第13話SecretGarden

午後の空は灰色に沈み、港町には静かな雨が降り続いていた。

しとしとと規則正しい雨音が瓦屋根を叩き、路地には小さな水たまりがいくつもできている。

裏庭のハーブは濡れて深い緑を帯び、触れればさらに香りを強く放っていた。

桜庭はカフェの片付けを終え、湿り気を含んだ空気のなか、傘を差して玄関へと向かっていた。


そのとき、隣家の前に立ち尽くす人影に気づいた。

街灯に照らされたその姿は、どこか頼りなく見えた。

裏川だった。シャツは雨に濡れ、髪や頬を水滴が伝い落ちている。

彼は傘も持たず、濡れたポケットや鞄の中を繰り返し探っていた。


「……裏川さん?」

桜庭が声をかけると、裏川はゆっくりと顔を上げた。

その目は少し焦点を欠いていて、疲労の色が深く刻まれていた。


「……あっ。鍵、忘れてしまったみたいで……」

「奥様、夜勤ですよね」

「ええ……今日は、帰ってこないです」


桜庭は言葉を挟まず、玄関の扉を開け放った。

「よかったら、うちで少し休んでいきませんか。風邪、ひきますよ」


裏川は一瞬だけ迷ったように見えたが、すぐに小さく頷いた。

「……すみません。お邪魔します」


家に入ると、桜庭はタオルを差し出し、湯気の立つ風呂を準備した。

押し入れから取り出した自分のスエットを手渡すと、裏川は少し戸惑いながらも受け取った。

「少し大きいかもしれませんけど、乾いた服の方がいいので」


やがて、風呂から上がった裏川がリビングに現れた。

ゆるやかに水蒸気をまとったような気配を残しながら、彼は桜庭のスエットに身を包んでいた。

袖が指先を覆い、裾もわずかに長い。

華奢な身体に布地がふわりとかかり、どこか少年のような無防備さを帯びていた。


「……すみません、何から何まで」

裏川は髪をタオルで拭きながら微笑んだ。

その微笑みには礼儀正しさがある一方で、消しきれない寂しさの影が差していた。


桜庭はキッチンで温かな飲み物を用意していた。

ハーブとミルクを合わせ、蜂蜜をひとさじ垂らす。

甘く優しい香りが立ちのぼり、雨で冷えた空気をやわらげていく。


「これ、どうぞ。風邪予防にもなるので」

差し出したマグを両手で受け取り、裏川は湯気を吸い込んだ。

「……ありがとうございます」


ふたりはソファに並んで座り、しばし雨音を聞いていた。

窓ガラスを叩く水滴が一定のリズムで流れ落ち、その向こうでは濡れたハーブの葉がしきりに揺れている。

外の冷えた雨と、室内に漂うミルクとハーブの温かさ。

その対比が、不思議な安堵をもたらしていた。


裏川の横顔にはまだ疲れが残っていたが、その頬を伝う影は、少しずつほどけていくように見えた。


まるで、彼がここにいることを許されている――

そんな風に自然となじんでいた。


雨は止む気配を見せず、夜の街を静かに覆っていた。

濡れたハーブの葉が小刻みに揺れるたびに、二人の距離も少しだけ近づいたように感じられた。


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