二月上旬
第13話
「あぁ……静かだ……」
母の手作り弁当でお腹を満たし、束の間の安寧の中、ボーッとしながらそんなことを呟いてみる。
教室はいつも通り70デシベルくらいだと思う騒がしさだし、隣を見れば例の女子グループがしょうもない恋愛相談で持ち切りなため、傍から見れば「静かだ」は不適切だろう。しかしながら、某女性文豪に書き表された数学博士の感性にあるように、実際の騒音と心の静けさは必ずしも一致しないのだ。因みにあの名著は小さい頃に読んでからお気に入りである。
さて、例のうるさい犬っころは今日は私の側で尻尾を振っていない。なんかよく分からないがバスケ部顧問に呼ばれていたらしく「今日は食べれなーい、ごめん!」とウィダーインゼリーを吸いながら飛び出して行ってしまったのだ。
いやいや、そんなに謝らなくてええんやで(満面にっこり)。
解放感に羽を伸ばすだけでは足らず、バッサバッサと風を起こしたい気分だ。
思えば一人で過ごす昼休みは始業の日ぶりだ。今やあの頃が遠く、
今までの私は一人で自由だったんだなぁ。失って初めて気づく大切さとはこれのことか。さぁーてなにすっかな〜。
今くらいは勉強じゃなくてぼぉーっとするとか、昼寝とか、耳かき音とか〜。もう、全部したい。
「はっ⁉︎」
……全部同時にできるやん! 私は天才か⁉︎ そうだ天才だ。えへへ、やるじゃん私。よしそうと決まれば——。
「お前」
一体誰が呼ばれているのか見当もつかなく、またそれを考えるつもりもなかった。高校生まで生きてきた中で、私の呼ばれ方はだいたい決まっていて『紫水さん』、『茉莉花』、『まりー』の内どれかだ。『お前』なんて呼ばれた記憶は皆無。
「お前、紫水」
だから苗字を呼ばれるまで、自分に話しかけられているとは露にも思っておらず、レスポンスは遅過ぎだった。
「え、何?」
考え事に
私がようやく手に入れたこの時間を食い潰しに来るとは何様だ?
気づかれなかったことからか相手はイライラしているように思えるが、時間泥棒にはこっちだってイライラする。
「てか、あんた誰?」
私と同じ赤色リボンだから二年生。身長は高く手脚はスラリと長いがふくらはぎの隠せない筋肉からはスポーツをやっている人だと分かる。ショートの髪もおそらく運動の邪魔にならないためで、茜と同じくセットアップは見られない。腕を組み、コントラポストを体現した姿で鋭く睨んでくる彼女を見ても、当然その名前など出てくるはずもない。
「は? クラスメイト覚えてないの? 一年から一緒だったのに?」
特徴的なハスキーボイスの持ち主は常識を疑うかのように眉をひそめた。
「……いや、クラスメイトなんて覚えるわけないじゃん」
ボソッと言い返す。
「お前、学年一位で記憶力良いのに名前も覚えられないんだな」
「逆。どーでもいいことは頭に入れないからこその成績なんだよ」
「フン、クラスメイトは取るに足らないってことか」
「ご名答」
向こうもこちらも燃えたイライラを消そうとも隠そうともしないで、険悪な空気が
「ま、いいわ。お前と同じクラスの、ウチは
うわぁ、めんどくせぇ。
私はめんどくさいの言葉を顔面にこれでもかと浮かばせた。
ファーストコンタクトのガラの悪さ、親交も無いのにお前呼び、そして極めつけのこっち来いや。
こいつ、確実に不良だ。ついて行けば向かう先は体育館裏だろ絶対。
ここは教師を呼ぶしかないだろう。不良にロジックは通じない。暴力という蛮行を取られれば非力なこちらに勝ち目は万に一つも無い。
「ほら、立てよ。別にお前がいいんだったらここで話してもいいんだよ。お前と茜についてなんだけど」
「そう来たか……」
長谷川は私の痛いところを的確に突いてきた。私からすればその話をこれ以上周りに言われたくないので、ついて行くしか選択肢がない。
「ちっ、分かったよ……」
私は数十分しか堪能できなかった一人用エデンを離れる。長谷川は気使ってやってるんだからな、と歩き出した。
ただの脅しだろ。
このまま職員室に駆け込めばどうなるだろうか。多分教室中、学校中にあることないこと言いふらされそうな気がする。この不良からはそんなことまでしそうな雰囲気が出ている。
「お前って優等生してんのに口悪いのな」
目的地不明のまま案内されていると唐突に長谷川が喋りだした。
「人当たり悪いのはお互い様だと思うよ。いきなりお前呼びとか」
「お前はあんた呼びだろ」
「それはあんたの態度が悪いからそれ相応の言動してんの」
「ふぅん、まいいや。この辺で」
立ち止まったそこは
てか今更だけど私と茜の話って何だ?
壁に寄りかかった長谷川はその不良っぽい口を開いた。
「さてと。お前って茜と付き合ってるってマジなの?」
「え?」
まずは事実確認だろうか。
「マジなのか」
「いや形だけっていうか、嫌々っていうか、仕方なくっていうか……」
マジかと聞かれても、私は茜の思い出作りとやらに協力させられているだけで、あくまでも己の発言に責任を取っているだけだ。
「だから……マジではない……」
自分の真意を改めて再確認するように声を押し出す。
「……やっぱりね。だってお前見るからに楽しそうじゃないし、
「あ、分かる?」
残念ながら茜には伝わらないが。
「だからさぁ、茜と別れてくんない?」
サラッと耳に滑り込むその声は人にものを頼む様じゃなくて、命令するような威圧が感じられる。私のさっきの間延びした回答とは異なり、確かな意志を内包していた。
「私だって別れた——」
「お前茜に失礼だと思わないの?」
長谷川は発言の猶予も与えぬまま
「あの子の気持ちに少しも応えないで、無視してばっかりで。茜が気の毒なんだけど。その気持ちを無視し続けるっていうんならさ、茜の前から消えてよ。気に入らないから。お前はいつか茜の好意を振り払って、彼女の心を抉る。お前がどうやって付き合い始めたのかは知らないけど中途半端な気持ちで付き合うのはやめてくんない? それにお前よりも茜のことをちゃんと好きで……一緒にいたいって人は他にもいるんだよ……」
なるほど。
私はメガネのブリッジを押し上げた。
こいつの素性は知らないがおそらく相当茜と仲が良くて、日々私の不誠実な対応を目にし、茜を心配して私を追い払おうとしている。そんなとこだろう。友人思いの良いやつだ。感動的だな。
しかし私にも言い分はある。
そもそも私は恋愛感情によって付き合っているのではない。茜の思い出作りとやらに協力して、今までの累積債務をチャラにしたいだけだ。
そんなことは当の本人だって告白のときに了承しているはずなんだから、気持ちに応えるとかは私の仕事ではない。お付き合いすることでの恩返しが私が通すべき
もう一つ言いたいのは、茜が自分の意志で私と一緒にいるのに、なんでこいつが気の毒だ、とか勝手に判断して接触してくるのかということ。
そんなに心配だったら本人に説得するなりして話をつけるべきだろう。第三者がヒーロー面して独断で状況を動かすのは違う気がする。私だってこんなおままごとは早々に終わりにしたいと思ってるが、こいつのやり方には拒絶反応を禁じ得ない。
長谷川の発言を聞いた後、少しの時間をかけて自分の考えを整理し終えた私はそれを伝える姿勢に移った。私と茜の関係は一言で片づけられずややこしいことこの上ないと思うが、あとは長谷川の理解力次第だ。
「あのね、そもそも私は——」
「あれぇまりーだ!」
聞き慣れた呼び声が廊下にぐわんぐわんこだまする。
「うっさ。静かにしろ」
声の主は飛ばした言葉を追いかけて会話に割り込んできた。
「何してるのー? あれ希美ちゃんじゃぁん」
「あ、やあ、茜! 偶然〜」
え、何この人、急に人間変わったんですけど。
思わず二度見してしまった。
「紫水とちょっと積もる話があったんだよね〜」
「ほほーん。稀有だねぇ」
「ケ、ケウ……そ、それな! うん」
突然駆けてきた茜を前にして、長谷川は第二人格があるように不良から明るい女の子に化け狐のように変貌した。さっきまで特殊メイクしてましたか、と疑いたくなるくらい顔が
てか長谷川は絶対意味分かってないな。
「てか茜。仲良さそうだけどこいつどういう関係?」
とりあえず私は先程の長谷川の態度、茜のことは全部知ってます、みたいな言動からどのような間柄なのか気になるため尋ねるのだが。
「え、なんかなんか。そのセリフ、浮気を疑ってる彼女みたい」
「は⁉︎ 違ぇよ!」
「なぁに? まりー嫉妬?」
「違うし!」
「もう、可愛いなぁ」
茜に大変遺憾な勘違いをされ、私は廊下にもかかわらず吠えてしまった。
「私が……浮気相手……茜の……」
「ごちゃごちゃするからとりあえず黙れ」
長谷川にいたってはなにをブツブツ言ってんだ。
「いい? こいつが! この長谷川が! いきなり私と茜のこと詮索してきて、終いには茜と別——」
「だあああああああああ! なんでもなぁーい!」
心ここにあらずだった長谷川が腕を大きく広げて話しかけの私の前に立ち塞がる。
この勢い、武田鉄矢か。
「は? なんで止めんの? てか私じゃなくて茜に直接——」
「いいの! いいのよ紫水さん! ね!」
「んー? よく分かんないけど、希美はおんなじバスケ部だよ。教室では前まで一緒に食べてたし。ね〜」
「う、うん! そうだよ。茜と一緒……だった……」
「あー」
そう言えばこの前教室で、茜のせいで彼女バレされたとき、睨みつけて来てた顔は確か目の前のと同じだ。あの視線のレーザービームは覚えてる。
「ふーん。通りで茜思いなわけ。きっと絆も深いんでしょうね」
「お? まりーよく分かったね。私達息ぴったりで相手へ上がるときは二人で攻めるの。こうドリブルとパスでシュッ、シュッて神風ステップって感じ」
茜はその場でボールがあるようにエアーでボールをつく。
「へいへーい」
「へーい」
そしてそのまま始まるイメトレワンオンワン。
合点がいった。
同じバスケ部所属でバディを組んでる。ともなれば茜に近づくどこぞの馬の骨か分からない私に過剰に反応するのも無理はない。善意で相棒を心配しているのだろう。
しかしながらその心配故の行動は、私への説得より茜への説得のほうが相応しいと思うのは変わらない。
正直私にあれこれ言ったって、私からはどうしようもないのだから。
頭上で予鈴が鳴った。
「じゃあお昼も終わるし、帰るよ。そのままイメトレしてな」
二人を残して、鐘の音が消えぬうちに私は教室へと向かい出す。
「まりー私も行く。じゃね」
長谷川を残してぱたぱたと茜が横について来た。そんなに気心が知れているなら、私よりあっちといればいいのに。
はぁ、折角の自由なお昼休みが……。
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