小奇美ラと小さな食堂の癒し日常 ― 転生して手に入れた安らぎの生活

@whis

小さな食堂、街に根付くまで

第1話 死して、初めて生を感じる

夏の夜、小さな虫たちが人工の白い光へと群がり、その眩しさが乾いた目を刺した。

無意識のうちにエナジードリンクを開ける。

「プシュッ」という音と共に、タウリンの味が舌を痺れさせ、わずかに意識が持ち直す。


横にはコンビニ袋。中の弁当はすっかり冷め、脂は白く固まっていた。

{……やっと終わった。この地獄の日々。ボーナスが出たら、有給でも取って……}


パックを破り、無理やり口へ押し込む。

三日間寝ていない身体はとっくに限界だ。

心臓がやけに速く打つ。興奮なのか、それともただの過労か。

{……休みを取ったら、絶対に旅行に行こう。目覚ましもかけずに眠れるような場所へ。}


さらに一口、ドリンクを流し込む。飲まなければ、次の瞬間には意識が落ちるだろう。

(……ああ、あったかい飯が食べたいな。)


――その願いを最後に、俺の意識は闇に溶けていった。



 ◇     ◇     ◇



目を開けると、俺は長椅子に座っていた。

遠くには、青と灰が重なる山並み。頂には白い雪が静かに積もっている。


手前には、緑の草原と、鏡のように空を映す湖。

真昼のはずなのに、虫の声がはっきりと聞こえた。


透き通った空気が胸に流れ込み、冷たさに小さく身を震わせる。あまりに澄んでいて、現実か夢か分からなくなる。


(いい夢だ……このまま続けばいいのに。)


その時、膝の上に温もりが落ちた。

視線を下ろすと、粉と白が混じる毛並みの小さな獣が丸まって眠っていた。胸が浅く上下し、穏やかな息が聞こえる。


背中の毛は陽を受けて柔らかく光り、サメの尾びれがぱたぱたと揺れて服の裾を叩く。

耳がぴくりと動き、小さく鼻を鳴らした。まるで楽しい夢でも見ているように。


その一瞬、俺は悟った。

この感覚だけは――本物だ。


(……ああ、俺は本当に死んだんだな。けれど今になって、ようやく生きている気がする。)



 ◇     ◇     ◇



俺は少しずつ、自分の新しい身分を受け入れ始めていた。

名前はセレン。


父は帝国の騎士で、母は神官だった。――だが二人とも戦で命を落とし、残されたのは俺ひとり。


背後にある小さな洋館は、両親が遺した唯一の財産だ。

住まいであり、そして店でもある。


父はよく言っていた。退役したら、旅で覚えた料理を全部作って、自分の食堂を開くんだって。

……けれど、その日が来ることはなかった。


今この家に残っているのは、叶わなかった夢と、思い出の匂いだけ。


記憶の中で、俺と同じ顔をした少年が、自分の運命を俺に託した。

「もう疲れた……パパもママも待ってる。これからは、君に頼むよ」


俺たちは記憶の中で手を振り合い、別れを告げた。


膝の上で眠り続ける小さな獣を長椅子にそっと移し、俺は立ち上がって家の中へ入る。


一階は食堂で、厨房は別室にある造りだった。

ざっと見回せば、小さな二人掛けのテーブルが五つほど。


灯りは数個のランプだけで、スイッチを入れると柔らかな光が部屋を照らした。

(やっぱり電気は便利だな)


光に浮かび上がった埃が舞い、鼻腔には古い木の香りと、台所に残る香辛料の匂いが入り込む。


かつては――父が戦友たちを連れて、よくここで食事をした。

彼らは肉料理が大好きだったが、火加減が下手で、外は焦げ、中は半生。

決して美味しくはなかったけれど、笑い声と酒の音で満ちたその時間は、不思議と温かかった。


(……でも、今はもう俺ひとりだけだ。)


ため息をついたその時、入口の扉が勢いよく開かれた。


そこに立っていたのは一人の少女。

片手で扉の枠を押さえ、荒い息を吐きながら肩を大きく上下させている。

その瞳には、困惑と焦り、そして少しの怒りが宿っていた。



 ◇     ◇     ◇



「まったく……変なことするんじゃないかと思ったよ」

少女はそう言って、俺の手を掴み、上下からじっと確かめてきた。


――その時、ようやく気づく。

俺がセレンの代わりにここで生きているのは、きっと彼が自分を壊すような真似をしたからだ。

けれど、それを知っているのは俺だけ。


「ほら、元気そのものだろ?」

俺は笑って腕を軽く叩き、無事を示す。


だが少女は眉をひそめたまま、俺のまわりを二度ほどぐるぐる回って、ようやく安心したように息をついた。

(……ちょっと調べすぎじゃないか?)


「町の子どもたちは口が悪いけど、気にするな。叔父さんたちがいなくなっても、あんたは一人じゃない」


そう言って、少女は俺をぎゅっと抱きしめた。

その温もりに、胸の奥が少しだけ軽くなる。


こんなふうに、母さん以外の人に抱きしめられるのは……きっと何年ぶりだろう。

一瞬どうしていいか分からず、腕をどこに置けばいいのかまで考えてしまった。


その時、粉と白の毛並みをした小さな獣が、よろよろと部屋に入ってきた。

首をかしげてこちらを見上げ、サファイアのような瞳に疑問を浮かべる。――いつもの“寝床”を探しているのだろう。


案の定、俺を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。

小さな足が木の床を踏むたび、「ぺた、ぺた」と軽い音が響く。


そして後ろ脚で体を支え、前足を俺に向けて伸ばしてきた。

まるでこう言っているかのように――

「ぼくも、抱っこして。」


「そ、そろそろ……ご飯にしない?」

俺は半歩下がり、言い訳のように口にした。


(抱きしめられるのは……まあ、いい。でも、まずは練習させてくれ!)


そう言うと、ほとんど逃げるみたいに台所へ飛び込む。

さっきの抱擁のせいで、体はまだぎこちなかった。


炉の火の匂いと香辛料の香りが混ざり合って鼻をくすぐり、思わず大きく息を吐く。

「昼飯は……うん、任せてくれ。ただし、期待はするなよ」


包丁を握った瞬間、胸の奥に小さな高鳴りが広がる。

――ここから、俺とあの獣の食堂が始まる。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇


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