第11話


 バスは宍道湖沿いの国道九号線をゆっくりと走り続け、まもなく松江市が見えてきた。

 昔、何度かこの町を訪ねたことが懐かしく思い出された。


「おじさんが訪ねていくひとは女の人なんだ。若いころその人は松江で働いていてね、おじさんはまだ学生だったんだけど、松江に用事があってきたとき、その人と知り合ったんだよ」


 毎年七月下旬に行われる松江の水郷祭で江美と知り合った。

 宍道湖から打ち上げられる花火は圧巻だったし、昼間、松江城から眺める宍道湖も、湖面がキラキラと魚の鱗のように輝いていて、思わずため息が出るほど綺麗だった。


「私のお母さんも松江で働いていたらしいよ。お父さんと結婚するずっとまえのことだったみたいだけど、観光ガイドをやっていたとか聞いたことがあるわ」


「ホントに?」


「お母さんの実家は農家で、小さいころ二度ばかり連れて行ってもらったことがあるけど、そのときおばあちゃんが、お母さんは若いころ、松江でガイドをやってたんだよって言ってたから」


 江美と知り合ったのは大学二年生の夏休みだった。

 私はテキ屋のバイトで、大阪から松江の水郷祭へ来ていた。


 三日間の水郷祭が終わった翌日の夜、岡田というテキ屋の先輩に飲みに連れて行かれたバーに江美がいた。

 彼女は、昼間は松江城の近くの観光案内所に勤め、夜はバーでアルバイトをしていた。



 懐かしく、そして古い話だ・・・


「ママさんよ、このアンちゃんは苦学生でな、大学で法律を勉強しとるんや。将来はいざというときに俺らを助けてくれるんや。なあ小野寺、頼りにしてるで」


 店には四十歳位のママと若い女の子がふたり、カウンターの中にいた。

 小さなバーだがママが女優みたいに美人だからか、男性の常連客が多い様子で、ほぼ満席の繁盛ぶりだった。


「岡田さん、大学で法律を学んでいたって、卒業してもたいていは普通のサラリーマンになるんですよ。裁判官とか弁護士になるには難しい試験があるんです。僕なんか絶対に無理ですよ」


 せっかく入った大学生活が四苦八苦している状態なのに、岡田のさりげない言葉にさえ私は自分を恥ずかしいと思うばかりだった。


「松江にはいつまでいらっしゃるのですか?」


 席に近いカウンターの中にいた女の子が不意に話しかけてきた。


「明後日までここにいて、そのあと松山に行くんだ」


「松山か、坊ちゃんで有名な温泉の町ですよね。いいなあ、私も行ってみたい。小野寺さんって学生さんだから夏休みだけバイトで回っているんですか?」


「露店の仕事って祭りの季節が忙しいだろ。だから僕みたいな学生を雇ってくれるのは夏祭りの季節や大晦日と正月位だよ。割のいいバイトだからいつでもあればいいんだけどね。でも大学があるからそうもいかないけど」


「じゃあ、松山の仕事が終われば大阪に戻るんですね」


 肩までの黒髪が魅力的だなと店に入ったときから思っていた。

 彫りの深い細面の顔つきに黒髪の彼女は、テレビで人気の沖縄出身の歌手によく似ていて、ツンとしたところがなく好感が持てた。江美と交わした最初の会話だった。


 その夜、すっかり酔っ払ってしまい、そんな私にカウンターの向こうから身を乗り出して、耳元で囁くように彼女は言った。


「ねえ、明日予定がなければお昼一緒に食べない?せっかく松江に来たのだから名所を少し案内してもいいし」


 甘いコロンの香りが微かに流れてきた。

 彼女のうしろの洋酒棚が私のこころのように揺れていた。


 艶のある唇が動いていたが、何を言っているのかまったく聞こえなくなり、その唇に引き寄せられるように「分かった」と私は返事した。


 何が分かったのかが分からないまま、私は「分かった」と言っていた。


「じゃあ、駅前のシオンという喫茶店で十二時半ね」と最後に耳に入った。


 でもその言葉が誰のものなのか、揺れ続ける洋酒棚や耳に届く客たちの話し声に思考がかき消され、心地良い酔いの中で、私はこの夜の記憶を失ったのだった。

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