めていた。
もう二度と交わらないはずだった言葉。
名前を呼ばれたことに、涙が滲む。
「ひかり」
その文字が、やさしかったあの声とともに、胸の奥に戻ってくる。
返事をすべきか、やめておくべきか。
母になった私。
けれど今、この一瞬だけは、女である私が静かに揺れていた。
そして私は、携帯を開き、指を動かす。
「優、今日連絡あると思ってた。
確信犯だね、お互いに。」
送信ボタンを押した。
それが何を意味するのか、わかっていた。
きっと優も、わかっていた。
私たちは、またひとつ、十字架を背負った。この言葉に、どれだけの年月と想いを込めたんだろう。
迷いながら打ち込んだ指先は、でも心の奥では知っていた。
“この日”に、きっと彼は何かしてくるって。
期待なんてしてないふりをして、ずっと待ってた。
返信が来るのか来ないのか。
どちらだとしても、意味を持ってしまう。
その数秒、数分が、どうしようもなく長くて息が詰まる。
言葉ひとつ、名前を呼ばれただけで、
それだけで届いてしまう距離と過去を、私たちは知ってた。
何かが動き出してる。
まだ小さく、静かに。
優、どうする? 返してくる?
それとも、返さない?
それすらも、きっと優の掌の中。
そして
「共犯者になっていい」
ただ、それだけの言葉が届いた。
息が止まりそうになる。
胸の奥で何かがほどけていく音がした。
やっぱり、優は覚えてた。
この日を、三年前のあの夜を、私たちを。
踏み込めば戻れなくなるって、彼だってわかってたはず。
それでも優は言った。「なっていい」って。
まるで今度は、全部、私に委ねるみたいに。
私はそっと、画面に言葉を乗せた。
「優、共犯者として、これからも生きていくよね私たち」
「ひかり、会いたい」
この日を境に、ふたりの時計がまた、同じ針を刻み始めた。
止まっていたわけじゃない。
別々の時間を歩いて、また同じ一秒に足を踏み入れただけ。
私も優に会いたい....
寝息を立てる息子の隣で、私は携帯を胸に抱いた。
なにもないふりをして、
なにも起きてない顔で、
心の奥に――共犯者の名を、そっと仕舞った。
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