第11話 破れない殻
宰斗の教育実習は順調に進み、今日でちょうど折り返しを迎える。
何度目かの数学の授業は、もはや現役の教師のような貫禄があり、担任の馬場は教室の隅で退屈そうにあくびをしていた。
「……はい、それではこれで終わります。来週は小テストもありますので、皆さん復習を忘れないように」
授業が終わり宰斗が手元の資料を片付けていると、一人の大人しそうな女子生徒が慌てて駆け寄る。
「あ、あの……さっきの、質問いいですか?」
「佐伯さん。えっと、今日はどこを説明しましょうか」
「……最後のところが、少しわからなくて」
佐伯は赤くなった顔を教科書で隠し、上目使いで宰斗を見上げる。
目が隠れるような長い前髪に、そばかすのある頬。彼女はいつも宰斗の授業を熱心に聞き、授業後にはこうして質問に来ることがあった。
宰斗はそんな彼女ににっこりと微笑みかけ、教科書をめくりながら質問に答えるのだった。
◇
職員室に戻る途中、廊下を並んで歩きながら馬場は感心したように宰斗に話しかける。
「しっかし来栖くんは凄いねぇ。もうベテランの教師みたいだよ。授業も的確でわかりやすいし、生徒にも丁寧で……私が教えることなんて何も無いくらい」
馬場の言葉に宰斗は遠慮がちに肩を竦める。
「そんな、買いかぶりですよ」
「いやいや、本当だって。ところでさ、来栖くんはどうして教育学部に? その感じだと、やっぱり教師を目指してるの?」
宰斗は一瞬冷めた目で俯き、すぐに穏やかな笑顔で顔を上げる。
「……そうですね。兄が教育関係の仕事に就いていて、いつの間にか僕も影響されて……今後は教育の現場で働きたいと思っています」
「そうなんだ。聡明な息子さんが二人もいて、親御さんはさぞ嬉しいだろうねぇ」
「いえ、そんなことありませんよ」
張り付いたような笑顔を浮かべ、宰斗は謙遜の言葉を口にする。
しかし、彼の思惑は別にあった。
(鳳雅の野郎……もっと別の道に行けば楽だったのに……でもま、あいつの土俵で俺が上に立たねぇと意味無いからな)
「……だりぃ」
宰斗は遠くを見つめながらボソッと呟く。
「ん? 何か言った?」
「いえ……あ、そうだ馬場先生、後で少し教えてもらいたいところがあるんですが」
「珍しいね。いいよ、何でも聞いて!」
頼りにされたことが嬉しかったのか、馬場は得意気に鼻を鳴らした。
◇
その日の夕方。
アパートの窓からぼんやりと外を眺めていた暁那は、不意に鳴るスマホの着信音に驚き背筋を伸ばす。
慌ててベッドの枕元にあったスマホを手に取り、珍しい相手からの連絡にピタリと動きを止めた。
「……母さん?」
海星が来るようになってから連絡が無かった母からの電話に、暁那はしばらく考えてから通話画面を押す。
「……もしもし」
「もしもし、暁那? どう? 最近の調子は」
母の声は穏やかで、暁那を気遣うように話しかける。
「うん、大丈夫……母さんこそ、どうしたの? 電話なんて珍しいね」
話しながら暁那はベッドに腰を降ろす。
「ふふ、そうかしら? これからお部屋の片付けに行こうかなって思って」
「いつもそんな連絡しないのに、変な母さん」
暁那は顎に手を当て小さく笑った。
「なんだか調子が良さそう。じゃあ、これから行くわね」
そう言って通話を切ろうとする母を、暁那は慌てて呼び止める。
「あ、母さんっ……今日は、その」
「え? どうかした?」
電話口で不思議そうに尋ねる母に、暁那は声もなくパクパクと口を動かす。
そして落ち着かせるように深く息を吐いた。
「……暁那?」
「きょ、今日は、ちょっと駄目なんだ」
「どうして?」
「そ、その……カイ、海星が来てくれるから!」
ぎゅっと目を瞑って言い切ると、なぜか母の返事は止まり、暁那はごくりと息を飲んだ。
そしてしばらくすると、微かな笑い声が聞こえてきた。
「そう……そっか」
噛み締めるように呟く母の声に暁那は首を傾げる。
「母さん?」
「ううん、何でもない。海星くんが来てくれるなら、私はお邪魔かしらね」
「そ、そういう訳じゃないけど……」
少しおどけるような母の言葉に、暁那の目はキョロキョロと泳いだ。
「ごめん、ちょっと意地悪言っちゃったね……それじゃあまた、連絡するから」
慌てる様子が目に浮かんだのか、母はクスクスと楽しげに笑っていた。
「うん。ありがと、母さん」
電話を切った後、母は目を閉じて幸せそうな顔で微笑む。
窓から差し込む西陽が、棚の上の写真立てを明るく照らす。それは中学生の暁那と、小学生の海星の写真。
困ったように笑う暁那に、嬉しそうに彼に抱きつく海星。
何気ない幸せが切り取られた写真を、母は愛おしそうに指でなぞった。
「……ありがとう、海星くん」
そう呟いた母の瞳は、陽の光に照らされて微かに潤んでいた。
◇
「何だか久しぶりだね、アキの部屋に来るの」
マグカップの珈琲を飲み、海星は落ち着いた声で話す。
「ふふ、3日前に来てくれたのに?」
暁那は暖まるように両手でコップを持ち、小さく微笑む。
「……だって、毎日だって来たいもん」
ムスっと膨れるような顔で、海星は背中を丸めて机に顎を乗せる。
暁那はその姿を嬉しそうに見つめ、僅かに頬を染めていた。
「はぁー、土日はバイトだし……そろそろ勉強もしないとなぁ」
「そういえば、そろそろテストの時期だっけ」
「そうだよー。はぁ、気が重い……来週は数学の小テストもあるしさ。まあそれは来栖先生のやつだから成績には響かないかもだけど」
ぶつぶつと愚痴っていた海星だが、話し終わった瞬間にハッと顔を上げた。
以前電話で何気なしに口にした宰斗の名前。その後様子がおかしくなった暁那の事を思い出し、海星は恐る恐る彼の表情を窺う。
「……あ、アキ?」
暁那は膝を抱えるようにして、不安げな顔で俯いていた。
前のように呼吸が荒くなったりはしていないが、暗い表情の暁那に海星は慌てて声をかける。
「ごめん! 俺、何も考えないで……」
言葉に詰まっていると、暁那の小さな声が聞こえてくる。
「……カイは悪くない。僕の、せいだから」
海星は自分の手をぎゅっと握り、意を決したように暁那を見つめる。
そしてゴクッと息を飲み、ずっと聞きたかった言葉を口にした。
「アキ……来栖先生と、何かあったの?」
問いかけられた暁那の表情は変わらない。
しかし無言のままで、部屋の中は暗く重い空気に包まれていた。
暁那の言葉を待つ間、エアコンの機械音だけが響き渡る。
「……どう……てるの?」
「え?」
小さく震えるような声は聞き取れず、海星は身を屈めて聞き返す。
「カイは……その、来栖先生のこと、どう思ってるの?」
「どうって……まぁ、気さくで賢い人って感じかな」
突然の問いかけに困惑しつつ、海星は思っているままに伝えた。
すると暁那はすがるような瞳で海星を見る。
「お願い……その先生に、近づきすぎないで」
「それって、どうゆう」
「今は、言えない……けど、その教育実習が終わったら、必ず話すから……お願い、カイ」
海星は事情がわからないまま、戸惑いの表情を浮かべる。それでも、不安に揺れる暁那の瞳を見て、安心させるように優しく微笑んだ。
「……わかったよ」
「ありがと、カイ」
暁那は少しホッとしたように息を吐く。
そして、震えを隠すように握っていた手をほどくと、不器用な笑顔を彼に向けた。
◇
海星が帰った後、暁那は海星が座っていたクッションを枕に、体を丸め床に寝転んでいた。
「……カイの匂いがする」
何気なく呟いた言葉に、暁那は自分で顔を赤らめる。
海星が帰ると、暁那はいつもどうしようもない寂しさに襲われた。
かすかに残った彼の匂いは、胸の奥に心地いいほどの痛みを感じさせる。
(こんな気持ち、高校の時以来か……)
海星の事を恋愛対象として見ていることは、自分でも認めざるを得ない。
しかし、その感情を自覚すると、意識せずとも宰斗と付き合っていた頃の感情も甦った。
(初めは嬉しかった……男相手なんて、拒絶されるかもしれないって思ったのに、受け入れてもらえたから……でも、本当は違ってた。ただ、面白がられてただけ)
「……ずっと、気付かないようにしてた」
(本当は、少し気付いてた。連絡が減っていって、たまに会うのは夜の短い時間だけ……でもあの時は、会ってくれる事が嬉しかった)
「どうして……こんなことにいつまでも囚われてるんだろう」
自問自答するように、暁那は一人呟く。
裏切られた事をいつまでも引きずっている自分を馬鹿だと思う。引きこもりになった事も、今となってはどれが原因なのかもわからない。
いくら大丈夫だと言い聞かせても、体は外の世界を拒絶する。それはとても自分でコントロール出来るようなものではなかった。
――『きっとまた、昔みたいに笑えるようになる……だって、もうこんなに変われたじゃん』
暗い闇に飲み込まれそうな時、ふと海星の言葉が頭に浮かんだ。
「……本当に、そんな未来があるのかな」
そう呟き、暁那は上を向いて腕で顔を隠すように覆った。
(今、宰斗の事を話したら、きっとカイに余計な思いを植え付けてしまう……今は、宰斗の実習が終わるまで、何も起きなければそれでいい……話をして、カイがどう思うかはわからない。けど、いつもそばにいてくれるカイに、これ以上隠し事はしたくない)
海星を信じる気持ちと、また離れていってしまうかもしれない不安。
相反する思いが混じり、暁那は震える唇をぎゅっと結んだ。
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