ハレーションスケープ
秋月慶
亀裂
四月という季節は、どうしてこうも人を落ち着かなくさせるのだろうか。
真新しい制服の気恥ずかしさも、ぎこちない自己紹介の連続も、桜が散る頃にはすっかり過去のものになる。ゴールデンウィークという名の強制的な冷却期間が過ぎれば、教室の空気は緩やかに固まり始める。
グループが形成され、クラス内での役割分担――つまりはスクールカーストという名の、見えない座席表が完成に近づいていく。誰もが必死に自分の「居場所」という名のタグを探し、身につけようと躍起になっている。
そんな喧騒を、高校1年の俺――
——風景の一部になる。誰の記憶にも残らない。それだけで、いい。
「で、凪。お前、結局部活どうすんだよ」
昼休みの喧騒の合間を縫って、唐揚げを口いっぱいに頬張った親友――
「どうもしない。帰宅部一択だ」
「またまた。せっかく一眼レフなんて持ってんのに、写真部入んねーの? もったいねえだろ」
「別にプロになりたいわけじゃない。あれは趣味だ。誰かに評価されたいとも、共有したいとも思わない」
そっけなく答えると、大地は「お前はほんっと、そういうとこ面倒くせえよな」と呆れたように笑う。こいつには何を言っても無駄だと、もうお互いに分かっている。
◇◇◇
放課後のチャイムが鳴ると、誰よりも早く教室を飛び出した。大地の「おーい、また明日なー!」という声を背中で受け止めながら、足早に校門を出る。
イヤホンを着ければ、周囲の雑音は優しいノイズに変わる。世界との間に一枚、薄いフィルターをかける。これが日常だ。
無意識にポケットのスマホを取り出し、カメラを向けた。構図、よし。露出、-0.3。ホワイトバランス、5200K。それだけで、詰めていた息が、少しだけ楽になるのを感じた。
帰り道、いつもは使わない橋を渡ってみる。西日が差し込み、川面がキラキラと乱反射していた。土手をユニフォーム姿の野球部が走っていく。橋の上では、カップルがスマホで自撮りをしている。
ありふれた、どこにでもある放課後の風景。ふたたびスマホを取り出し、カメラを向ける。構図も何もない、ただの記録。そう、ただの記録に過ぎなかった。
その時、ファインダー越しに、敷地の奥に立つ古い校舎の窓が、やけに強く光を放っていた。
◇◇◇
金曜の放課後。あの光の残像は、思考の隅に棘のように突き刺さっていた。俺は自室の椅子に座り、あの時撮った一枚の画像をスマホの画面に表示させる。そろそろ削除するべきだろう。
液晶に映るのは、やはり凡庸な失敗作だ。ただの、光の反射による白飛び。何の変哲もない、記録としての価値がゼロのデータ。
指が、ゴミ箱のアイコンに触れる。
そのまま、タップすれば消える。いつもそうしている。
……なのに、今日はどうしてかできない。
理由などない。思考が、指先の動きを拒絶している。ただ、それだけだった。
俺は、その理由の分からない不快感に小さく舌打ちをすると、乱暴にアプリを閉じ、スマホを机の上に放り出した。
◇◇◇
週が明けた。俺はまるで何かに吸い寄せられるように、その旧校舎の裏手にいた。「近道だからだ」。俺は、自分にそう言い聞かせた。
取り壊しが決まっているそこは、生徒たちの間では心霊スポットだとか、昔の生徒の幽霊が出るだとか、くだらない噂話の舞台になっている場所だ。
古びたコンクリートの壁。蔦の絡まった窓枠。静寂が支配するその場所で、二階の一番端にある準備室の扉を見上げた。先日、光ったように見えた窓を見つけた。
面倒ごとの匂いしかしない。求めていた平穏な日常が、あの扉の向こう側で音を立てて崩れていく。そんな予感がした。
踵を返し、このまま立ち去ろうとした。
好奇心は身を滅ぼす。
しかし、足を一歩踏み出したところで、ふと気づいてしまった。
固く閉ざされているべき、二階の窓。それが、ほんの数センチだけ開いている。そして、本来なら埃っぽいはずのその隙間から、白いレースのカーテンの端が、春の風にはためいているのが見えた。ついさっきまで誰かがそこにいて、窓を開けていたかのように。
……問題ない。ありふれたものだろう。
俺は、そう声に出さずに呟き、自分を納得させようと踵を返した。だが、その最初の一歩が、アスファルトに縫い付けられたかのように、重かった。その時。
風に乗って、ふわりと鼻先を甘い香りがかすめた。石鹸のような、清潔な香り。あるいはどこか懐かしい花の匂い。
――誰かいるのか?
思考がそこに行き着く前に、先日見た光の残像が、網膜の上で鮮やかによみがえった。
窓の向こう側。あの仄暗い部屋の中から、自分が今まで信じてきた「理屈」が、全く通用しない何かがいる。そんな気配がした。
俺の中で数字と法則で制御できる唯一の世界が、写真だった。そんな俺自身を嘲笑うかのような、曖昧で、不確かで、それでいて抗いがたいほどの引力。
ダメだ、と本能が叫んでいた。
これ以上は、いけない。
気づけば、踵を返し、逃げるようにその場を後にしていた。
鼻の奥に、あの甘い香りがこびりついて取れない。
目を閉じれば、瞼の裏で、あの強烈な光が何度も明滅する。
消そうとすればするほど、その輪郭は、より濃くなっていく。
胸の奥が侵食されていくような感覚。俺は思わず、自分の制服の胸元を軽く握りしめていた。網膜に焼き付いた光の残像が、瞬きをするたびにちらついて消えなかった。
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