第48話

 茜と連れ立って戻った食卓はあくまでなにも無かったように迎えてくれた。茜が言っていた通り、引越しを前に私は動揺していると思われているらしい。私としては答えにくい詮索をされないで済むので、そんな認識のほうが助かる。

 

 食事はそのまま晴れやかな空気で終わり、皆で片づけをした。客人なんだから、と茜のお手伝いを家族はやんわりと遠慮したが、当の本人はやりたくて仕方がない様子で、そうされると私一人戻るわけにもいかない。流石飲食店のアルバイトだけあって、下膳さげぜんのこなしは手練てだれだった。茜ちゃんがお嫁さんに来てくれたら助かるわ〜、なんて母は言ってたけど、その返事には二人とも困ってしまった。

 

 私が先にお風呂を終わらせ、入れ替わりに茜が入る。その間に私は客人用の布団等寝具一式をベッドに並ぶように床にしつらえた。これで私の部屋に二人寝ることができる。

 

「ふぅ……」

 

 布団を用意してると中学校の宿泊学習を思い出す。私は楽そうだからという理由だけでリネン係を選び、班員全員の寝具を用意していた。

 

 あいつベッドメイキングが下手くそだったから、私がやってあげたんだっけ。

 

 寝れればいいっしょ! とかいう発言がいかにも茜らしい。

 

「お風呂いただきましたー」

 

 用意が終わったところでタイミングよく茜が戻ってきた。お風呂上がりのあったまった体にもこもこのうさ耳パジャマで、ぬくい度は高そう。

 

「まりーの用意してくれたお布団なんて宿泊学習を思い出すね〜」

「うわ一緒のこと考えちゃってた」

「うわってなによ。うわって」

 

 布団の上にぼふっと座るとペットボトルの水をぐいっとあおった。

 

「まりーは床上手だったからね。寝心地よかったの覚えてる」

「やめろ。それ誤用だから」

「ん? 布団の用意が上手いってことじゃないの?」

「違ぇよ。あー、性交渉が上手いってこと」

「なーんだ、合ってんじゃん」

「は?」

「だってこの前いい声でいてくれてたから、受けとしては天才だよ」

「うぅ……」

 

 思い出すと恥ずかしい。無性に顔を隠したくなる。

 

「それナシ。ノーカウントで」

「ひどい。私との初夜がノーカンなんて〜」

「結婚してないからね。じゃあ電気消すよ。明日早いんでしょ」

「はーい」

 

 ピッという電子音で天井のシーリングライトがオレンジ色の淡い常夜灯に切り替わる。薄暗闇の中私達は各々の布団に潜った。

 毛布を被ってからその上に羽毛布団を肩まで上げる。

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 時を刻む時計。

 

「……」

「……修学旅行だとさ、消灯してからのお喋り楽しいよね。恋バナとか。エクストラステージみたいな特別な気分になる」

「私は真っ先に寝てたね」

「つれないな〜。おいおい、恋バナしようぜ! お前彼女とかいんのかよー!」

「えー俺いないよ〜」

「嘘だーそこそこイケメンでサッカー部キャプテンなのに。絶対裏でヤってるだろ〜」

「黙れよぉ〜。え、てか山田は?」

「しょ、小生はが、画面の中に永遠とわの愛を誓ったお嫁さんがいるであるから。さ、三次元とかワラ

 

 全部CV茜である。

 

 ノリが完全に男子だ。っていうかヲタク君いたぞ。

 

「山田はいっつもそれだよな。紫水は?」

「おい、巻き込むな。全役演じ切れ」

 

 急にターゲットが私になり、無理矢理寸劇に放り込まれる。というか寸劇が私を飲み込んだという表現が正しい。

 

「答えろよ〜」

「だりぃ。あー一応いるわ。小榑茜っていうの」

「え、小榑茜ってバスケ部超エースで顔面偏差値八億くらいでスタイル抜群超絶完璧美少女の小榑茜?」

「うん、違うね」

 

 よく言えたな。最初しか合ってない。

 

「あの小榑茜と紫水がか〜」

 

 なにも聞いてないし。

 

「付き合ってどれくらいなの?」

「約三ヶ月だね」

「へー。馴れ初めは?」

「馴れ初めは……」

 

 記憶を一月の上旬までタイムスリップさせる。

 

「放課後だったね。放課後の空き教室で、今度転校するから思い出つくりに付き合おうみたいな流れで言質取られた」

「なにそれ〜波乱の幕開けじゃん」

「お前の所業だかんな」

「付き合ってどんなことしたの? デートとかさ」

「どんなこと……一緒に劇場行って演劇見て、キャストさんと直接お話ししたり、原宿で殺す気かってくらいの激辛ハンバーガー食べたり、びしょ濡れになって耳かきしてもらったり、バイト先でカルボナーラ食べたり、バスケの試合見に行ったり、テストで負けてラブホ連れてかれたり」

 

 言わないけど私が泣いたり、逆に泣かせたり、長谷川に殴られそうになったりもしたし。

 思い出すと色々と失敗というか後悔する部分もやっぱりあって、自然と眉間にシワが寄ってしまう。

 

「とてつもなく濃密な三ヶ月だね」

「ああ、全くだね」

「どうだった? 感想」

 

 感想か。

 

 思いを募らせる。

 色々なことがあった。もう色々としか表現できないような、星の数だけの出来事があった気がする。泣いたり笑ったり。喜んだり怒ったり。

 

「まぁ……全体的に見れば楽しかった……って言えると思う。もちろん嫌なことも同じくらいあったけどね。そこは根に持つから」

「あらま」

「一人じゃ絶対にできない体験をしまくったね。そしてそのほとんどが私の初体験で……なんていうんだろ、世界が広がったなって感じ」

「なんか面接官にウケがいい受け答えみたい」

「言ってろ。これが性分なの」

 

 恋愛、ファッション、部活、観光、娯楽、勉強、そして人間関係。

 皆すべからく、今後の私の価値観に影響してくることばかりだ。それが良い方向に転ぶのか悪い方向なのかは知る由もない。

 

 今言えること、それは私が変わったということ。

 

「私は変わったね。前に茜に聞いたけど、今では自分でも変わったって即答できる。なんなら力説できる」

「おー」

「……多分今ならなんとかやっていけそうな気がする。前より人と関わるの嫌じゃない。幼馴染の茜のことでさえ知らないことがあって、それを知るのは、まぁ面白くて。だからきっと世界は座学で学べることよりも、もっと面白いんだと思う。だから……」

 

 寝返りをうって茜の方を向く。

 彼女は既に私を見つめていた。

 

「ありがとう。私は茜が転校しちゃっても、ちゃんとやってくよ。安心して」

「……いつから知ってたの?」

「この前の放課後。長谷川との話聞いちゃった」

「あんときか。まぁあんときしかないか。勝手に話ちゃってごめんね。昔のこと」

「いいよ。寧ろよく覚えてるね」

「忘れるわけないじゃない。私にとっての恩人なんだから」

「そりゃそうか」

 

 私にとっては今では大したことない記憶だけど、こいつにとっては一連のいしずえか。

 

「茜はどうなの? カップルできて」

 

 今度は私が聞く番だ。

 

「幸せだった。大好きなまりーと手を繋いで、お出かけして、一緒に夜を過ごして。間違いなくサイコーな思い出。百点満点! サイコーの中でも特にサイコーなのはやっぱりキスかな」

「やっぱりそれか」

「あったりめぇだだーだーだー♫」

「その思い出大切にしなよ」

「うん。一生の思い出。私の、私達の」

「……」

「……」

 

 交わる視線。見つめ合ってるだけなのに茜は底抜けの笑顔を見せた。

 

「私は茜の思い出つくりに協力できて」

「私はまりーを変えられて」

「お互い借りを返して、契約満了……って感じかな」

「……そだね」

 

 思惑はそれぞれ違ったけれど、この恋人関係の目的は達成された。

 そしてその役目を終えた契約は解かれる。

 

「見て」

 

 茜が取り出したのは、事の始まり、ボイスレコーダー。

 ディスプレイに表示される現在時刻は23:59。

 掲げられたまま時が過ぎる。

 そして、日付を越えた。

 現在時刻00:00。

 茜の指がボタンを操作して一つの項目にカーソルが合う。

 その項目が選択されたまま、茜の指はゴミ箱ボタンを押下おうかした。

 ディスプレイ上ではデータが画素一粒一粒モザイク状に消えていき、あっという間に真っ青に置き変わった。

 

「これで終わり」

 

 ずっと願っていた恋人の終焉。いざしてみれば随分と呆気ないものだ。

 だがこれで、私はいつもに戻れる。

 

 前のいつもとは似て非なる、三ヶ月ぶりのいつもに。

 

「じゃあ、寝よっか。おやすみ」

 

 親友に背を向けて、胎児のように丸まり、私は眠りの世界を目指した。

 

 カチ、カチ、カチ。

 

「……」

「……まりー」

「なに」

「そっち入るね」

「……どーぞ」

 

 布団が捲られて、やっと暖まった空気が逃げ出していき背中が寒い。その代わりに茜の身体が密着した。茜の顔が肩にもたれる。

 

「こっちのほうが、ぬくぬくだね」

「そりゃどーも」

 

 そのまま幾許いくばくか。時計も見えないし寝かけの状態ということもあって、時の流れは掴み切れない。

 

「……夕飯のときさ、自分勝手でごめんって謝ってたよね」

「うん」

「私にもさ……自分勝手、させて」

「……」

 

 肯定の沈黙。

 

「……さっきさ、話したじゃん。恋人期間の思い出」

「うん」

「実はね、話していない部分がいっぱいあるの。……それはね、あえて話さなかったの」

 

 布団の中で茜の手が腰を回って、私の指に自分のそれを絡ませる。

 

「だってそれは最終回で語りたくない……って思ったから。何気ない日常の中で……もしかしたら記念日とか特別な非日常もあるかもしれない。そういうときに、あんなこともあったなって思い出して、笑い合いたいの」

 

 そっか……。

 

「この三ヶ月も、恋人としてはおかしな……稀有なエピソードだけど、これだって大切な思い出で……。ここで終わりたくない。繋いでいきたい」

 

 そうだよね……。

 

「私はまりーの唯一無二の恋人として、パートナーとして、愛して、愛されたい。物理的な距離は離れてしまうけど、心の距離は離したくない」

 

 薄々思ってた。

 

「まりーのしっかりしてるとこも、実は打たれ弱いことも、料理好きなとこも、素直じゃないとこも、可愛いところも、意地悪なところも。全部全部愛すから」

 

 やっぱりそうなっちゃうよね。

 

「まりー、私と付き合ってください」

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 夕飯のときとは違い扉越しではない、より確かな茜の存在を背中で感じる。

 居心地がよくて、揺籠ゆりかごのよう。

 

 ずっとこうしていられたら。

 ここで死ねたら。

 私は幸せなんだろうな。

 

 絡まる指を空いた手で一本、また一本と解いていく。


 でもこの揺籠は、檻だから。

 この檻は本当の私を閉じ込めるから。

 

「ごめんなさい」

 

 私はしっかりとその言葉を口にした。

 

「どう……して……?」

 

 ひび割れた声が私を責めている気がした。

 

「それが……ダメなの」

「ぇ……」

「茜と付き合ってると、茜を悲しませちゃうとか傷つけちゃうとか、そんな心配ばかりが心を埋め尽くす。そして……本当にそうなったときは、張り裂けるくらい苦しい。悔やんで、責めて、自分が嫌いになる。そうして私は……私でいられなくなる」

 

 腰に回る腕を、そっと剥がした。

 

「それの繰り返しに……疲れるの。……私は変わったよ。だけどこの変化は望んでいない」

 

 すん、すんと繰り返し鼻を鳴らすのが肩越しに聞こえる。

 

 ほらね。私は今、茜を泣かせる私が嫌い。

 

「それに茜の愛は大き過ぎるから」

 

 私はもう一つの理由も正直に告げる。

 

「茜はいい子だよ。だけどその愛はね、私なんかが受け取っていいものじゃない。ううん、私には不釣り合いで……受け止めきれないの。私は茜が思うよりもちっぽけで、しょうもないやつだから……茜からもらった愛情に応えられるようなやつじゃない」

「そんな……私は、まりーを愛してるだけで——」

「私がだめなの。やっぱりもらってばかりじゃ、落ち着かない……っていうかそれも苦しい。それに恋人になって分かったと思うけど、私は返せなかった」

「いっぱい返してくれてたよ?」

「それは茜から見て、で……私自身は納得してない。これは私の問題だね。ごめん」

「そんな……」

「お互いが納得できないなら、この関係は……やめといたほうがいい。本当に、ごめん」

 

 泣く声が大きくなっている。

 その涙を拭いてあげたかった。

 抱き締めたかった。

 だけど、その資格は、私には無い。

 

 ごめんね。ごめんなさい。

 

 胸中で何度も何度も、自己嫌悪にまみれた謝罪を繰り返した。

 私にできることはそれだけだった。

 

「……っ、まりー」

「なに」

「……付き合うのがだめなら、せめて、これだけは聞いてもらえる?」

「なに」

「私と……最後のキスをして」

「……」

 

 布団を押し退けて寝返りをうった。

 彼女の目の縁には、常夜灯でも分かる程の光輝こうきがいくつも点在していた。

 

 茜がそれを望むなら、それでいいなら私は応えよう。

 

 茜からだった。

 私は動けなかった。

 押しつけられた唇を無抵抗で受け入れる。

 瞼を上げると、彼女の目尻から流星が一つ流れた。

 瞬く間の重なり。

 

「ありがとう。戻るね」

「うん」

 

 それが今晩交わした最後の会話になった。

 朝日が昇れば私達は離れ離れになる。そのときをただ待つのみ。

 しかし過ぎゆく時は非情な程遅く、無窮むきゅうともいえた。

 なぜなら、不自然な程に深く被った布団が震える様子を見て、独り眠りの世界へ逃げるなど到底できなかったからだ。

 これは贖罪しょくざいに違いなかった。

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