第3話

 五月の晴天の空は美しい。あと一歩という期待感。これから起こる幸福への満ち足りた気持ち。山の空気は澄んでいるが、そこに木々や土のいやらしさの無い生物の匂いを含む。

 山の香りは、なんだか懐かしい気がした。

 祖父の家は山へ続く坂の途中にある。坂道に沿って連なる家々の中でも上部に位置し、彼の家の上には一軒しかない。その家の向かいはうらびれたあんで、立派な銀杏の木があった。もとは住人がいたのかもしれないが、とても人が住んでいるようには見えない。

 優斗はそれには目をくれないで、ずんずんと坂道を上がって行く。歩いて追いかける榮たちをときどき振り返っては、走って戻ってきて、またさっさと先へ行ってしまう。彼は幼稚園の制服を着ており、サスペンダーのついた紺色の短パンから細くやわらかい足が見えている。膝にキャラクターの絵がついた絆創膏を貼った足は疲れ知らずで、止まることを知らないようだ。立ち止まった時でも足踏みをしたり、地面を蹴ったりする。優斗はたいそう環を気に入ったらしい。こちらに駆け戻ってくるときも、環ばかり見ている。

 一番上の家を少し超えたところでコンクリートの坂道は突然途絶えて、土の道が立ち並ぶ木々の中に続いている。優斗は迷うことなく先へ歩いて行く。この山は誰の所有なのだろう。祖父のものではなかったはずだ。そもそも、祖父は余所者だった。祖父たちがこちらの土地へ引っ越してきたのは娘たちが大きくなってからで、家も空き家だったものをリフォームして住んでいた。そんな祖父母がこの町でどのような扱いを受けていたのか、榮は知らない。しかし、この優斗の様子を見る限り、決して悪いものではないのだろうと、榮は考えた。そうでなければ、勝手に他人の土地に立ち入ることを許したりしないだろう。

 どこから拾ってきたのか、木の棒を握りしめて、隊長さながら頼もしい足取りで、優斗はすいすいと山道を歩いてゆく。

 「秘密基地やねん」

 優斗は環を振り返って言った。

 「お兄ちゃんにだけ、教えたる」

 「お姉ちゃんもええ?」

 環が訊ねると、そこで優斗ははじめて榮を真正面から見つめた。品定めするような視線に、榮は居心地の悪さを感じる。その目は父親の和樹にそっくりだった。

 「俺の姉ちゃんやねん」

 環が続けて言うと、優斗は環と榮を交互に見て、「うん」と頷いた。覇気のない声だった。環に免じて、榮は侵入を許されたのだ。

 三人が連れ立って歩いていると、優斗が突然脇にある細い獣道に入って行ったので、榮は声をあげそうになった。環は躊躇なく彼に続く。今まで、なんとか軽トラックでも通れそうな道だったのが、一人歩くのにも生い茂った草が身体に当たるような狭さだった。やがて、一行は視界のひらけた広場に出た。倒れた大きな木が奥にあって、切り株も残っている。周りの木々の枝が屋根のように被さってはいるが、他の場所よりは日光が入り明るかった。用途はわからないが、おそらく山の持ち主が切り開いたのだろう。どこから運んできたのか、大きな石が、三つほどまばらに置かれている。

 環は断りなくその石のひとつに腰をかけた。優斗は何も言わない。榮は気が引けて、立ったまま二人を見守る。環の額には汗が滲んでいる。脱いでくればよかったのに、学ランを着たまま歩いてきたのだ。しかし、この山の中で脱いで置く場所はない。

 優斗が茂みの中から、土で汚れた工具箱を持ってきた。家族のものか、近所の人にもらったのかわからないが、使い古されたそれは持ち手の部分がなくなっており、両手で抱えるしかない。優斗は意外にも、服を汚さないように身体から離して器用にそれを持ってきた。

 「何それ」

 環の質問に、優斗は「しーっ!」と人差し指を口の前で立てて言った。

 「誰にも言ったらあかんで」

 ふたりが頷くのを確認し、優斗はその箱を開けた。中には、大人にはガラクタとしか言えないようなものがたんまり入っていた。ビー玉、トレーディングカード、指人形などに紛れて、海外の硬貨もあった。蝉の抜け殻まで入っている。工具箱はそれでもかなりスペースがあまっている。優斗はポケットから何かを取り出してそこに追加した。

 「隠してんねん」

 彼はそう言って、また工具箱を閉じてしまった。

 「何入れたん?」

 環が問いかける。優斗は榮の方を疑い深い目で盗み見て、環の耳元でコソコソと何かを言った。

 「ええやん」

 お気に入りのお兄ちゃんの肯定に、優斗は嬉々とした足取りで、また工具箱を隠しに行った。それから優斗は、ひとりであたりを歩き回って、榮には意味のよくわからないジェスチャーや動きを繰り返し、一人でぶつぶつと何かを言いながらあたりの茂みを枝で殴りつけたかと思うと、環に大声で話しかけたり、秘密話をしたり、というのをしばらく繰り返した。それから唐突に立ち上がると、彼は叫んだ。

 「俺ちょっと冒険してくる!」

 優斗は汗のひいた環の腕の布を引っ張って続ける。

 「お兄ちゃんも行こ!」

 「危ないんちゃう?」

 榮が環に心配げな小さな声で言うと、優斗は不貞腐れた顔で榮を睨みつけた。わざとらしく、環に媚びるような大袈裟な顔つきだが、その顔は榮をまごつかせた。

 「俺が見とくよ。大丈夫やから、姉ちゃん入り口で待ってて」

 子どもの扱いは、環の方がずっとうまいようだ。彼がそう姉に告げると、優斗は飛び跳ねて喜んだ。榮は二人の後ろ姿が木々の間に消えてゆくのを見守り、少しの間秘密基地に立ち尽くしていたが、やがて気味が悪くなって元の道へ引き返した。

 小道を抜けて、もとの大きな道に戻り、森の入り口へ出る。途端、一気に降り注ぐ陽光に、榮は顔を顰めた。森へ入った時と、あたりの様子は変わらない。なぜだろう、あそこにいると、この世の時間から切り離されたような気がした。榮の住む街に山はない。小さな頃も、榮は祖父や両親にくっついて離れず、従兄や姉や友人とどこかへ出かけることは少なかった。

 そうだ、それでも一度、山へ向かう和樹に着いて行ったことがあった。その記憶は降って湧いたように彼女の頭に蘇った。

 そのころ和樹は、おそらく環と同じくらいの年頃だったはずだ。普段構ってくれない従兄が、どうして幼い榮を連れて行くことにしたのかは覚えていない。和樹がどんな様子だったのかも。ただ、その時も、こうやって置き去りにされたのだ。あの時は、ここで待っていろとか、先に帰っておけとか告げられることもなく、ただ道の真ん中で放置されたのだった。それから榮はどうやって帰ったのだろう。そこまでは思い出せなかった。嫌な記憶だった。山の中で感じた気味の悪さは、きっとこのためだったのだ。

 榮はもう山の中へ戻る気にはなれなかった。彼女はそのまま坂を少し降りて、あの庵のあたりへ向かった。放置されているわりに、敷地内は整然としている。近所の人が整備しているのかもしれない。小さな部屋が、多くても二つくらいしかないと思われる小さな木造の建物も、朽ちてはいない。しかし、前に据えられた賽銭箱は文字がはげ、枯葉が上に溜まっている。それに、建物の前面に張り出した縁側にはカビが生え、座る気にはなれない。

 そして、敷地の真ん中にどすんと経つ老齢の銀杏の木は、本当に立派なものだった。首を曲げて見上げないとてっぺんが見えない。秋になれば、さぞ美しい黄色のカーペットが見られることだろう。

 銀杏の木のてっぺんのその向こうに、鳶が飛んでいる。

 榮がそれを眺めていると、遠くから子どもの泣き声がかすかに聞こえてきた。近所の子どもかもしれないが心配になり、榮は坂道へ戻った。坂の上を見上げると、環が優斗を抱きかかえながら降りてくるのが見えた。

 「どうしたん」

 優斗は環の首にしがみつき、顔を伏せながら大きな声で泣いていた。

 「なんか、見たらしい」

 「なんかって?」

 「よう分からんけど」

 環は優斗を降ろそうとしたが、彼は嫌々と首を振って暴れた。

 「ゆうくん、どうしたの?」という榮の問いかけも無視された。

 ふたりは優斗が落ち着くまで、日陰に入って立ち尽くして待った。泣いているまま家に帰るのはなんだか後ろめたかったのだ。待っているうちに、泣き声がだんだん落ち着いてきて、ひくひくというしゃくりあげる声に変わった。

 「ゆうくん、たっちできる?」

 優斗が頷いたので、環は彼を下ろした。彼は子どもを抱えていた両腕をぶるぶると振るう。小さな子どもとはいえ、十五歳の少年の腕には重かっただろう。

 優斗の顔は真っ赤で、目は膨れ上がっていた。鼻の周りで鼻水が固まって白くなっている。まだしゃくりあげている優斗に、環はしゃがんで訊ねた。

 「なに見たん?」

 優斗が何か答えたが、ふたりの耳には聞き取れなかった。「なんて?」と環が優しく問うと、彼は少し大きな声で「女の人」と答えた。

 「女の人?」

 優斗は大きく頷いた。腫れていて分かりづらいが、彼は目を見開いて、訴えかけるような目つきで環をじっと見つめている。

 「両手が蛇の、女の人」

 榮と環は顔を見合わせた。

 「ほんまに?」

 優斗は力を込めて頷く。

 「怖かったな」

 環が頭をそっと撫でると、優斗はぽろぽろとまた泣き出した。

 嘘を言っているようには見えなかった。しかし子どもの言うことだ、おそらく何かを見たのは事実だが、驚きと恐れのあまりそれをお化けか何かと勘違いしたのだろう。案外、森の持ち主がそこにいただけで、そう、たとえば、ちょうど蛇を仕留めたところだったのかもしれない。

 見たところ、優斗に怪我はないようだった。服も汚れていない。そのことをやっと確認し、榮は胸を撫で下ろした。

 優斗が強請るので、再び環が彼を抱いて、三人は家へ戻った。

 

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花の栄え(仮題) 柊木ふゆき @daydreamin9

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