第6話 2%の灯り

九月十七日、朝の時点で湿度は八十%を超えていた。古い扇風機が首を振るたびに、熱気だけが循環する。私は商店街振興会のエクセルシートを広げ、老眼鏡を押し上げながら、マウスをクリックした。画面に浮かぶのは、宿泊税導入後の売上推移――前年比△15%。赤字の数字は、血のように赤い。


「前年比十五%減……」


 私は、思わず呟いた。数字は冷たい。だが、その背後にある顔は熱い。商店街の顔、雑貨店の顔、老舗食堂の顔。どの顔も、灯りを消しかけている。


 午前十時、雑貨店「あおい」に立ち寄ると、田中健吾がレジの奥で帳簿をつけていた。52歳。三年前に親の跡を継いだ。棚を見回すと、観光客向けのシーサー、ハイビスカスのキーホルダー、サンゴのストラップ――全て、埃を被っている。売上レシートは、帳簿の半分も埋まっていない。


「本田さん、これが現実ですよ」


 健吾は、私に帳簿を見せた。昨年九月の売上は152万円。今年同月は106万円。30%ダウン。理由の欄には、小さく「宿泊税影響」と書かれている。


「2%の税が、外国人を追い払ってる。中国語のツアーアプリに“追加宿泊税あり”って出ただけで、予約がキャンセルになる。免税対象の高級ホテルに流れるんです」


 私は、棚に指を這わせた。埃が、指紋のように残る。健吾の声が、背中に絡みついた。


「77億8,000万円の税収で、何が変わる? うちの売上は減る一方です。大学の学費も……」


 その言葉で、私は昨夜の電話を思い出した。健吾の息子・翔太からだった。


「叔父さん、うちの店、本当にダメかもしれない。僕、バイト増やして学費を稼ぐんで、父には黙っててください」


 私は、帳簿を閉じた。数字は、親の知らないところで子を苦しめる。商店街の灯りは、客足ではなく、家族の足音で消える。


 正午、太陽は真上にあった。商店街のアーケードは、熱気を溜め込む巨大なダクトだ。私は、飲食店「味処・海風」を訪ねた。佐藤悟が、厨房から顔を出した。48歳。免税対象外の民宿が密集する裏通りに店を構える。


「本田さん、見てくださいよ。昼時なのに、客ゼロです」


 テーブルは六卓。全て、椅子が重ねられている。メニュー表には「観光客歓迎・英語対応」と書いてあるが、英語を話す客は来ない。免税対象の高級リゾートには、専用のレストランがある。


「免税対象外の宿に泊まる客は、食費も切り詰める。うちみたいな個人店は、最早“外”ですよ」


 私は、カウンターに置かれた県のリーフレットを手に取った。「宿泊税で観光環境が向上します」――文字は虹色に輝いている。だが、虹の下を歩く商店街の足元は、泥だらけだ。


 午後三時、恩納村のメインストリート。私は、デジカメを構えた。シャッターを切るたびに、景観が記録される。空いたテナントのシャッター、「閉店セール」の赤張り紙、ハイビスカスの鉢植えが枯れている風景。枯れた花びらは、2%の重さで、地面に張り付いている。


 免税対象外の民宿「さくら荘」を訪ねると、オーナーが明かりを落としていた。


「もう、今夜で最後です。観光客は“免税ライン”を調べて予約する。5,000円の宿は、‘安かろう悪かろう’と判断される。実際は、清掃も行き届いてる。でも、2%の“安さのペナルティ”が、客の心を変えるんです」


 オーナーは、鍵を差し込みながら、笑った。笑いの裏に、覚悟が見える。


「商店街も、同じですよ。灯りが一つ消えると、次は連鎖する。本田さん、早く、何とかしてくれ」


 私は、デジカメを下ろした。カメラには、景観だけでなく、沈黙の音も記録されている。


 夜八時、自宅。節子は、冷たい麦茶を出しながら、私の顔を覗き込んだ。


「今日も、シャッターを押しまくってきた?」


「灯りが消える瞬間を、残しておきたくてね」


 私は、ダイニングテーブルに、30年前の商店街マップを広げた。当時は、夜店が並び、屋台の焼きそばの匂いが立ちこめていた。今では、空き地が駐車場になっている。


「30年前、商店街活性化で、踊ったな。今回は踊らない。数字で戦う」


 私は、マップの上に、透明のプラスチックシートを重ねた。赤い油性ペンで、売上減少率を書き込む。15%、30%、40%――数字は、商店の屋号を飲み込んでいく。


「節子、明晩、商店街総会だ。これを、皆で見せる」


「赤い数字ばかりじゃ、気が滅入るわ」


「だからこそ、次のページを用意する」


 私は、もう一枚のシートを重ねた。そこに描いたのは「小規模店支援策」の案。宿泊税収のうち、5%を商店街振興基金として積み立て、免税対象外施設周辺の店舗に配分。1店舗年間50万円限度。条件は「高齢者・子連れ優待サービス実施」。観光客減を補うだけでなく、地域住民の足を引きつける。


「77億のうち、5%は3.9億。十分、戦える」


 節子は、麦茶のグラスを上げた。


「昔は、焼きそばの匂いで客を集めた。今度は、数字の匂いかしら」


「数字は匂わない。だが、灯りを点ける。2%のスイッチを、0.5%の支援に変える」


 私は、マップをロールアップした。明日、商店街総会で、赤い数字を皆で見せる。そして、次のページをめくる。灯りが消える前に、新しいスイッチを作る。それが、自治会長の務めだ。


 窓の外を見る。商店街のアーケードが、闇に浮かんでいる。明かりは、もう少しで消える。だが、スイッチは、ここにある。数字で、灯す。

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