第6話 雨があがれば


「雨だ……」


 いつも海星が来る時間帯。

 部屋の中にもその激しい雨音は聞こえ、暁那は微かにカーテンを開けて外を覗く。

 汚れた窓ガラスからでもわかるくらいに視界は白く霞み、地面は薄く水を張ったように水位が上がっていた。


「……今日も来るって言ってたけど、流石にこれじゃ」


 (こんな雨の中、わざわざ来るはずがない。だけど……)


 雨音がし始めたのはほんの数分前。

 自転車で向かっているなら、雨具は着けていないかもしれない。

 暁那は不安げな表情で、当てもなく部屋を歩き回る。


「……今ならきっと、人通りも少ない。大丈夫……ただ傘と、タオルを持って歩くだけだろ……大丈夫だ」


 頭を抱えてしゃがみこみ、暁那はぶつぶつと念仏のように呟いた。

 そして震えるように深呼吸をした後、クローゼットから新しいタオルを引っ張り出す。


 玄関には、母が置いていった傘が1本だけ立っている。

 引きこもりなのに傘なんて必要ないと、時々滑稽に眺めるだけだったが、今はその母の好意がありがたかった。


 暁那はタオルを入れた袋と傘を握りしめ、慎重にドアを開ける。

 開いた瞬間に広がる外の空気。雨で濡れた土の匂いと、ひんやりと冷たく湿った風。忘れるくらい久しい感覚に、暁那は一瞬目が眩んだ。


 (カイ……ちゃんとカッパ着てるかな)


 それでも、海星の事を思うと行かなければならない使命感にかられる。

 暁那はその場で数回深呼吸をした後、俯き加減で歩き出す。

 

 アパートの階段を降りてビニール傘をさすと、バタバタと騒がしい雨が打ち付けた。

 暁那の想像通り、薄暗くなった道路には人通りはほぼ無く、車が水しぶきを立てながら走っているだけ。

 しかし、徐行する運転手の目線でさえ、時々突き刺さるような気になる。

 暁那は時折チラチラと辺りをうかがいながら海星を探し通りを歩く。


「高校からなら、ここを通るはずだけど」

 

 海星は今、暁那と同じ高校に通っていた。

 初めは制服が変わっていて気付かなかった。しかし、海星から照れ臭そうに打ち明けられ、その時ようやく鞄の校章が同じことに気がついた。


 高校の偏差値は市内でも上位の部類に入る。ゲームばかりしていた海星が入学しているなんて想像もしていなかった。

 おそらくかなりの努力をしたのだろう。

 しかし、暁那はそのことを素直に喜べずにいた。

 

 (……まさか、海星が自分と同じ高校に通っているなんて思わなかった。たまに勉強を教えた時はすぐに飽きて遊びだしてたのに……きっと凄く努力したはずなのに、僕は……自分の嫌なことばかり思い出して)


「うっ……おぇ」 

 無意識に高校時代の事を思い出し、暁那はピタリと足を止めた。

 沸き上がる吐き気は、しける波のように何度も押し寄せてくる。

 暁那は口もとを押さえ、その場にしゃがみこんでしまった。


 (……うっ……何も出ない、良かった)


 朝に固形の栄養食品を食べたきりなので、今さら戻すようなものは無かった。

 暁那は呼吸を整えながら、粗相をしなくて良かったとホッとする。そしてちょうどその時、前から歩いてきた女性が暁那に声をかけた。


「……あ、あのー、大丈夫ですか?」

「はっ……あ、いや」


 暁那は反射的に顔を上げるも突然の出来事に言葉は出ず、強烈な吐き気は再び襲ってくる。


「うぅっ!」

 口もとを押さえたまま、びちゃびちゃと胃液を吐き出す暁那を見て、その女性は一歩後ずさった。

「うわっ……あー、早く帰った方がいいですよ。はは、それじゃあ」


 親切心で声をかけたであろう女性は、嘔吐する姿に逃げるように去っていった。見ず知らずの人間のこと。面倒事には巻き込まれたくなかったのかもしれない。

 暁那はバシャバシャと走り去っていく女性を見ることもなく、ただ苦しさに耐えていた。


 (情けない……どうして、ただ道を歩くことすら出来ないんだ……こんな、誰でも出来る簡単なことが)

 

 しゃがんだまま、傘のビニール越しに前を向くと、ユラユラと視界が歪む。それが雨なのか自分の涙なのかも、暁那にはわからなかった。

 その時、眩い自転車のライトが暁那の体を照らす。


 暁那は俯き顔をそらす。すると、聞き覚えのある声が彼を呼んだ。


「アキ!? な、何で、どうしたの!?」


 カシャンと端に自転車を止め、カッパを着込んだ海星は暁那のもとに駆け寄った。


「……か、海星」


 傘を取り、しゃがみこんで暁那の顔を見た海星は驚き目を見開く。

 白い肌はいつも以上に血色が悪く、口まわりは唾液で濡れ、呼吸はひどく荒い。

 海星は混乱しながらも、ポケットに入っていたハンカチで暁那の口を拭う。


「……吐いちゃった? 大丈夫、ゆっくり息して」

 

 優しい声に、暁那は言葉無く何度も頷いた。

 背中を擦りながら優しく微笑む彼を見ると、自分のやりきれない思いが溢れ出してしまいそうになる。暁那は幼い子供が泣くように、ぐしゃぐしゃに顔を歪ませた。


「……きゅ、急に、雨が降ってきたから……海星が……濡れて、風邪引いたら、嫌だから」

「アキ……うん、ありがとう」

「けど……僕は、こんな、普通のことも出来なくて……迷惑、ばかりかけて」

 

 しゃくりあげるように嗚咽を洩らす暁那を、海星は宥めるように背中を擦り続けた。

「迷惑じゃない……迎えに来てくれて、凄く嬉しい」

 

 暁那はいつも感情が消えたような顔をしていた。それが今は、涙と鼻水で顔を歪ませている。海星はその姿に、彼の計り知れない心の傷の深さを感じた。

 嬉しいという言葉とは裏腹に、海星は眉を潜め、切なく唇を噛み締めていた。


  

 ◇

 

「はぁー、雨凄かったね。アキ、タオルありがとね」

 タオルで体を拭きながら明るく話す海星に、暁那は軽く頷き顔をそらす。


 暁那が泣き止むまで待った後、海星は自転車を押しながらアパートに戻った。

 歩き出す頃には雨は少し弱まっていたが、それまでの豪雨で髪や服はしっとりと濡れてしまっていた。


「ほら、アキも拭いて」

 

 立ち尽くしている暁那の髪からは、ポタポタと雫が落ちる。

 海星は少し背伸びをして、それをタオルでそっと拭き取った。


「……どうして、そんなに優しいの? 僕の事なんて、放っておけばいいのに」

 頭のタオルを握りしめ、暁那は海星の目を見ることなく話始める。

 さっきまで笑っていた海星は、その問いかけに複雑な表情を浮かべた。


「別にいいじゃん、何だって」

「……海星?」

「俺は……好きでアキといるんだ。俺が勝手にしてる事なんだから、アキは気にしなくていいの!」

「うわっ」

 海星はぶっきらぼうに言うと、暁那の頭をタオルでグシャグシャに擦った。

「はは、変な髪型になった」

 暁那は照れ臭そうに顔を伏せ、ボサボサの髪を直す。


「ありがとう……海星」

 暁那がボソッと呟くと、海星は嬉しそうに歯を見せて笑った。

 そして彼の手を包み込むように握ると、静かな声で話す。

 

「アキ……ひとつだけ、お願い。もう、一人で無理しないでよ」

「えっ」

「アキが一人で苦しむ姿、俺は見たくない……だから、もっと俺のこと頼って」

 凛とした声と共に、握る手に力が込められる。

 弟のように思っていた海星の表情は真剣で、もう子供には見えない。暁那の体は火照ったように熱くなり、その力強い瞳から目をそらせなかった。


「……カイ」

 昔のように呼ばれ、海星の瞳は揺れる。

 暁那の赤く潤んだ目と紅潮する頬を見て、海星も同じように頬を赤く染まる。

 そして照れ隠しか、海星は不意にその手を離し、「あ!」と声を上げ、鞄の中を探り出した。

 

「そ、そうだ! 今日さ、鍋しようと思って、家から鍋の素くすねてきたんだよ! この前の野菜、まだ余ってるよね?」

「あ、うん」

 海星の勢いに押されて、暁那は戸惑いつつも返事をする。

「よかった。すぐ用意するね」


 その後、海星はいつものようにキッチンに立ち、急に忙しなく鍋の用意をし始めた。

 しばらくその後ろ姿を見つめていた暁那だが、きゅっと唇を結ぶと、そわそわとしながら後ろから声をかける。


「ぼ、僕も、手伝っていい?」

「えっ!? う、うん……一緒にやろ!」

 海星は驚いた声をあげるが、すぐに弾けるような笑顔を返す。

 嬉しそうな顔の海星を見ていると、暁那はくすぐったく、恥ずかしい思いがした。


 (こんな簡単な言葉なのに……どうして今まで言えなかったんだろう)


「もっと早く、言えば良かった」

「え? なんか言った?」

「ううん。何でもない」


 キョトンとする海星に、暁那は控えめな笑顔で微笑んだ。


 ◇


 その日の夜、暁那は珍しく良く眠れた。

 ほぼ毎日見る悪夢もなく、カーテンの隙間からもれる朝日で目覚めることが出来た。


 何がきっかけになったかはわからないが、心当たりはひとつしかない。

 海星の存在が、自分の中で大きくなっていること。彼がそばにいてくれる。その事が暁那にとって何より心強かった。


 〈ポコン〉

 寝起きでぼんやりとしていると、珍しくスマホの通知音がした。


『おはよう! 学校行ってくる』


 海星からのチャットを見て、暁那はふわりと微笑む。


 (そうだ、昨日連絡先交換したんだっけ)


 昨日の帰り際、海星は無理矢理暁那の連絡先を登録していた。

 約束はしたものの、外に出る時は自分に教えて欲しいと、暁那の事をまだ心配しているようだった。


  

「な、なんて返せば」

 ベッドの上で悩んでいると、海星から立て続けにスタンプが届く。

「わ、どうしよ」

 慌てた暁那は、とりあえず目についた「おはよう」のスタンプを送る。

 すぐに既読にはなったが、なぜか返事は止まってしまう。


「あ、あれ?」 


 一人不安になっていると、ポコンとスタンプが届く。

 可愛らしい少年のスタンプは、昨日の彼のように頬が赤く染まっていた。


「なんか、カイに似てる」


 暁那はスマホを胸に置いたまま、少し紅潮した顔で再び目蓋を閉じた。  


 

 ◇


 週明け。

 11月の初旬に、一人の教育実習生が母校に戻る。

 黒い細身のスーツの上から薄茶色のコートを羽織り、長身の男は堂々と校門を潜っていく。

 


 その日、海星の教室は朝から騒がしく、女子生徒の黄色い声が響いていた。


「静かにしろー。えー、彼は教育実習生で、今日から二週間このクラスを担当してもらいまーす」

 やる気の無さそうな担任に自己紹介を促され、男は一歩前に出て緊張する欠片もなく挨拶をする。


「はじめまして、来栖宰斗です。本来春に実習予定だったのですが、情けないことに体調を崩してしまい、皆さんの大事な時期に実習にお邪魔してしまって申し訳ありません。授業は数学を担当しますが、数学以外の事でも気軽に質問してください。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」


 宰斗は挨拶を終えると深々と頭を下げる。

 その後、前を向くとニッコリと微笑み、教室はまた悲鳴のような声があがった。


「来栖せんせーって、何歳なんですかー」

「彼女はいるんですか?」


 さばききれない程の女子生徒の質問が飛び交い、自己紹介は担任が無理矢理に終わらせた。

 一方の海星はそんな騒ぎにまるで興味が無さそうに、窓際の席で頬杖を付く。 


「……胡散臭い笑顔」


 宰斗の笑顔を見つめ、海星は一人退屈そうに呟いた。


  

 

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