織田ノーブル姫の覇道

法王院 優希

第1話 織田ノーブル姫

「余が織田ノーブルである!」


 その声が和室の空気を切り裂いた瞬間、俺の背筋は凍りついた。

 響き渡るその言葉には、迷いも虚飾もなかった。

 威圧というより、もはや宣告だった。俺がこの世界で何者に膝を折るのか――それを一瞬で理解させるだけの力が、その名乗りにはあった。


 ……でも、そこへ至るまでに、俺は数分前からずっと呼吸すらまともにできずにいた。


 畳の感触。

 乾いた草の香りが鼻をくすぐる。だがそれは、どこか記憶の中のものと微妙に違っていた。


 俺――木下日吉(きのしたひきち)、17歳の高校生は、今、畳敷きの和室で正座していた。


 目を開ければ、見知らぬ天井。天井板の木目がゆるやかに波打ち、光が障子越しに淡く差し込んでいる。


 聞こえるのは、自分の呼吸と、時おりどこか遠くから響く鳥のさえずりだけ。季節は、たぶん春。空気の中に花と湿り気が混じっている。


 脚の痺れはとっくに限界を越えていたが、それ以上に胸の鼓動がうるさい。


 それも当然だ。


 目の前に座る人物の、あまりの存在感に、意識のすべてが奪われていた。


 そこにいたのは、一人の女性だった。

 でも、ただの『女性』ではない。


 ――この人は、ただ者じゃない。


 最初に目を奪われたのは、髪だった。


 深紅の絹糸のような髪が、腰まで滑らかに流れている。陽の光を受けて、赤と黒の色合いが刀の刃文のように揺らめいていた。風もないのに、髪がふわりと動いた気がして、思わず息を呑む。


 整った顔立ちには、凛とした意志が宿っている。伏し目がちに見える睫毛の奥、その瞳は焦げ茶というには深すぎて、まるで夜の湖のようだった。


 釣り上がった目元が鋭さと冷静さを宿していて、ただ視線を向けられただけで、背中がひとりでに正された。威圧というより、本能が「逆らうな」と告げていた。


 紫を基調にした着物には、撫子や桜の花が柔らかく描かれている。


 だが、その愛らしい意匠も、この人が纏えばただの飾りでは終わらない。


 金糸の帯がきっちりと締められ、着物の端までもが鋭く整っている。まるで、すべてが『戦の装い』だった。


 彼女は黙って、俺を見ていた。


 その視線は冷たく、静かで、それでもどこか惹きつけられる不思議な熱を帯びていた。


 見透かされている。そう思った。


 俺が何者なのか、何を知っていて、何を知らないか……すべて、あの瞳に見抜かれている気がした。


(なんだよ……ここは……)


 冷や汗が首筋を伝う。

 確か俺は、学校で……歴史の授業で……。

 板書を写している最中に、ふとまぶたが重くなって……気がついたら、ここだ。


 和室。畳。障子。古風な空間。だけど空気の密度が違う。

 これは夢じゃない。明らかに違う。

 この重さ、この緊張感、肌のひりつき。全部が本物だった。


(まさか……転生?)


 脳裏をよぎったのは、そんな突拍子もない考えだった。

 でも、突拍子もなさすぎるはずのそれが、今の状況ではむしろ一番『ありえる』と思えた。



 受付で木札を渡してきた禿げ頭の中年男の顔が脳裏に浮かぶ。


「次、藤吉郎、謁見の間へ」と言われ、半ば夢うつつで連れてこられたあの瞬間。

 俺は『木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)』として、この世界に存在しているらしい。


 だったらやるしかない。

 この世界で生き残るには、織田家に認められるしかない。


 俺は、静かに畳に額をつけた。

 震えを押し殺し、声を出す。


「拙者は尾張中村出身の木下藤吉郎と申す者でございます。ぜひとも、尾張の主『織田信長』様にお仕えしとうございます」


 口にした瞬間、自分の声がやけに頼りなく聞こえた。

 だが、今はそれしか道がない。頼れるのは己の言葉だけだった。


 沈黙が返ってきた。

 長い。

 畳の目の数を数えたくなるほど、長く感じた。


(まずったか……?)


 畳に額をつけたまま、じわじわと冷や汗が背を伝う。


「面をあげよ」


 その声は、凛としていて、どこまでも澄んでいた。

 女の声であるのに、空気を切り裂くような鋭さがあった。


 俺は、恐る恐る顔を上げた。

 目の前には、やはりあの姫が、まっすぐにこちらを見つめていた。


「そなた、織田『のぶなが』に仕えたいと申したのか?」


「ははっ。ぜひとも御屋形様の天下布武のお役に立ちたいと存じます」


 声は、思ったよりもよく出た。

 緊張のせいで喉がからからだったのに、それでも言葉だけは転がり出てくれた。


 ノーブルの眉が、わずかにひそめられるのが見えた。


(……あれ?)


「であるか……織田家に『のぶなが』と言う名の者はおったか、お市」


 横に控えていた少女に、ノーブルが問いかける。

 その瞬間、空気がやわらいだ。


 その少女は、ただそこに座っているだけなのに、空気が一段澄んだ気がした。


 黒髪はまるで夜の湖面のように静かで、肩口から胸元にかけて、滑らかに流れている。


 着物は薄桃色で、桜の模様が一面にあしらわれていた。

 白い肌にうっすら紅を差した頬が、まるで春の一輪の花のようだった。


 彼女の名は――お市というらしい。

 ノーブルの問いに、静かに答える。


「姉上、わたくしの記憶では……そのような者はおりません」


(うそだろ……)


 その一言が、頭の中で鈍く響いた。

 心臓が、ひときわ強く跳ねた。


「お市様の兄上の三郎信長様ですぞ!」


 思わず叫んだ。自分でも、声が裏返っているのがわかった。


「……信広(のぶひろ)お兄様の間違いではないのですか?」


 お市が、困ったように眉を寄せて助け船を出す。


 違う、そうじゃない。

 俺は知ってる。

 信長がいて、桶狭間で今川を破り、天下布武を掲げる――はずだった。


 だが。

 その知識が、音を立てて崩れていく。


 ……この世界には、信長がいない。


「信長様に会わせていただきたい」


 なおも食い下がる。頭を下げ、声を絞り出す。

 今さら止まれない。ここで引いたら、終わる。


「であるか……帰蝶(きちょう)、そなたはどう思う?」


 お市の反対側に控える女性――帰蝶に、ノーブルが視線を移した。


 彼女は、静謐の象徴のような存在だった。

 何も語らず、何も誇示しない。それなのに、空気そのものが引き締まる。


 瑠璃色の着物に、桜と撫子の模様。編み込まれた髪には小さな簪。

 伏せられた瞼の奥に、どこまでも深い湖のような静けさがある。


「察しますに、ただの痴れ者かと」


 その一言は、突き刺すように冷たかった。

 何の情けも、余白もなかった。


(……終わった)


 胃の奥に、冷たい鉛を流し込まれたような気がした。


「はは、そなたは相変わらず厳しいな」


 ノーブルが笑った。その笑いは、どこか愉しげだった。


「藤吉郎よ、織田家には『のぶなが』がおらぬようだが、どうする?」


 視線がまた、俺に戻ってくる。


 試されている。

 試されることすら、許されていないかもしれない。

 それでも――


(信長がいないなら、今の織田家当主に賭けるしかない)


「拙者は織田家当主にお仕えしとうございます!」


 頭を下げた。

 もう、腹は決まっていた。


「はは、面白い奴よの。存在しない『のぶなが』に仕えたいと言い出し、次には余に仕えたいと申すか」


「いえ、拙者は織田家当主にお仕えしたく……」


「何を馬鹿なことを申しておる。余こそが織田家当主であり、惑星『尾張』の領主――織田ノーブルである!」


 彼女は、ゆるりと立ち上がった。

 その瞬間、空気が一変した。

 光が、影が、床の温度までもが変わったように感じられた。


 俺は、反射的に平伏していた。

 この覇気には、抗えなかった。


「ははーっ!」


 気づけば、声が漏れていた。

 それは降参の声だったのか、歓喜だったのか、自分でもわからない。


 こうして俺は――

 織田『信長』ではなく、織田『ノーブル』に仕えることになったのだ。

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