プロローグ4:一ノ瀬保奈美

 あの日のことを、私はきっと一生忘れられない。


 ゴールデンウィークの朝、母が楽しそうに義父とスーツケースを転がして出発する姿を見送ったときは、「いってらっしゃい」と笑顔で見送れた。

 ――まさか、それが最後になるなんて。


 ニュース速報が流れた瞬間も、まだ信じていなかった。

 「死者多数」というテロップは、どこか遠くの世界の出来事にしか思えなかった。

 でも、警察からの連絡で現地の病院に駆けつけて、白いシーツに覆われた母と義父の姿を目にしたとき、胸の奥が裂けるように痛んだ。

 頭が真っ白になって、声が出なかった。息を吸うことすら苦しかった。


 母がいない。

 もう二度と、「保奈美」と呼んでくれる声が聞けない。

 笑いかけてくれる顔が見られない。

 私のことを一番に考えて、守ってくれた存在が、この世から消えてしまった。


 ――どうして。

 どうして、こんなことになったの。


 分からない。

 どれだけ問いかけても答えはなく、ただ涙が止まらなかった。


 葬儀の場は、重苦しい空気に包まれていた。

 親戚たちは心配そうな顔をしながらも、「これからどうするのか」と小声で話し合っていた。

 「高校生の子が、血の繋がらない義兄と二人暮らしなんて大丈夫かしら」

 「施設に預けるしかないんじゃないか」

 耳に入ってくるその言葉に、胸が締め付けられた。


 私は……これからどうなるのだろう。

 母がいなくなって、居場所を失った私は、誰に頼ればいいのだろう。


 そんなときだった。

 通夜の席で、直也さんがはっきりと言った。


 「保奈美は、オレが育てます」


 その声を聞いた瞬間、世界が少しだけ色を取り戻した気がした。

 周囲のざわめきが消え、ただその言葉だけが胸に響いた。


 直也さんは、まだ二十代前半。

 総合商社に勤めていて、すごく多忙、きっと大変なことも多いはずなのに。

 それでも、私を守ると宣言してくれた。

 あまりに突然の出来事で、現実感なんて全然ない。

 でも、今の私にとって、その言葉は唯一の救いだった。


 お通夜が終わって、家に戻った夜。

 仏壇に並んだ二人の遺影を見つめながら、私は思わず口にした。

 「……直也さん、私、これからどうすればいいのかな」


 涙で声が震えていた。

 自分でも情けないと思った。

 でも、心細さに押し潰されそうで、誰かに縋らなければ立っていられなかった。


 直也さんは、迷わず答えてくれた。

 「大丈夫だ。オレがいる。オレと保奈美ちゃんは、もう二人だけの家族なんだから。オレが保奈美ちゃんを守る。だから一緒に頑張ろう」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 涙がまた溢れてきて、私はただ頷くことしかできなかった。


 本当は「お義兄さん」って呼ぶべきなのかもしれない。

 でも、口から出たのは「直也さん」だった。

 それが私にとって自然で、今の精いっぱいの距離感だった。


 直也さんは「兄」として線を引こうとしている。

 けれど私にとっては、まだ「新しくできた家族」でしかない。

 その微妙な距離感が、これからどう変わっていくのか――そのときの私は、まだ想像すらできなかった。


 ただ一つだけ確かなのは。

 母を失って絶望の淵にいた私を、直也さんの言葉が救ってくれたということ。

 それは、たった一つの小さな光明だった。


 だから、もう泣いてばかりはいられない。

 母の代わりに、直也さんが「家族になってくれる」と言ってくれたのだから。

 ――私も前を向こう。

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