第9話
「おじさん、トイレに行きたいの」
耳元で囁くような有里紗の声に目が覚めた。時計を見ると、午前二時を過ぎたところであった。
「いいよ、行こう」
運転手を起こさずに、閉まっているバスの扉をゆっくりと手元の引いてみると、意外にも簡単に開いた。
外は別世界にも思えるくらいシンと静まり返り、駅前の道路には車一台の往来もなく、犬や猫、野ネズミさえも見当たらなかった。もちろんフクロウなんて鳴いているはずもない。
この広い駅舎の敷地内で、数か所に設けられている常夜灯だけが微かにこの世の存在を僕たち照らしていた。
「やっぱりひとりじゃ怖いわ。おじさんがいてよかった」
「おじさんだって、こんな駅の端っこにあるトイレにはひとりで行けないよ」
「フフッ」
有里紗は私の右腕を恥ずかしそうに持った。その所作が極めて自然だったので、数秒間気づかずに歩いたくらいだった。
「先に入って、ここで待ってるから。大丈夫だよね」
「うん」
誰もいないと言ったって女子トイレの中に入って待つわけにもいくまいと思い、外で待った。
しかしこの数日、世の中の動きから取り残されたと言うより、世の中の動きとは違ったところで映像は動いていた。
それは時刻表のないバス停にたどり着いてからは別の時の流れのようで、そこで二日半ほど待った挙句、突然現れたあのオンボロバスから始まった奇妙な世界に思うのであった。
「いったいどうしたっていうんだろ?」
私は言葉に出して呟いた。そのとき有里紗が女子トイレから出てきて、「なあに?」と訊いた。
「何だか、あのバスって不思議だなって思ってたんだ。まったくわけが分からないよ」
「そう?私は知ってるよ、ときどき来るっておじいちゃんが言ってたから」
「えっ?」
「明日になれば分かるわ。お母さんのお墓にもたどり着けるから」
「ともかく、ちょっとだけ待ってて」
男子トイレに入った。有里紗がトイレの向こうから「早く出てきて、怖いから」と言うのが聞こえた。
私は思わず苦笑いしながら、この夢は明日の朝目覚めてみると、そこはあの時刻表のないバス停のベンチの上だったりするんじゃないだろうかと本気で思ったりもした。
翌朝、初夏にもかかわらず、少し冷気が肌寒く感じて目が覚めた。窓が締まらない部分もあるバスの車内は随分と冷えていたようだ。
あの希望浜という時刻表のないバス停ではなく、オンボロバスの車内にいたことにホッとし、このバスが夢の中で走っていたのではないことに、今度は逆にこの現実がすんなりと理解できなかった。
七時頃に運転手が起きだしてエンジンをかけた。
「洗面に行かれる方はどうぞ、といってもおふたりとお婆ちゃんだけだったな。お婆ちゃん、顔洗うね?」
「はぁ、もうええっちゃ」と、老婆は顔の前で小さな手を振りながら言った。
私と有里紗は再びトイレに行き、顔を洗い軽く歯を磨いた。四日ぶりの歯磨きは、新たな世界が広がったような感覚になった。
駅には町のあちこちから現れた人々で少しずつ動き出し、到着した列車はからスーツ姿のサラリーマンや化粧をしたばかりの女性たち、そして高校生たちが駅から飛び出して、それぞれの目的地に急いでいた。
人々が交わす会話が朝の鳥たちのさえずりのようでもあり、ミステリアスなバスの外は普段の日常が動きはじめていたことに、私はホッとするのであった。
バスは再び出発した。午前のうちに出雲でおばあちゃんが降りる。そのあとは有里紗ふたりだけになるのか、誰も乗っては来ないのか、バスは乗客の行きたいところへ行くことになっていると運転手は言っていたが、安来に着いたら真意を確認しよう。ところでこのバスはどこのバス会社なのだろう。
「ねえ、このバスはどこのバス会社なの?山陰バスとか山口バスとか、普通は名前があるだろ?」
「そんなの無いのよ。呼んだ人を乗せるバスなんだって」
有里紗の言葉に、私はもう何も考えまいと思った。
バスは駅前の道路を少し西へ戻ってからグルッと道なりに大きく曲がり、国道九号線のバイパスに乗った。
バイパスの向こうには、夜には気付かなかった江津市役所の奇妙な形をした建物が見えた。
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