第16話
「安来の駅で降ろすっちゃね、あとは待ってんしゃる人のところへおふたりで行かれたらえかろうって」
運転手は大きな声でそう言って、安来市内に入ってから、今度は名残惜しんでいるかのようにバスの速度を緩め、信号のひとつひとつをしっかりと確認し、噛み締めながら走っているように思えた。
安来の駅が見えてきた。
遥か昔のあの日の記憶が蘇ってきそうだ。
でも、駅前にこんなロータリーはなかったはずだし、周辺の様子も随分と変わってしまった。
まるで文楽劇場のような外観は、安来節の町らしく日本の奥田舎にふさわしい駅だと思ったが、年月の経過は過去を崩し続けるのだと分かってはいても、昔の記憶にある安来駅と違っていたことに少し落胆した。
* * *
あの日はクリスマスイブだった。
私は再び京都駅から朝七時過ぎの列車に乗って向かった。
前回の訪問から二週間ほどしか経っていなかったので、江美の母親は驚いた様子だった。
「この前の・・・」
「はい、小野寺です。江美さんに少しでもお会いできないでしょうか?」
「ちょっとお待ちになってください」
母親は懲りずに来た僕にかなり戸惑った顔をして奥に入っていった。
しばらくして母親と江美が一緒に現れた。
江美は大きな綿入れを羽織り、少しふっくらとした感じに変わっていて、視線が合うと軽く微笑んだように見えた。
「どうぞ、お上がりください。殺風景なところですが、さあどうぞ」
母親は当惑しながらも私を家に上げてくれ、廊下を何度か曲がったあと、ひとつの和室に案内された。
その部屋は江美の部屋で、真ん中にコタツが置かれていた。
「寒かったでしょう、どうぞ足を入れてください。今お茶を入れますから」
母親はそう言ってから部屋を出て行った。
江美がコタツに入り「ごめんね、何も言わずにいなくなって」と言った。
私は江美の顔を久しぶりに見て、こみ上げてくる気持ちを抑えられず身体が震えた。
「メリークリスマス!」
こころの内奥から溢れ出る震えを一気に吐き出すように言った。
涙が噴き出しそうだったが耐えた。
「そうか、今日はクリスマスイブだったんだ。テレビは観ないし新聞もあまり読まないから、世の中のことが分からないわ」
江美は笑って言った。
「身体のほうは大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫、身体は元気よ」
「急にいなくなったから心配したんだ。手紙が届くかと思って、ずっと待っていたんだけど・・・我慢できなくて来てしまったんだ」
「ごめんね、本当に悪かったわ」
「それはいいけど、でも、どうして急に帰ってしまったんだ?」
両親がそのとき部屋に入ってきた。
農作業服姿の父親は浅黒い精悍な顔付きだった。
「あなたが小野寺さんでしたか。娘からいろいろ聞いちょります。先日はわざわざお越しくださったのに、江美が会いたくないと言いよったらしくて、申し訳ありませんでした。今日はまた遠路お越しくださって恐縮です」
父親は私のような若造に対して、同じ目線で対峙してくれた。
「私らは席を外しますから、どうぞ遠慮なさらんでくださいな」
そう言って両親は部屋を出て行った。しばらく江美は黙ったままで、私は出されたお茶をすすりながら話す言葉を探した。
「江美、僕は振られたんだよね。でもなぜ?赤ん坊はまたできるじゃないか」
久しぶりに江美の姿を見て、やっぱり別れたくないと思った。
「来てくれて本当は嬉しいのよ。でも私はもう浩一を幸せにしてあげることができないと思ったの。一緒にいればいるほど浩一が可哀想で・・・もっとこれから開ける人生が待っているのに、私のような女にしがみつかれてしまったら、大事な人生が台無しじゃない。
浩一のことは大好きよ。でもね、世の中って、人生って、我慢しないといけないことってたくさんあるんじゃない?だから私、我慢するの。浩一は大学に戻りなさい、それが一番よ。去年の十一月に私が浩一の大学に突然訪ねたでしょ。
私は松江で嫌なことがあって、それから逃げ出したいのと、浩一と会いたいと思って松江を出たの。でもそれは私の自分勝手な行動だったの。浩一に迷惑をかけたと思っているのよ」
「そんなこと、絶対にないよ、江美」
「聞いて、私の話を。私、赤ちゃんができたと分かったとき、すぐに安来に戻って両親には何も言わずにひとりで子供を育てようと思ったのよ。
でも、何の説明もせずに実家で赤ちゃんを産むわけにもいかないし、浩一のこともあるしね、いろいろと悩んだの。もう悩み過ぎて気がおかしくなりそうだったわ。あんなに悩んだのは初めて。
それで居ても立ってもいられなくて、浩一の仕事場まで行ってしまったのよ。ホテルで私が妊娠したことを伝えたとき、浩一はまさかって言ったわよね、憶えている?」
「憶えていないよ、そんなこと言ったのかな」
「言ったのよ、まさかって。私、がっかりしたわ。でもね、そのあと浩一はすごく気遣ってくれて、私と一緒になるって本気で言ってくれたよね。嬉しかったわ。
でも、もうその気持だけでいいの、本当にいいのよ。浩一の気持ちは分かったから、大学へ戻りなさい。神様が私と浩一の赤ん坊をさらっていったのよ。それが答えだと思っているわ」
「嫌だよ、江美。僕は別れたくないよ。君だけに辛い思いをさせて悪かったと思っているんだ。元にすぐ戻れないなら、ときどき会うだけでも僕は我慢するよ。だから・・・」
「駄目なのよ、もう私たち元に戻れないわ。誰が悪いとかいうことじゃなくて、これはすべて運命なのよ。人生って、好きだから、愛しているからずっと一緒にいられるとは限らないのよ。分かるわね、浩一なら」
江美はそう言って泣いた。
江美が静かに泣いている姿を見て、私は言おうとしていたことの全部を失った。
「ともかく行けるところまで行って、宿があれば泊まるし、なければ途中の駅舎にでも泊めてもらうよ」
江美も両親も遅い時間だから遠慮なく泊まって帰ればいかがかと言ってくれた。
でも、一泊でもさせてもらったなら、彼女への未練が絶対に捨てきれなくなる。
泊めてもらった翌日の別れの辛さに耐える自信が、私にはなかった。
「あなたの気持は充分いただきました。わざわざこんな遠い田舎まで何度も来てくださって、それでもう私らはあなたに何の恨みも感じておりません。あなたは男だ、これからまだまだ将来があります。どうぞ江美のことは気にせず頑張ってください」
父は穏やかな表情で言った。
私は込み上げる気持を抑えられなくなりそうだった。
江美が駅まで送ると言うので甘えた。
駅まで歩く途中、江美は私の腕を取って、胸に抱きかかえるようにして歩いた。
腕を取られていると、初めて江美と松江城の天守閣に登ったときのことを思い出した。
あのときも江美はさりげなく私の右手を抱えるように取った。
何か話さなければと、江美への言葉を探し続け、こころが混乱しているうちに駅に着いてしまった。もう会えないと思うと身体が震え、そして感情がこみ上げてきた。
「江美を抱えて連れて帰りたいよ」
「私だって・・・」
「辛いよ、江美。嫌だよ、こんなの」
私は生まれて初めて嗚咽し、男として恥ずかしいくらいに泣いた。
駅員や乗客が数人いたが私は江美を抱きしめた。
この温もりや匂いをもう感じることができないと思うと、辛さでどうにかなってしまいそうだった。列車の到着時刻が来た。
「江美、もう行っていいよ。見送られると列車に乗れないから」
「分かったわ、それじゃ元気でね。浩一、絶対に頑張らないと承知しないからね」
江美は最後にそう言い残して身体を翻して行ってしまった。
私は流れ出る涙も気にせず、彼女が転ばないようにと祈り、その姿が見えなくなるまで見送った。それから列車に乗った。
* * *
「おじさん、バスを降りないと・・・」
有里紗の言葉に現実に返ると、バスは安来駅のロータリーの外れに停車して、運転手が外に出て私たちふたりを待っていた。
「ここまでの運賃はいくらですか?」
「運賃?そげなものはもらわないっちゃ。それよりも早う行ってやらんとね。かげながら応援しとるっちゃ」
運転手はそう言って手を振り、バスに乗り込んでエンジンを震わせ、大通りに出てからアッという間にどこかに消えてしまった。
「おじさん、電話するから一緒にいてくれるでしょ」
「もちろん、君がたどり着くのを見守るから、心配ないよ」
私と有里紗は駅舎の外にある公衆電話のところへ急いだ。
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