第三十七話 大学視察
白を基調とした古い建物、整えられた庭園。白衣を着た学士と教授が行き交い、どこからか薬品の匂いが漂ってくる。
「――これが、君の学舎か」
感嘆の響きを込めて呟いたレナートに、フェデリカは満面の笑みを向ける。
「はい。ようこそキエザ大学へ」
建国祭からひと月。
レナートとフェデリカは束の間の休息を手にしていた。
***
「ディー!」
声と共にラヴィニアが突進してくる。フェデリカはそれを受け止め、笑みをこぼした。
「ヴィー! 久しぶりね、会いたかったわ」
「え!? どうしたの、熱でもあるの? ディーがそんなこと言うなんて」
「あなたは一体私を何だと思っているのかしら、ラヴィニア」
「あたしの最高のルームメイト! あ、ディーの旦那さんもこんにちは!」
「こんにちは、プロヴェンツァーレ学士」
「学士......! かっこいい!」
はわわ、と感激しているラヴィニアの後ろからカルミネがひょろひょろになって走ってきた。
「足が......速い......ちびの......くせに」
「足腰が鍛えられているラヴィニアとお坊ちゃまのあなただったら、当然ラヴィニアに軍配が上がるわよ」
「お前も、大差ないだろ......へ、陛下!? 失礼しました!」
カルミネはレナートを認めて勢いよく頭を下げた。レナートは苦笑して顔を上げさせる。
「ああ、ラ・ヴァッレ学士。ここではそう畏まらずともよい。同期の夫が見学に来た、とでも思ってくれ」
「は、はあ......」
「フェデリカはあの様子だし」
あの様子、と指差されたフェデリカは、ラヴィニアに捕まり中庭の方へと駆けていっている。
「プロヴェンツァーレ学士は離してくれそうにないし、よければ案内を頼めるかな?」
「へ!? 教授や管理人が対応されるのではないのですか?」
「視察許可はもらったけど、案内は奥さんにやらせてください、と学長に言われてね」
カルミネは目を剥いた。王妃の呼称に奥さんを使うとは。研究者は研究職以外への人間に対する敬意を母体に置き忘れただの会話が成立しないだの言われるが、正しくその通りである。レナートが気にしていないのが不思議なほどだ。
「畏まりました。では、ご案内させていただきます」
「ありがとう。ついでに、フェデリカの話を聞かせてくれないかな?」
レナートは美しい顔に笑みを浮かべた。
***
「ヴィー、早い」
「あ、ごめん」
ラヴィニアが速度を落とし、フェデリカは痛む腹を押さえた。運動不足が身に染みる。
「どこに行くの?」
「ピクニック!」
「初日から!?」
「あれ、だめだった?」
「驚いただけ。困ったわね、ごはん買っていないわ」
「ふふーん。実はついさっき食堂で買い込んできたところなのです」
ラヴィニアは自慢げに持っていた袋を開いた。中にはパンやら日持ちしそうな干し肉が入っている。
「こんなに買うなんて珍しいわね。長時間解剖する予定でもあるの?」
「大正解! 今日の午後、また解剖なんだぁ。ディーが午前中に来てくれてよかった」
「そうね」
座って!と促されて芝生に腰を下ろすと、ラヴィニアはすかさず膝に頭を乗せた。
「あらあら」
「へへ、膝枕久しぶりだぁ」
「そうねえ」
穏やかな風が中庭を吹き抜けていく。中天を過ぎた太陽が噴水を照らす。花がそよぎ、蝶が舞う。フェデリカは目を瞑り、懐かしい匂いを吸い込んだ。
***
ラヴィニアとのピクニックを終えると、フェデリカは物理学の研究室に足を運んだ。驚いたのは己の席が残されていたことだ。え、だって王妃になっても研究やってたし、と研究室の面々は何でもないことのように言った。研究室の学士の計算を手伝ったり、自分の研究の準備を進めたりと、フェデリカは暫くぶりに物理の世界に浸かって幸せいっぱいである。
「――楽しそうでよかったよ」
「あ。案内するの忘れてました。置き去りにして申し訳ありません」
「ラ・ヴァッレ学士に案内してもらったから大丈夫。色々と話も聞けたしね」
「数学についてですか? 最近は対数螺旋についての研究を始めたそうですね」
「君の話だよ」
「へ?」
「2日間研究室から出てこないので心配になって見に行ったら死にかけてたとか」
「あら」
懐かしい。大学に入りたての頃だ。あの頃はラヴィニアとカルミネと3人で朝餉を取っていた。みんな研究室に籠り始め、次第に頻度は減ってしまったけれど。
「光の回折の実験に行き詰ってやけ酒をしたとか」
「あらあら」
付き合わせたカルミネは早々に寝ていたはずだが。
よし今度会ったら酒で潰そう、とフェデリカは密かに決意する。
「面白かったよ」
「それはよかったです——レナート、明日はどうしますか? 物理学の研究室でしたら案内できますよ」
「多分君は1分もせずに私を置いて計算を始めるだろうけど、お願いしよう」
「そんなことありませんよ」
フェデリカは鼻歌を歌いながら資料を取り出す。明日は今日の続きの計算ができる。それだけで幸せな気分だった。
ちなみにレナートの予測通り、フェデリカはざっくりと研究室を案内するとさっさと己の研究を始めた。半ば予想していたので、レナートは暇になると図書館に足を運んだ。国内に3つある大学の内、キエザは最多の蔵書数を誇る。一巡りするだけでも膨大な時間を要した。
「あ、ディー! あとディーの旦那さん!」
「あら、ヴィー。解剖は終わったの?」
夕方、食堂でレナートと一緒に食事をとっていると、お風呂上がりと思しきラヴィニアが駆け寄ってきた。
「うん! あのね、コルティノーヴィス教授が、なんか用?って聞いてたよ。俺明日の午後7時と明後日の午前8時しか暇じゃないって」
「コルティノーヴィス教授?——あ」
フェデリカは誕生日の後、ラヴィニアに問い合わせたことを思い出した。そうだ、あの件を教授に聞こうと思っていたのだった。
「あっ、ディーったら忘れたんでしょ!」
「研究室には物理学以外のことを忘れさせる魔法がかかっているのよ」
「嘘だぁ!」
「嘘よ」
レナートは隣で肩を揺らしている。面白かったらしい。
「じゃあ、明日お伺いするわね。ありがとう、ヴィー」
「どういたしまして! ちょっと変わってるけど、いい先生だよ!」
「あなたが変わっていると評すなら、随分な変わり者でしょうね」
「でもディーどうしたの? どこか具合悪いの?」
「いいえ。ヴィーにもらった解剖図鑑を読んで疑問に思ったところが......」
「解剖図鑑読んでくれたの!? やっぱりあれ素敵だよね! ヴァッレにも言ってやろ。ディーは読んでくれたよって。探して自慢してくる!」
「行ってらっしゃい。ついでに、私の旦那さまに変なことを言わないで、と伝えて」
「あい!」
ラヴィニアが食堂を出ていくのを見送り、フェデリカは隣に視線を投げた。レナートがまじまじとこちらを見ていた。
「医学の教授と話を?」
「はい。つきましては、レナートに相談がございます」
「......ああ」
レナートは食器に視線を落とした。糠喜びをさせたくなかったので出来れば言いたくなかったが、仕方ない。
「一緒に行きませんか?」
「......え?」
***
王宮のベッドより遥かに小さなベッドがふたつ並んでいる。その一方で、フェデリカは安らかな寝息を立てていた。10日間とはいえ大学にいられることがよほど嬉しいのだろう。寝ている時ですら微笑んでいる。
——何を話すのだろう。
医学の教授と話をすると言った。解剖図鑑を読んで得た疑問、わざわざレナートを誘った理由。考えるまでもなく自明のことだが。
——生殖器官を失った場合の人体の変化なんてものを言い出されたら、どうしようか。
フェデリカはその教授とやらにまだ言っていないだろうが、医学の教授がレナートの体のことを知れば興味を持つであろうことは想像に容易い。彼女は言わないはずだと信じているが、であればどうしてレナートを誘ったのだろう。
「......フェデリカ」
黒い髪を梳くと、フェデリカは
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