夜の列車と少女の横顔

千夜かおる

第一章:彷徨う心

【1-1】

列車の窓の向こうを見つめていた彼女の横顔が、今も消えない。

あの夜、彼女に出会ってから、世界の色が少しだけ変わった気がする。


***


まだ朝靄の残る道を、自転車のペダルに体重をかけて漕ぎ出す。

風を切りながら、胸の奥にかすかな声が生まれる。


――僕は、早くこの家から離れられるよう、強くならなくてはいけない。

その思いだけが、今の自分を前に進ませていた。



前夜の夕食は、いつものように冷めた空気に包まれていた。

父はまだ帰宅しておらず、夕食は真理子まりこと二人きりだ。

テーブルの上には、買ってきた惣菜が並ぶだけの温かみの欠けた皿が並んでいる。


「またか…」思わず小さく漏らした声に、真理子はわずかに眉をひそめる。


「確かに、料理は上手だったかもしれないけど、あなたのお父さんは、お母さんみたいな人は好きじゃなかったと言ってたわ」


言葉は軽く、まるで日常の一言のように放たれたのに、胸の奥に鋭い棘を突き刺されたように痛む。


英介えいすけは反論せず、ただ無言で睨みつける。

視線はテーブルの上の惣菜へ、そして壁に落ちる。

肩や手に力が入る。


なぜ、母さんが死んで間もないのに――。

父さんはこんな女とすぐに再婚したのか。

怒りと虚しさが混ざり合い、言葉にならないまま胸に渦巻く。


たった二年前、母が入院したときには、こんな未来が来るなんて想像もしなかった。

この夏の初め、病状が急に悪化し、母は静かに息を引き取った。

真理子と再婚した父は近所の目を気にして、まるで逃げるように僕を連れ、西へ三十キロほど離れた街へ引っ越した。

数ヶ月のあいだに、母の死と父の再婚、そして住む場所までもが変わり、家はすっかり別のものになった。

受け入れるには、あまりにも急で、あまりにも重すぎる。

それでも、17歳の僕には――ただ耐えることしかできなかった。


夕暮れの光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の隅に影を落とす。

英介の心のざわつきに呼応するように、冷たく乾いた空気が肌を刺す。

母の不在、父の無関心、そして継母ままははの軽い言葉。

それらが重なって、家は安心できる場所ではないと再確認させられる。


やがて椅子を引き、食卓から立ち上がった。

真理子がなにか言った気がしたが、それに返事をする必要はなかった。

無言のまま自室に戻り、布団に潜り込む。

閉じたまぶたの裏で、母の面影だけが揺れていた。


翌朝、誰にも会いたくない一心で早く目覚め、静かに支度を済ませる。

鞄を背負い、靴を履いて玄関のドアをそっと閉めた。

自転車を押しながら、ひんやりとした秋の空気を胸いっぱいに吸い込む。街はまだ眠りの中で、遠くにかすかに車のエンジン音が響く。


自転車のペダルを踏み込むたびに、胸の奥の小さな決意が少しずつ確かになる。

――いつか、必ず。

そう心につぶやきながら、駅への道を走り抜けた。

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