第30話

 時計の短針は右斜め上くらい、私の自室にて二人で静かな時間を過ごす。

 痛過ぎず、弱過ぎない完璧な力加減の耳かきが私の心を落ち着かせていた。あわせて私の頬と茜の太ももが繋がって体温を共有しているようなこの感覚にも最近は母性のような安心感を覚えていて、マイブームになってしまっている。

 聞こえるのは時計の音と二人の息遣いだけのこの部屋でそっと茜が口を開いた。

 

「まりーってば普段は一匹狼っぽいけど、耳かきするときはチワワになるよね」

「失礼な。誰がチワワだ」

「私が耳かき持ったら尻尾振って駆け寄ってくるでしょ」

「そんなことしないし。そんなの私のキャラじゃない」

「こんな膝枕してる状態で言われてもねぇ」

「……」

 

 確かに、という言葉をすんでのところで飲み込む。それを言ってしまったら負けな気がする。

 

「べ、別に茜が耳かきしたいって言ってたから私はさせてあげてるの。仕方なーく」

「じゃあ、終わりにしよっと」

「えっ」

 

 私を癒してくれる竹棒が耳から抜かれてしまった。

 

「どしたのそんなに見つめてきて」

「うっ……」

 

 茜を見上げる速さは俊敏だった。それは私から耳かきを求めるみたいで。

 

「もっとして欲しいの?」

 

 幼稚園児になにか欲しいの? と聞くように微笑みながら首を傾げる茜に私は抵抗する術を持たなかった。

 

「………………して欲しい」

 

 内なる私に言われたのだ。心に従え、と。

 

「それならそうと言ってくれればいいのに〜もう〜」

 

 私はとっくに負けてた。なんならチワワだった。

 

 だって自分でするより気持ちいいし……。

 

 茜には口が裂けても言わないが私の耳は茜のテクニックのとりこになっている。自分でいくらやっても、彼女にされるときの満足感はちっとも味わえなくてモヤモヤするのだ。バスケの才だけでなく耳かきの才も持ち合わせたこの女は、天は二物を与えずのよい反例である。

 

「むずかしーこと考えてるかおー」

「ええい、つまむな」

「だって悩んでそうなんだもん」

「別に」

 

 茜はふーんと口を尖らせると、耳かきを終え梵天での仕上げに入った。ふわふわ、さわさわと耳を撫でる柔らかい感触にまた一層心地いい。私は首を伸ばして目一杯それを享受する。

 

「それにしても君は随分と柔らかくなったね」

「……」

 

 肯定はしたくないけど否定はこの状況だと説得力ないし……で迷った挙句私は沈黙を返事にした。

 

「はいお終い」

「んーありがと。褒めて遣わす」

「ありがたき幸せ」

 

 私はのそのそと起きるとベッドを背もたれにして茜の隣に座る。すかさず茜はその頭を私の肩に預けた。

 

「こんな風に一緒に過ごせる時間もいよいよ少なくなってきたね」

「そう……だね」

 

 ただ目の前の事実を肯定する。

 

「この関係も終わりに近づいてきたし、まりーは嬉しいことに人間っぽくなったことだしそろそろお願い聞いて欲しいな〜って」

「……なにを?」

「そりゃあまりーとのくちづけ。キッス〜」

 

 とぼけた私に彼女は案の定の答え、それが出づるは上目遣いのあざといおねだりフェイス。

 茜と過ごす時間はいつしか日常とイコールになっていて、恋人という肩書きには反吐が出るが、この時間は悪いものではないと思い始めている私がいる。茜が喜べば、自然と私の表情も和らぐ気がするし、逆に悲しい姿はあまり見たくない。というかいたたまれない気持ちになってしまう。

 

「……」

 

 返事を期待する茜の無垢な瞳。私は今からこれを曇らせることになる。

 

 やっぱりなぁ……。

 

 やはりこの関係は終わりにする必要がある。良くも悪くも私は茜に影響され過ぎていて私が私ではいられないのだ。だから私は今すんなりと拒絶の言葉が出てこない。

 以前の私だったらきっと違うのに。

 

「はぁ」

 

 一息つく。

 今回も断ろ。

 私はキスが受け入れられない。別に茜が相手として不適というわけではない。そういうことじゃないのだ。

 

「茜。その、やっぱり私は」

 

 待てよ。

 

 出かけた言葉をグッと飲み込む。

 脳に電流が走りシナプスが活性化。私はこの歪みを是正する最高にイカしたプランを思いついてしまった。風呂に入っていたアルキメデスがアルキメデスの原理を発見した瞬間の高鳴りが私にも分かる。ヘウレーカ! と叫びたくなるようなこの衝動。

 

 これは……勝つる!

 

 頭の中の作戦参謀全員からGOサインが出され、作戦司令書が言霊ことだまになって飛び出した。

 

「いいよ。キスしよ」

「……ええぃっゃ⁉︎」

 

 世界一の球であるシリコン同位体単結晶の球体くらい目をまん丸にした茜は後ろにすってんころりん。

 

「なによ、あんたがしたいって言ったんでしょ」

「そそそそそうだけど。あのまりーが!」

「ただし」

「ですよねー」

 

 体全体をバタバタして忙しなく喜んだのも束の間、私の一言でベッドに倒れ込む。まるで食肉加工される鶏みたいだ。

 〆られた鶏を見下ろして私は本題を告げる。

 

「ただし、テストの点数が私より高かったらね。次の学年末テストで」

「えーそんなー無理じゃん」

 

 あからさまにへなへな〜っと溶けてしまった。

 まあ当然の反応だろう。入学以来成績トップな私だ。常識的に考えてこの勝負を受けるはずがない。だがここは私にとってもチャンスなのだ。今この交渉において大事なのは相手をその気にさせる、ワンチャンスと思ってしまう甘い希望を抱かせること。そして相手にとって魅惑的に美味しそうな餌をぶら下げて土俵の上へ誘うこと。

 

「合計得点で勝負なんてのは、そっちには分が悪過ぎる。それは重々承知」

「悔しいけどその通りです」

「だから勝敗はたった一教科だけで決める。そしてその一教科はテスト結果が返されて、茜が一番高く取れた教科とする」

「ほー」

「どれに一番勉強する時間を割くとか律儀に言わなくていいし、私が比較的不得意とする科目に勝機を見出すのもあり。まぁ私はいつも通り全教科満遍まんべんなくやるってこと」

 

 説明を聞いていくうちに段々と茜の表情に希望の色が宿っていくのが分かる。

 

 ふふ、いいぞすがれ。

 

 逆に私は今悪い顔を必死に隠そうとしている。別に私はカンニングとかイカサマとか卑怯な秘策を持っているわけではない。今にも破顔してしまいそうなのは、これだけの付き合いにもかかわらず彼我ひがの力量差を推し量れず、目の前に差し出された甘い甘い獲物に今にも飛びつかんとする茜が哀れだからだ。

 

 だが悪いね。今回ばかりは譲れない。損をするのはそっちだよ。

 

 私に不利な条件を出しているが、無論負ける気なんてさらさらない。茜には以前原宿で醜態を晒したが、今回は私の得意分野の筆記試験だ。こすい手なんて使わず、学力をとことん見せつけて正面から潰す。その自信が私にはある。

 

「そしてそっちが勝った暁にはキスするよ。潔く」

「ふんふん!」

 

 キスという単語に分かりやすく期待をあらわにする。実に欲望に忠実だ。

 

「そして私が勝ったら……」

 

 ここからが肝心。天秤の上でキスと同じ重さである敗北の代償を知るのだから茜も興味津々のご様子。いったいどんな反応を見せてくれるのか。

 

 頼むから下りてくれるな。

 

「ボイスレコーダーに関する全権を私に移譲し、茜の約束を達成したものとしてこの恋人関係を即時解消してもらう」

 

 これが私の考えた最高のプランだ。私の唇をデコイにすることで、現状をまるっと打破することができる。

 提示された代償を前に茜はえらく考え込んでいるが、こいつは多分乗ってくる。1%でも見込みがあるならば、というよくある物語の主人公的思考のやつだ。そもそもここで引くなら邪険な振る舞いを隠さない私のことなど追い回したりしないだろう。

 

 だが残念! 悲しいかな、あんたは主人公じゃあない。私のストーリーの筆は私が取る。あぁこれで忌々しい呪縛から解放され私は晴れて自由の身! んーその日が待ち遠しい!

 

 ボイスレコーダーをグシャッと片手で握りつぶし勝ち誇る私の姿がまぶたの裏で高らかに笑っている。この悲願が達成するなら唇を糸で括って棒先から垂らすくらい安い話だ。

 

「ねぇまりー」

「ん? なんだい」

 

 きたる日に思いを馳せる私の返す言葉は今にも飛び立ちそうだ。

 

「私が損する分増やしていいからさ、ご褒美も増やしていーい?」

「んーーー?」

 

 茜の発言を受け止めきれず、にっこり顔のまま茜の前で90度首を傾げてみせた。

 

「君はなにを言っているんだい?」

 

 私将来ぷいきゅあになるぅ、はははぷいきゅあはいないんだよ、みたいな幼い少女を教え諭す父親の極めて穏やかな口調で聞き直す。

 

 きっと聞き間違いでしょー。

 

「だから、賭け分増やすから取り分も増やして」

 

 こいつバカなんか?

 

 どうしていいか分からず目元を覆った。私は小榑茜を過小評価していたのかもしれない。どういう思考回路を構築すれば、この戦いに勝機を見出せるのか教えて欲しい。

 

 この状況でベットするってなに? 分からん。自分の損する分増やしてるだけだぞ。

 

「本気で言ってんの?」

「私はいつだって本気だよ。まりーとのキスのために」

「やめろ、握るな」

 

 欲望垂れ流し温泉みたいなうごめく手をぱっぱと振り払う。

 私はキッチンから持ってきた麦茶を手に取った。一旦落ち着く必要がある。

 

「とりあえず話は聞こう。そちらのベット分の要求は?」

「まりーを二日間飼い殺しにする権利」

「ぶふぉっ!」

「わぁ大丈夫⁉︎」

 

 口に含んだ麦茶がレスラー顔負けの毒霧になって飛び出した。急いでハンカチを手に当てがう。

 

 うっ、気管に!

 

 そしてけっほげっほと咳が立て続けに出てくる出てくる。

 

「大丈夫じゃねぇよ。げっほ!」

 

 あんたのおかげでな。

 

「言い方悪かったね。ええっと二日間まりーになんでも言うこと聞かせられる権利。まりーは逆らえません」

「うぅ、ご丁寧にどうも。できれば言い方じゃなくて内容訂正して欲しかった。げっほげほ」

「にはは〜」

「当然私はそんなの受け入れ難いんだけど、この条件が飲めないと言ったら?」

「この話は無かったことで」

「うっ」

 

 私としてはなんとしてもこの賭けで勝利し自由の身になりたい。だったら私に引き下がるという選択肢は自動的になくなるわけだ。しかしどっかにデートとかそれくらいの要求くらいだと思っていたら、テロリストの人質引き換え条件みたいなのが来てしまった。

 

 いやこの際人質は私なのだが。これじゃベットじゃなくてペットだ……つまんな。

 

 くそしょうもない掛けに呆れつつ私は茜を問いただすように指を突きつけた。

 

「随分とデカい要求をしてきてるけど自分の負けたときのことは考えてないわけ?」

「うーん分かんないけど、そのときはそのとき?」

 

 なんて楽観主義なのだろうか。悩み事なんて一つも無さそう。イエローストーン国立公園に勝るとも劣らない、この頭に咲き誇る綺麗なお花畑は是非世界自然遺産に登録しよう。

 

「はぁ……」

「じゃあ私の負け分考えてよ」

「んなこと言ったって。規模がデカいんだよ規模が」

「よろしく〜」

 

 そういうと彼女はスマホを食い入るようにいじり始めてしまった。これからの自分の処遇が決められるというのに。

 私を二日拘束する……いや拘束だけで終わるか分からない。言うこと聞かなきゃいけないとなると犯罪に巻き込まれたりはずかしめにあう可能性だってあるのだ。それを考慮すれば茜の敗北のリスクはより重い必要がある。じゃなきゃアンフェアだ。

 

 そんなこと言ってもな……。

 

 少なくとも私はこの関係が終わるということが最高にして唯一の報酬なわけで、これ以上ご褒美増やしてもいいとされたところで正直困る。目の前の能天気に見えて実はあくどい女みたいに身柄を要求する趣味もない。

 現金、土地、食事etc。

 私のメリットを基準に考えてみるも、魅力的なアイデアは出なかった。高校生が支払える絶対的価値の褒賞なんて限度があって釣り合わないし、茜のようなサブジェクティブなものもなく、実につまらない。

 

 だとすれば、茜のデメリットを主軸に考えるべきか。

 

 私が得するかはともかく、茜が損する条件ならとりあえず対等だ。

 

 茜にデメリット……茜にデメリット……。

 

 思考に耽って目の当てどこはなく、それは自然と茜に被さった。

 

「ん? なにかついてる? それとも私が可愛い?」

 

 あ……。

 

「あった」

「可愛いとこ?」

「あんたの負け分」

「お、どんなのどんなの」

「……」

「もったいぶること?」

 

 これは確かに適当ではあるけども……。

 

 この案は本当に偶然絞り出されたのか、それとも無意識の私がそうさせたのか。いや絶対前者だ。私が自分から求めることなんてあるはずがない。

 

「茜の転校のキャンセル」

「……それが私の負けたとき?」

「そう。転校を取りやめ。それに伴ってバスケチーム移籍も引っ越しもキャンセル」

「それって」

「私が負けたときのリスクが大き過ぎるから、茜にも相応のリスクを背負ってもらわなきゃ。それが賭けでしょ。そっちがベットしたんだから覚悟してね」

 

 茜に有無を言わさぬように言葉が飛び出した。私はただ賭け事をフェアにするためだけにこれを提示したのだ。不必要な邪推は勘弁願いたい。

 今思えば私にも少なからず恩恵あるし。他の生徒との会話は以前みたいに茜を通じればやりやすいし、グループワークも知らん人より茜と組めばいい。学校生活だけでなく、なにかあったら幼馴染のよしみで家を尋ねられる。それに茜が転校しなけりゃ、長谷川の機嫌だって直るかもしれない。

 

 なんだ、考えれば考える程嬉しいことだらけじゃないか。

 

 予測される利益に納得して一人首を縦に振る。

 

「ま、いいよ。それで行こう。ハラハラするじゃん」

 

 自分の進路をハラハラという言葉で整理してしまってよいのかは疑問だが、戦いはこれで成立だ。

 

「じゃあ言質げんちということで記録しとこ。持ってんでしょ」

「あ、それいいね」

 

 私達は各々の行く末を自らの肉声に乗せて、ボイスレコーダーへと吹き込んだ。

 

 茜が勝てば、私とキスでき、二日間私を自由にできる。

 私が勝てば、この恋人関係が終わり、ボイスレコーダーは効力を失い、茜は転校しなくなる。

 

 負けたときのことを考えれば末恐ろしいが、要は勝てばいいのだ勝てば。いかなる事態が用意されていてもそちらの道へ行かねばよいだけ。血路は私の力で開く。

 

 大変だろうけど諸々のキャンセル手続き頑張れ。

 

 それから毎晩のメッセージと通話はめっきり減少し、放課後に一緒に過ごす時間も滅多になく、茜との絡みは昼のスクールライフぐらいになった。多分あいつなりにかなり研鑽けんさんを積んでいるのだろう。

 ベッドに寝転びただ天井を見てるいとま、勉強中に鳴らないスマホ、一人で帰る下校時間。過ぎる時間はまるで付き合う前に戻ったようで、名状しがたい違和感につきまとわれたが、きっとブランクみたいなものだろう。このテストが終われば、平穏な非日常が再び日常になる。

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