第14話 君とはちょっと話をしたいと思っていたんだ

 その日の夜、午後八時過ぎ。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったフロアに、私のキーボードを叩く音と、田島の声だけが響いていた。


「……あーーーー! やっと終わったーー!!」

 背もたれに体を預け、両手をバンザイするように上げて喜ぶ田島。

 くたびれた空気の中、その声はやけに元気で場違いに明るい。


「ふー。良かった。なんとか間に合ったね」

 私も手を止めて肩を回し、張りつめていた神経を少しだけほぐした。


「八時過ぎか……。高峰部長の歓迎会、まだ間に合うんじゃない?」

 田島の方を向いて、軽く笑いながら声をかける。

「私はちょっと別の作業もあるから、もう少し残るけど。田島は、ほら、顔出してきなさいよ」


「先輩ーーー! マジ感謝っス!! この御恩は必ず!」

 大げさに拝むようなポーズで机に額をこすりつける田島に、思わず吹き出してしまった。


「ふふっ、もういいよ。さ、いってらっしゃい!」


「ありがとうございます! じゃあお疲れ様っす!」

 颯爽と荷物をつかんで飛び出していく後ろ姿。

 彼が去ったあとに残ったのは、再び機械の低い駆動音と、夜のオフィス特有の冷えた空気だけだった。

 

 田島は森下と同期で入社五年目。

 ドジっ子でお調子者、でも誰も思いつかないようなアイデアをひょいと出してくる発想力があって、アイデア勝負の第二開発課では欠かせない存在だ。

 男性が少ない課の中では貴重なムードメーカーで、しかもルックスも悪くないから、密かに人気があるのもわかる。


 私自身も、新人の頃はミスもあったし、先輩に何度も助けられてきた。

 なんなら今でも「詰めが甘い」と言われるくらいだ。

 だから田島をフォローするのは自然と自分の役目だと思っている。


 ふうっと息を吐き、私は背もたれに体を預ける。

 今日一日の出来事が、自然と思い返されていった。


 ――あの後も、フロアはずっと高峰部長の話題で持ちきりだった。

 しっかり者の森下はソツなく業務をこなしながら時折女子たちの盛り上がりに相槌を打っていたが、

 有村と田島は完全に浮ついていて、目の前の仕事に集中できていなかった。


 有村の方は昼過ぎにそれに気づき、慌ててフォローしたので事なきを得たけれど――問題は田島だった。

 今日の業務が進んでいない上に、明日の朝イチで提出するリニューアル文具の資料にケアレスミスが見つかり、

 こうして修正作業に追われる羽目になったのだ。

 結局この時間まで残業になったのも、そのせいだった。


 当の部長はと言えば、引き継ぎ業務に追われ、今日はほとんど部長室にこもりきりだった。

 それでも合間には第1開発課に顔を出していたらしい。

 ランチタイムは、女性社員に囲まれながら出て行く姿を遠目に見ただけ。

 夕方にはSlackに「部長の歓迎会のお知らせ」が流れてきて、調整さんのリンクも貼られていた。

 でも、私は後輩のフォローもあって仕事が溜まっていたので、欠席にしていた。


 (イタリアの話、聞きたかったなあ……)

 ほんの少し胸がざわつく。けれどすぐにかぶりを振って、モニターに視線を戻した。

 (……まあ、これからいくらでも機会はあるよね)



 * * * * * *


 ようやく一段落ついて、ふうっと大きく息を吐いた。

 時刻はとっくに二十一時をまわっていた。


 広いフロアに残っているのは、私ひとりだけ。

 昼間は気にも留めないパソコンの動作音や、天井のエアコンの風切り音が妙にはっきりと耳に届く。

 誰にも邪魔されず、集中できるこの空間では、ゾーンに入ったみたいに仕事がはかどった。


(よし。あと見直しが終わったら帰ろう)

 そう心の中でつぶやき、再びモニターに向き直ったそのとき――。


 ガチャリ、とフロアのドアが開く音がして、思わずビクリと肩が跳ねる。

 振り返った瞬間、そこに立っていたのは――高峰部長だった。


 長身に仕立てのいいスーツを纏い、淡い蛍光灯の光を背に受ける姿は、場違いなくらい凛々しく映える。

 朝の喧騒の中で見たときよりも、そのシルエットは際立って見え、息を呑むほどだった。

 

「……ああ、すまない。驚かせてしまったね」


「えっ、え!? ど、どうして……ですか? 歓迎会はまだ……?」


「一次会で抜けてきた」

 肩をすくめる仕草が、昼間の堂々とした姿とは違ってどこか肩の力が抜けている。


「そ、そんな! 主役が抜けることなんてあるんですか!?」


「まあね。戻って仕事を終わらせたくて。

 ……というのは建前で、騒がしいのは少々苦手かもしれない」

 少しおどけた口調に、思わずクスッと笑ってしまう。


 完璧超人に見えた部長でも、苦手なものはあるんだ。


「それと、田島君から聞いてね。君が一人で残ってるって」

 そう言いながら、高峰部長がこちらへ歩み寄ってくる。


「えっ! それでわざわざ……!?」


「そう。遅くまでお疲れ様、三枝 杏さえぐさ あんさん」

 そう言って差し出されたのは、紙袋から取り出したアイスコーヒーだった。

 私は両手でそれを受け取り、ひんやりとした感触に一瞬だけ息を整える。


「ありがとうございます……」

 そう口にしたところで、ふと違和感に気づき、思わず顔を上げた。

「……って、わたしの名前、ご存じで……!?」


「もちろん」

 柔らかく目を細めて答えるその仕草に、視線を逸らせなかった。

 

「君とはちょっと話をしたいと思っていたんだ」

 そう言って、もう一つのカップを手に取り、にこっと微笑む。


 ――その笑顔は、昼間みんなの前で見せた威厳ある微笑みとは違う。

 ずっとフランクで、親しみやすさを帯びていて……思わず心臓が跳ねた。

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