第15話 こんなの、意識するなって方が無理でしょ

 部長はコーヒーを口に含み、ふっと肩を緩める。

 私の後ろの席に腰を下ろし、静かにカップを傾けていた。

「……やっぱり日本は夜が長いね。イタリアでは、こんな時間まで残っている人は滅多にいなかったよ」


「えっ、そうなんですか?」

 思わず聞き返すと、部長はおかしそうに目を細める。


「残業は効率が悪いとみなされるからね。だから君みたいに頑張りすぎる人を見ると――少し、心配になる」

 

 心配――その言葉に、不意打ちのように胸が熱くなった。

 完璧超人だと思っていた人が、自分をちゃんと見てくれている。

 それだけで、仕事の疲れも吹き飛んでしまいそうだった。

 

 それにしても……ただ座ってコーヒーを飲んでいるだけなのに――なぜこんなにも絵になるのだろう。

 モデルのようにすらりとした手足、端正な横顔。視線を逸らさなきゃと思いながらも、どうしても見とれてしまった。

  

 沈黙が流れたのを察したのか、部長が小さく首をかしげる。


 その仕草に、ふと胸の奥がざわついた。

(……あれ? この感じ、前にも……?)

 どこかで同じような姿を見た気がする。

 けれどすぐに霧がかかったように記憶が遠のき、思い出せない。


 「……三枝さえぐささん?」

 柔らかい声にハッと我に返る。


「やはり疲れているようだね? あまり無理をしすぎないように」


「は、はい! すみません」

 慌てて姿勢を正したものの、鼓動はまだ早鐘のまま。

 さすがに見とれていたなんて言えるはずもない。


「今日は、もうそろそろ帰ろうとしていたところでした」


「そうか」

 短く頷くと、部長は手にしていたカップを机の上に静かに置いた。

 ひと呼吸おいてから、落ち着いた声で続ける。


「――じゃあ、少し話せるかな?」


 そういえば、最初に『話をしたい』と言っていた。

 ねぎらいの言葉だけじゃなかったんだ。


「あ、はい!」


「君には、ちょっと謝罪しなければならないことがあってね」


「えっ!」


「実は君とは、今日会ったのが初めてじゃないんだ」


「……そう、だったんですか!?」

 たしかに――なんとなく“既視感”があった。でもまさか部長の口からそんなことを言われるなんて。


「ああ。先週、非常階段で少し……ね」


 非常階段――。その単語を聞いた瞬間、ドキリとした。

(非常階段!? 先週!? ……え、まさか……!)


「……まさか!!」

「――あのイケメン清掃員さん!?」


「イケメンかどうかは置いておいて……あの日、清掃員の格好をしていたのは私だよ」

 少し照れたように目を逸らす。その仕草さえ、蛍光灯の下で妙に絵になってしまう。

 

 思わずまた見とれてしまった――けれど、次の瞬間、あの非常階段での出来事が鮮明によみがえった。

「そ、そんな~~っ!」

 両手で頭を抱え、デスクに突っ伏す。

 よりによって、よりによって……あの日の涙と鼻水でぐっちゃぐちゃの顔! ぜんぶ部長に見られてたなんて!!

(ぎゃあああああ!! 恥ずかしすぎる!!)


 しかも……。


『スケコマシがーーーー!!!』

『女心をもてあそぶなーーー!!!』


 わたし、めっちゃ叫んでた。大声で。

 ……あれ、もしかして――。


「……あのう。顔ぐっちゃぐちゃだったのは……もうバッチリ見られてると思うんですけど

 ……その前に、何か叫んでたのって……聞こえてました?」


「……っ! あ、いや!! 何も……聞いてない」

 急にグイッと顔を反らす部長。


(いやいやいや! 絶対聞いてた反応ーーー!!!)

 ガクッと肩が落ち、うなだれる。

 「チーーーン……」と漫画みたいに力なく。

 顔から火が出そうで、もう恥ずかしさで灰になりたい気分だった。


「まあ、その……立ち入るつもりはないけど。人生いろいろあるしな」


「やっぱり聞いてたんじゃないですかああ!」

 思わず前のめりになり、机に手をついて詰め寄ってしまった。

 

「あっ……いや、その……」

 思いがけず言葉がもつれる部長。

 てっきり、どんなことでもスマートに受け流す人だと思っていたのに、

 こうして返しに困っている様子を見ると――意外すぎて逆に面白かった。


「……すまない」


「あ、いえ! そんな部長が謝ることじゃないです! わたしが勝手にクズにひっかかっただけというか……」

 必死に取り繕ったものの、胸の奥がチクリと痛む。


「クズ……?」

 部長が眉をひそめる。


「あああ、違います! なんでもないです! 忘れてください~~っ!」

 ブンブンと手を振り、過去ごと吹き飛ばしたい気持ちでいっぱいだった。

 ――こうなったら質問攻めで誤魔化すしかない!


「……それはそうと、なぜ清掃員の格好を?」


「ああ、それはだな」

 部長は口元にかすかな笑みを浮かべた。

「実は十日前にはもう帰国していたんだが、思ったより手続きや生活の準備が早く済んでしまってね。暇を持て余していたんだ」


「ひ、暇つぶしで清掃員!?」

 思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。


「そうだ。本社ビルに出入りしている業者が日雇いの募集をしていてね。先にこっそり、みんなの様子を見てみたくなったという訳だ」

 その表情は、イタズラ好きの少年みたいで――思わず笑ってしまう。


「まさか部長が、着任前に清掃員に扮してたなんて……誰も想像しませんよ」


「もちろん副業届は提出済だし社長には話を通していたけどね。なかなか面白い体験ができたよ」

 肩をすくめて笑う仕草に、完璧超人のイメージが少しだけ和らぐ。


「それで“名乗るほどの者ではありません”って……!」

 思い出してクスクス笑いがこみあげた。


 部長も口元を緩め、肩をすくめてみせる。

「あのときは、つい格好をつけてしまったな……」

 その照れ隠しの響きに、また笑いがこぼれる。


 笑いの余韻に包まれながら――ふと、あの日のことが頭をよぎった。

 そうだ、あのとき借りたハンカチ……。


 慌てて鞄を探り、中から取り出す。


「これ……ありがとうございました」


「わざわざ返さなくてもよかったのに。むしろ、あのとき“明後日来る”なんて嘘をついてしまって……悪かった」

 部長はハンカチを受け取り、しばらく掌で眺めてから、そっと胸ポケットにしまった。


「そんな! 全然気にしないでください。助かりました。本当に……ありがとうございました」

 ペコリと深々頭を下げる。

 

 ふっと部長の口元が緩む。

「……君は律儀だね」


「あの時、ご恩はお返しします。と言いましたからね。ご恩返しは……これからですよ」

 我ながらちょっと堅苦しい返事だと思いつつも、正直な気持ちだった。


 その答えに、部長はほんのわずか笑みを見せた。

 ――次の瞬間、声音を落とし、真剣な色を帯びる。


「そうか。じゃあこうしよう」


「君は、私がこっそり清掃員をしていたことを、みんなには言わないでくれ」

 わざと声を落とし、いたずらっぽく片目をつむる。

 その余裕ある笑みは、まるで共犯関係を持ちかける悪戯好きの貴公子みたいで――胸が高鳴る。


「その代わり、私は君がクズにひっかかったことを誰にも言わない」


「なっ……!」

 思わず言葉を失う。


 そんな私を見て、部長がふっと口元を緩めた。

「……私と君だけの秘密だね」


 静かな声だった。

 けれど、低く甘い響きが耳の奥に残って、胸の鼓動が一拍遅れて跳ねる。

 

 思いがけない秘密の共有。

 それは、まるで夜の帳に包まれるように――ふたりだけの小さな世界が静かに息をした瞬間だった。


(……ずるい。こんなの、意識するなって方が無理でしょ)




 杏がそう心の中で呟いたそのとき――。


 フロアの扉の前に、人影が立っていた。

 しかし二人は気づくこともなく、夜のオフィスでひそやかに笑い合っていた。


 人影はしばし立ち止まり、やがて足音も残さず静かに去っていった。

 残されたのは、ふたりだけの秘密と、微かなざわめきだけだった。

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