第45話

 遠い遠い昔のこと。

 幼い私達のこと。

 

「小学一年生かな。夕方の公園でさ何人かでバスケしてたんだよ。そしたら私がハンドリングミスって、近くにいたカップルの脚に当たっちゃって……」

 

 そのカップルはとても健全な若者ではなかった。男は髪を派手な色に染め上げ、女は酒を片手にしていたと思う。なぜあんな二人が喫煙しながら公園にいたのか、それは分からない。それはどうでもいい。

 

『は? 服汚れたんだけど』

『マジ? おいふざけんなよ、ガキども』

 

 女は土がついた服をはたきながら不貞腐れ、男は私達小学生グループに近寄ってきた。

 

「ボールを当てたのは誰だ、って怖い人が聞いてきて。そしたらさ周りの子が皆私のことを指さしたの。まあしょうがないよね。皆小さい子供だから、とりあえず自分のことは守るし、当てたの本当に私だし。それでその人が私に詰め寄ってこう言ったの」

 

『どうしてくれんだ? おぉい! こいつが気に入ってる服なんだよ』

『これすっげぇ高かったんだけどぉ』

『ガキ! どう弁償すんだよ!』

 

 吸いかけのタバコが、金属がジャラジャラとついたスニーカーにグシャッと潰された。自分もこのタバコみたいになるかもしれない。そんな怯えと戦慄を子供達に植え付けるには十分過ぎる迫力だった。大人気ない程の怒号を浴びせられた年端も行かない茜はどうしていいか分からず、ただただ瞳を潤ませていた。

 

「そしたらまりーが私の前に立ったの。こう、腕を広げて」

 

『ごめんなさい! 間違えてボールを飛ばしてしまいました。本当にごめんなさい』

 

 小動物が少しでも体を大きく見せるように。でもそれは弱々しい虚勢で隠しきれない恐怖が全身を震わせていた。

 

「信じられなかった。周りの皆は怖くて動けない。自分が狙われたら嫌だって思うのが当たり前なのに、あの子は自分から私の前に立った。その小さな体で私を守ろうとしてくれた」

 

『でもそのお洋服、ぜんぜん汚れてないです! ボールもどろんこじゃなかったし、少し当たっただけでした!』

『はぁ? それはアタシが今頑張ってキレイにしたからでしょ?』

『じゃあいいじゃないですか。キレイになったんですから。ゆるしてください!』

『おい。汚れたか汚れてねぇかはじゃねえんだ。俺らは気分悪くなったんだよ。あ゛ぁっ⁉︎ 分かるか⁉︎ さっきからわーわーきゃーきゃー騒いで——』

『分かりませんっ!』

『このくそ——』

 

 そして私は手首を掴まれた。

 大きい大人の手で。逃れられない力で。

 抵抗する細い身体は無力だった。

 

しつけが必要だなぁ! こらぁッ!』

 

 汚い顔面から至近距離で浴びせられた罵声は鼓膜を打ち、脳を震わせる。それを見ながら下品な笑いをする女の声は甲高くて鮮明に覚えている。

 気持ち悪い。

 怖い。

 嫌だ。

 どう足掻いても敵わないと判断した私はベルトループから垂れる紐を思い切り引いたのだった。

 

「まりーは防犯ブザーを鳴らしたの。防犯意識が高くて、日頃からつけてたみたい。それが不幸中の幸い」

 

 けたたましい警告音が公園を超えて響いていく。

 

『チッ』

『あーあ。ね、もう行こ。飽きたし見つかってもだるいわ』

『ああ』

 

 虫でも払うかのように乱暴に解放された私は地面に伏して動けなくなった。そこからの仔細はもう覚えていない。どうやって帰ったのか。親になんと言ったのか。ただ一つ明白なのはそのときから今の偏屈が始まったこと。

 

「それから……まりーは外に出ることが少なくなった。一緒に外で遊ぶのもめっきり減って……他の子ともね。しかもまりーってば、あの事件のときすぐに私を指さした子達を責めちゃったんだよね……」

 

 茜が言ってた通り小さい身にはあの選択は正しい。しかし同じく小さな身の私には納得できることではなかった。

 茜を売った。

 仲間の子達に対して、大切な人を守らなかった裏切り者という身勝手な解釈で距離を置いて、自分は孤立した。

 

「……ギスギスして他人と関わらなくなって。そして、閉じこもるように勉強熱心になって。するとさ、どんどん賢くなって大人びちゃうわけよ。そしたら更に寄せ付けない空気出すからもう無限ループ」

「そう……なんだ……」

 

 そう呟いた長谷川は苦い顔をしている。正義感が強いあいつの事だ。今の話は聞いただけで相当胸糞悪いのだろう。

 

「でも、それが紫水と付き合うことに関係あるの?」

「あるよ」

「……どういうこと?」

「……放課後一人寂しく残ってる背中とか。あの子がひたすらに机に向かっているのを見るとときどき思うんだ。私があのときボールを離さなかったら、まりーが友達いっぱいの絵に描いたような青春してる世界だったかもしれない。私がボールを飛ばしたことでまりーは一人ぼっちになったのかもしれない」

 

 そんなこと……!

 

「まりーは多分今の世界を彼女らしく楽しんでいるだろうけどさ……。一緒に外で駆け回ってたまりーのほうが生きやすいのかなって思っちゃうんだよ……」

 

 それは違う、と声を大にして言いにいきたかった。

 私は選んでこんなになったのだ、と言いにいこうとした。

 

 だけど、もしなんでも願いを叶えてくれる神が、あの時の私に戻してくれると言ったら、私は断るだろうか。

 

 茜の考えに賛同してしまう私もいる。その私が上がろうとする足を押さえつけていた。

 

 あの事件がなければ、私は殻にこもることもなかった……?

 こんなめんどくさい性格もしてなかった……?

 

 そうして逡巡しゅんじゅんしている間に茜の独白は重要な事を伝えた。

 

「だからこの恋人関係は……私の償いと。私がいなくなった後でも困らないように……周りと上手くやっていけるように手助けするための。あの日助けてもらった私は、まりーを変えてしまったかもしれない私はその義務がある」

 

 思わず開いた口に手を持っていった。

 

 茜の……恩返し……?

 

 だってそれはこの関係の根幹を揺るがす真実。

 私にとって恋人関係は長きに渡って積み重ねてきた借りを返すためなのに、茜はまた別の借りを返すために私と付き合っている。

 だとすれば、総計すれば私の果たすべき義理は終わってる……そもそも最初から差し引けば借りなんて存在しない……。

 

「それが理由……」

「そ。絶対あの子こういう強引な方法取らないと拒否するでしょ? 余計なお世話だ! って言ってがおーって」

 

 なんで……。

 

「これでもいっぱい嫌がられたけど、にはは」

 

 なんでそんなに、私なんかのために……。

 

「……一通り分かった。一つ確認したい」

 

 その口調からは納得できてるか確かめることはできない。ただそこにある事実をはっきりさせようと長谷川は口を開いた。

 

「紫水のこと、恋人として好きなの?」

「もちろん! 大好き! 愛してる!」

「……即答じゃん」

 

 目の前に告白してきた人がいるというのに、ニカッとバカ正直に惚気てる。

 それを素直に、正面から受け取れないのは……なぜだろう。あの笑顔を見ると、どうしてネガティブな息苦しさが這い上がってくるのか。

 

「……はは、完敗だ。ウチに望みは無いんだね」

「……だから、さっきの告白だけど、ごめんなさい。私には大切な人がいます」

「……うん」

「希美ちゃんはね、恋人じゃないけど、最高の相棒だよ。希美ちゃん程背中を預けられる仲間はいない。それは忘れないで」

「……ん」

「そんな悲しそうな顔しなーいで」

「あ……」

 

 茜は長谷川の頬にそっと口を近づけた。

 アメリカで触れた慣わしだろう。そのチークキスは紛れもない親愛の証。

 

「希美ちゃんだって私の大事な人なんだから!」

「うわ!」

 

 テンション高い男子高校生みたいなノリで肩を組んで叫ぶ。

 

「はい、BFF!」

「ちょ! 何それ」

「べすとふれんどふぉーえゔぁー。ばーじゃなくてゔぁーだよ。唇噛むの」

「そこ大事なの?」

 

 いつのまにか太陽に照らされたように長谷川の表情も明るくなっていた。

 

「大事! はい写真撮ろ。写真」

「えぇなんで⁉︎」

「大親友記念。はい、決めろテイクアセルフィー」

 

 私が今入っていくのは違う気がする。

 覗き見ていた教室を離れ、私は校舎一周の散歩に出る。

 この放課後は長谷川にとって大事な大事な、もしかしたら一生の思い出になる放課後かもしれないから。だから気を利かせているのだ。

 

 ただそれだけなんだ。

 

 非常口のランプが異質に浮かぶ。とうに下校時間を過ぎた校内は暗く、私は当て所なく見えない向こうを彷徨さまよった。

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