第49話

 カチ、カチ、カチ。

 

 機械的にそして虚しく時を刻む音だけが鳴る。太陽が出ているにもかかわらずカーテンはぴっちりときつく閉ざされたままで部屋は暗い。日々の喧騒から隔離されたこの空間はまるで深海のようだ。

 

「……」

 

 規則正しい時間の足音。重い首を持ち上げてその発生源を見ると、二本の針は仲良くちょうど真上を指していた。私がベッドに倒れたのは確か午前九時、つまり私は横になって、なにもしないまま一万四千四百歩分の足音を聞いていることになる。それを瞬時に計算して理解できる程には、私は微睡まどろみに呑まれていなかった。

 

 しかし働く頭脳とは反対に体はベッドに縫い付けられて一向に動かない。別にやることが無いわけではない。学校から課された宿題、趣味の料理、新学年への準備、目の前に畳まれた布団の片づけ。やるべきこと、やりたいことは山のようにこんもりと積み上がっていてこんなことをしている場合ではないのだ。

 

 いや、正確にいえば今の私が本当にしなければならないことはたった一つなのかもしれない。だが、その選択肢はとうに切り捨てていた。

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 朝に別れた茜の姿が目に浮かぶ。私と再び親友になった茜は最後もいつも通りの底抜けに明るい笑顔をたたえていた。三ヶ月ぶりに見た、本当にいつも通りのなにもなかったような笑顔だ。

 

 どうしてあんな笑顔を向けられるんだろう。

 

 私は少しも口角を上げなかったのに。

 私は少しも目を合わせなかったのに。

 私は少しも手を握らなかったのに。

 

 ——手紙待ってるからね! てか私から送るか! ——

 

 どうして?

 そんなの答えは明白だ。

 

 茜は私のことが好きだから。

 

 しかし彼女は自分の本当の願いを諦めた。

 その理由もきっと同じ。

 茜は私のことが好きだから。

 

 あんなにも傷つけられたのに、加害者である私をまだ好いてくれてる。本当におかしなやつだと思う。

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 昔からあんな感じだよな。

 

 記憶を遡りながら、布団をぎゅっと握った。

 運動会の二人三脚で、私が転んだせいで負けたのにずっと怪我の心配をしてくれた。腫れ物扱いの私の側にいれば仲間外れは目に見えてるのに、ずっと一緒にいてくれた。心ない言葉のナイフで刺してしまったのに、最後には私を許して慈しんでくれたのはついこの前だ。過去の優しさを思い出せば思い出す程苦しい罪悪感が身を侵す。

 

 涙がつっと流れて枕に染み込んでいき、布団を握る手が少し強くなる。

 私の思考は次の疑問に移った。

 

 どうして茜は私を好きなのだろう。

 

 残念ながらこの問いに関する私自身の回答は持ち合わせていない。長らく学んできた数学や理科とは違い、人間の行動に対する普遍的な答えは存在しないからだ。しかし彼女の答えを引用してよいというなら、私の最終的な結論はこうだろう。

 

 好きになるのに理由なんて無い。

 

 以前の私なら馬鹿馬鹿しいと取り合わずに一蹴してしまう答えだが、今現在の私はこれを肯定せずにはいられない。なぜならこの非論理的考えは、いつのまにか茜を好きになってしまった私自身にも当てはまるからだ。というか、この考えだけしか私の胸中を安定させてくれない。

 

 私の中には茜への好意の理由を模索しようとする思考の歯車が幾重にも噛み合っている。しかし、ここ最近ずっと駆動音を鳴らすこの回路は一向に正しい回答を導き出せないポンコツらしい。そのくせして脳のメモリや円滑な思考に要する糖分を延々と食いやがるので、私はこいつにいい加減見切りをつけて、機能停止に追いやる必要がある。そのために彼女からの受け売りの答えを用意してやって止めなければならないのだ。

 

 あんなにも忌み嫌っていた恋愛が今や自分の行動の中心となってしまった。私も随分と落ちたものだ。あるいは彼女に言われた通り人間らしくなった故か。ともかくその辺に関しては、以前の私に戻るリハビリがいる。。

 

 茜を好きって自覚してるのに、どうして頷かなかったの?

 

 脳内に直接響くような自問が今一番脆い部分を集中的に突き刺してきた。

 

「だって……」

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 無意識に声を漏らしながら答えを出す。

 

 だって、私は私でいたいから。

 

 常日頃風見鶏かざみどりになって生きるのは疲れるって知ってしまった。風を読めなければ、相手を害して自分に嫌気がさす。読めたところで何事もなかったよかったねで終わり。だったら自分らしく振る舞っているほうが楽だ。

 

 だって彼女の愛は大き過ぎるから。

 

 きっと私が抱いているこの恋心では決して天秤は水平にならない。私は大きく傾いた天秤をずっと彼女に重ね合わせながら生きていくことになる。そんなことできっこない。自責の念にむしばまれて自壊するのは目に見えている。

 

 だから、これでいいんだ。

 

 それに恋愛の『れ』の字に足を踏み入れたばかりの私には遠距離恋愛なんて難易度が高過ぎる。ここでキッパリ線引きしたほうが彼女にとっても憂いなく新天地で活躍できるだろう。将来は日本を代表するかもしれないのだから私のことに時間を割くよりも、自分のために使うべきだ。それに加え、私もいつも通り勉強できて、これからの大学入試に集中して臨める。

 

 もう夜遅くまで携帯で駄弁ることもない。

 わざわざ休みの週末に出かけることもない。

 放課後の教室で二人っきりで残ることもない。

 たくさんの個人の時間が持てる。お互いに良いことだらけではないか。

 

 理想的だね。完璧だ。

 

 脳が完全無欠で合理的な理由を弾き出すと同時に、目からは涙が流れた。

 これ以上枕を濡らすのはマズイと思い右手を目元へ動かす。すると期せずして親指が唇に触れてしまった。

 

「あ……」

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 昨晩の温もりの残滓ざんしを求めて、唇に強く指を押しつけた。だが既にそこに求めるものは無い。自分自身の低い体温の乾きだけ。

 

「……」

 

 茜がただ遠い地へ行ってしまうことに、こんなにも心がざわつくのは、こんなに悲しいのは彼女と交わしたキスがあるからなのだろうか。

 逆にキスさえしなければ、私は彼女を笑顔で送れたのだろうか。

 ただ触れただけなのに異常なまでに私を狂わせて、悲しみで押し潰す。

 こんな思いをしなきゃならないなんて。

 やっぱり。

 

 部屋中に軽快な音楽が鳴り響いた。

 顔を傾けると机の上のスマホが画面を点けてバイブしている。

 私の心境とは真反対の調子に、理不尽ないらつきを覚えながら寝台から足を下ろす。

 

 誰だよ。

 

 目にかかる前髪を払ってメガネをかけると、着信画面には『長谷川』と発信者が表示されていた。

 

 長谷川? なんで? いつ登録したっけ。

 

 ぼんやりとした頭で思い返すとあの試合の昼食を行き着く。しかしあれから私と長谷川は絶交状態だ。予想だにしない相手に戸惑いつつ緑のボタンをタップした。

 

「もしも——」

「てめぇっ! 今どこにいやがる! 家か⁉︎」

 

 口上を言う前に怒声が私の耳を打つ。相手が長谷川というだけでそうなのに、その裂帛れっぱくの声色に更なる戸惑いを覚えた。

 

「そうだけど……」

「聞こえねぇ⁉︎ 家か⁉︎」

「そうだよ!」

 

 なんだよ、聞こえないって。

 

 スマホ越しの向こうはなにかの轟く音で相当騒がしく聞こえにくいらしい。その騒音に聞いているこちらが顔をしかめてしまう。

 

「要件は?」

 

 それよりも大切なことを単刀直入に聞く。

 

 一人にしてくれよ。

 

「なんで茜の見送りに来てねぇんだよ! 彼女じゃねぇのか!」

 

 あぁ……それか。

 

「……それはもう終わったんだよ」

 

 今一番触れて欲しくない部分に不躾ぶしつけに触れられて内心腹が立つ。

 

「茜とは昨日で終わった」

「ああ聞いたよ! 私は駅まで見送りに行ったからよ。そこで聞いた。そして茜がまた恋人なろうって言ったのに、断ったこともなぁッ!」

 

 なにをそんなにキレてるんだこいつは。部外者のくせに。

 

「知ってるでしょ? 私と茜は歪な関係、期限付きの恋愛だって。その期限が切れたから別れた。そんだけだろうが!」

「……本気で言ってんのか、てめぇ……」

「なに」

「本気で言ってんのかって聞いてんだよッ!」

 

 電話越しでも伝わってくるその怒気に私は僅かに怯んだ。

 

「ふざけた回答したら今度はマジでぶん殴る。いいか? ちゃんと答えろ。なんで別れて、告白を振った!」

 

 この様子、決して冗談で言ってるのではない。

 

「……茜と付き合ってると、茜に気を使い過ぎて疲れるし、私の行動で傷つけたくない。それと茜の愛が重過ぎて、私には相応しくない。それが理由」

 

 簡潔に答える。

 

「それだけか」

「うん」

「……お前、この交際期間で嫌なこといっぱいあっただろ。どうせ、自分に似合わないこと無理矢理やらされて」

「それは……ある」

「嫌だったか?」

「それはもちろん。散々だった」

「じゃあ、それを強いた茜のことは嫌いか?」

「……」

 

 壁にかけられた衣服を見る。それは強制的にコーデされた服。今ではお気に入りになった。

 机に置かれたメイクポーチに目がいく。色々買わされたけど、今では毎日のケアは欠かさない。

 自分の唇に触る。

 大嫌いだったキス。あれは心安らぐものだった。

 いとうことなんて山程あった。

 

 だけど。

 

「……嫌いじゃない。全然」

 

 拒否権無しにそれをさせてきた茜のことはちっとも嫌いになんかなっていない。

 

「そうだろ? それと同じだよ」

「同じ……」

「ああ。お前が多少変なことしたって、まりー大好きっ子な茜はお前を嫌いになったりしない。そもそもお前は普段から傍若無人ぼうじゃくぶじんで、それを幼馴染が知らねぇわけねぇだろ? 知ったうえで付き合いたいって望んだんだよ。てめぇが勝手に日和ひよってるだけだ」

「でも私は現に茜を悲しませて——」

「お前はそこからなにも学べねぇのか? 一度やった失敗を繰り返すのか? あの学年一位の天才紫水茉莉花がよ! やっちまったことは仕方ねえ。だから、もうしないようにっていうのは、ガキでも分かると思うけどな!」

「……っ!」

 

 人は失敗を糧にして学ぶ。それをデータとして蓄積して次に繋げる。

 それを誰よりも得意として、誇っていたのはこの紫水茉莉花のはずだ。

 

「それに茜の愛は重いだぁ? 小学生のチビの頃にしてもらったことの恩返しを、忘れずに今してるくらい、義理深いやつを重いの一言で片づけるほうがおかしいと思うけどな。その愛に応えるくらいの意気地を見せろや!」

「でも、私には、すぐには……そんな–—」

「すぐじゃなくていいんだよ。それこそ何年越しだっていい。小さい期間で見れば借りは大きいかもしれないけど、長い期間かけて応えて、支え合うんだよ。あいつは、茜はそれを待っていてくれるやつだし、お前のやることなら大抵喜ぶんだよ」

 

 今後も借りが多くなるなら、また返していけばいい。

 前みたいに。貸し借り平等原則に基づいて。

 

「お前知ってるか? 多分気づいてねぇよな。茜はな、お前のことを話しているときがいっちばんのいい笑顔してんだよ。私とつるむときだってバスケをしてるときだってそりゃ楽しくて仕方ないみたいだ。だけどよ、どの笑顔よりもお前のこと思って浮かべる笑顔のほうが何百倍も何億倍もキラキラしてんだ!」

「……それは、知らない」

 

 そうなのか……。

 

 これだけ近い距離にいて知らなかった。違う、距離が近過ぎて分からなかった。

 彼女の笑顔の真の価値に。

 

「そうだろうな! だから惨めにくよくよしてる。てめぇはてめぇにもっと自信を持て! 自分のことをちゃちなもんって終わらせるな! 気にいらねえし、腹立つやつだけど……お前は……いい女だ、紫水」

 

 ああ……。

 また後悔してる。

 断ってしまった事を。

 

「お前の悩みはな、その行くつく先を見れば、全部茜だ。茜を自分のせいで傷つけたくないって。なんで、そこまでして茜を気遣う? どうして茜を中心に全てを考える? 答えろ、答えろよッ、紫水茉莉花ァッ!」

 

「だって! 茜のこと! 大好きなんだもん!」

 

 いつしか私の声は涙に濡れていた。

 その涙を力いっぱい払うように叫ぶ。

 ようやく吐露できたこの想い。

 ごめん、とかは伝えたかった言葉ではない。

 邪魔な理屈を全部ぶん投げて、蹴飛ばして、ストレートにぶつけたかったもの。

 

 大好き。

 

 本当はこれだった。

 

「よく言った! 紫水!」

「でも、どうしたらいいのよ……? どうやって伝えれば……」

 

 今気づいたところで茜はもうフライトに向けて旅立った。正直になったのに会うことも叶わない。

 

 伝える術は……無い。

 

「まだあるッ!」

 

 キキィッ!


 つんざく音。

 それはスマホを当てた右耳、外界に晒された左耳、その両方からしっかと聞こえた。

 ハッとする。

 窓辺に走ってカーテンを開く。

 貫くような陽の光に真っ向から立ち向かい階下を見下ろした。

 

「そのためにウチがいる!」

 

 赤いボディに跨ったスレンダーなライダー。

 唸るエンジン音。

 フルフェイスのバイザーを跳ね上げた長谷川は私に向けて親指を上げて、掲げた。

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