血と暴力。 -1
生徒指導室の扉には南京錠が掛けられている。
指導担当が室内にいる場合のみ、扉が解放されていた。
とある不良先輩が様々な悪事を敢行した結果らしい。叱責を受けた腹いせか、理不尽に立ち向かう勇気だったのか。当時を知らない僕達は何も語れない。実はアレはね、と後輩達へ噂話を流していくだけだ。今のところ、ひばりしか仲良し後輩候補がいないけどね。
南京錠が掛かっていれば潟桐がいない証明になる。ついでに、他の先生も。
反省文をポストに放り込む前に、ちょっとした安全確認を挟めるのは安心だった。
「もし南京錠がなかったら帰るぞ。潟桐がいるだろうからな」
「うん。投函した二秒後に出てきて説教タイムが始まるもんね」
「……それ、本当に人としてどうなの?」
そういう性格の人、としか言えないな。
僕の予想では入口の裏に張り付いていると見た。
職寝室がある階まで降りて、渡り廊下を歩いている時だった。
「っと、待って」
スカートのポケットに突っ込んでいたスマホが震えて、僕に着信を知らせてくれる。そもそもサイズが小さい上に、大抵の子はスカートを折っているせいでポケットの役割を果たせないことも多いが、僕は好んで使用していた。シャツの胸ポケットじゃ僕の分厚い旧型スマホは持ち運べないんだよな。生徒会の鍵も、カバンの外ポケットが定位置になったくらいだし。
スマホにパスワードを入れると同時に、南蛇井が覗き込んでくる。
「誰?」
「ひばりだった。今日の放課後、キッチンカー見に行くんでしょ?」
「えっ、アイツも来んのかよ」
「ダメなの? みんなで遊ぶチャンスだと思ったんだけど……」
「……波久礼が言うんなら、断れないけどさー」
ふん、と南蛇井が鼻を鳴らす。北村も無言のまま首を縦に振った。
通話ボタンを押すと、幼馴染の元気な声が聞こえてくる。中学校の敷地内では携帯使用禁止だったから、少なくとも学校の外にはいるらしい。卒業から半年も経っていないのに、中学での授業は何時までだったかなと記憶も曖昧だ。
電話口からは、やや賑やかな音が聞こえていた。
『やっほー、マナちゃん』
「メール見てくれたんだ?」
『うん。私もデート行くからね!』
ひばりが宣言すると同時に、黄色い声が飛び交った。ひばりが友人達を連れているなら、帰宅途中かもしれない。とても賑やかで、受験生らしい落ち着きはまだないようだ。
マナちゃん、と幼馴染は猫撫で声で甘えてくる。
続く言葉も、僕には容易に予想できた。
『集合場所分かんないから、迎えに来て?』
「ヤだよ。駅の南側だって。ひばりも知ってるはずじゃん」
『分かんないよー。ひーちゃんが迷子になってもいいんですかぁ?』
「……僕とのデートを、友達に自慢したいだけでしょ」
『あ、バレた?』
ひばりが肩を竦めたのが電話越しにも分かる。
元カノ達の中では、彼女が一番の古強者だ。何かと理由を付けて僕に構ってくれる代わりに僕を引っ張りまわしてくる。過ごした時間に比例して親密度が上がるなら、ひばりほど僕と仲の良い相手もいないだろう。この甘え癖がなければ――と思う反面、こうして甘えてくれるから僕も甘やかせるのだと思ったりもする。
人付き合いとは、かくも難しいものである。
僕が迎えに行くと、ひばりの友人達にも絡まれて時間が掛かるだろう。何度か問答を繰り返した後、これは甘えているだけだなと判断してジョーカーを切ることにした。
ひばりを大人しくするには、彼女の助けを借りるのが一番だ。
「……南蛇井に頼んどくね」
『えー。パイセンじゃなくてマナちゃんがいいのに!』
「だーめ。僕には僕の用事があるの」
『うぅ、パイセンの手を借りるくらいなら一人で行くもん……』
「おい、なんか失礼な話が聞こえた気がするんだが?」
通話音量を上げすぎたのか、南蛇井が僕に詰め寄ってきた。
「気のせいだよ。それじゃひばり、また後でね」
話がこじれる前に通話を終えて携帯をポケットに仕舞い込む。南蛇井はいつも拗ねたような顔をしているから、詰められてもさほど怖くないし、なんだか愛嬌さえ感じてしまう。
メンチを切っていた南蛇井が、やや困惑したような表情に変わった。
「なんでへらへらしてんだよ、波久礼」
「そこが僕の魅力だろ? ……あでっ。どうして叩くんだよ」
「うるせぇやい」
南蛇井も相応に甘えたがりだ。
ひばりと違って甘えるのが下手なところが、特に可愛い。
電話も終えてようやく職員室へ、と思ったところで今度は北村がスマホを取り出した。画面を素早く操作した北村は纏っている雰囲気を和らげる。目を細めた北村は聖母マリア像のように美しい。彼女のスマホには、ひばりからの個別メッセージが送られてきていた。
「……私にお迎えの依頼が来た。……西条君、一人は心細いらしい」
「あたしのこと嫌いすぎだろ、あいつ」
「……南蛇井君、生意気な子に厳しいもんね」
「今の北村の発言も相当だからな? 覚えとけよ?」
ぷくっと頬を膨らませた南蛇井だが、北村を小突くことはない。おかしい、僕が軽口を叩いたときはグーでツッコミを入れて来るのに。やはり美少女には甘いらしい、と訝しんでいたら睨まれた。まったく、困った女の子である。
今度こそ、用事を済ませよう。
渡り廊下を抜けて、特別棟の二階に出た。顔見知りの先輩とすれ違ったので会釈をする。怪訝な顔をした友人ふたりに今の人は……、と説明を加えた。高校生になってから、随分と人付き合いが増えたものだ。
職員室の前にまで来れば、生徒指導室の様子がよく分かる。
誰かが潟桐に捕まって、怒られていた。
「うげっ」
最初に反応を漏らしたのは南蛇井だ。
よほど潟桐が嫌いなんだろう。会いたくない相手と鉢合わせてしまったせいで、身体が反射的に後退っている。続いて北村も足を止めた。彼女にしては珍しく、傍から分かるほどに眉をひそめている。この時間は野球部の指導に行っているはずだし、想定外の事態だったようだ。
対して僕は、知らぬ間に前へ歩み出ていた。
なぜ? と考えながら潟桐に近寄っていく。
「だからお前は――」
潟桐の罵倒が聞こえて、反射的に耳を塞いだ。それでも足は止まらない。
苦手意識に勝る謎の衝動が、僕を突き動かしている。潟桐が飛ばす唾が届くほどに近付いてようやく、彼の前に立っていたのがクラスメイトの七里だと気付いた。なるほど、僕が嫌なものから逃げ出さなかった理由はここにあったのか。
僕の知る七里は、友達と楽しそうに笑っている表情が印象的な女子だ。あまり人付き合いが得意じゃない僕にも明るく接してくれる、優しいクラスメイトだった。元気よく跳ねるポニーテールも可愛くて、男子とも仲良く話せる元気な人だ。野球部のマネージャーとしての仕事もこまめにこなしている。
彼女は、僕みたいな不良とは違う。違っていてほしかった。
七里やいかが泣いていた。クラスメイトが泣いていた。
それが七里じゃなかったとしても、僕は眼前の不幸を見逃せなかっただろう。
「先生、何をしているんですか」
「あ゙? ……おう、波久礼か。見て分からんのか?」
分かってたら聞かないでしょ、と言い掛けたのを飲み込んだ。
ぐずぐずと鼻をすする七里の隣に立って、なぜかアルコール臭い潟桐を見上げる。
睨んでいると誤解を受けないために極力、眉間に皺が寄らないよう努力した。心臓が早鐘を打ち、舌には痺れるような苦みが広がっている。心から身体へと毒の根が伸びている証拠だ。
苦手意識は嫌悪感へと変化して、この場から立ち去れと訴えかけていた。
だけど。
嫌なものから簡単に逃げられるなら、僕達は苦労してないんだよな。
「指導中だ。こいつ、ピアスを付けていたもんでな」
潟桐が手元を覗かせると、七里が着けていたアクセサリーが握られていた。
その形状に違和感を覚えて、彼女の耳を一瞥した。穴が開いている様子はない。潟桐はピアスとイヤリングの区別がついていないようだ。どちらも校則違反だから、区別する気もないのだろうか。
僕の心に燃えるのは、正義感じゃない。
義憤とも違う。
煮え滾る悪意だけが、殴る相手を見つけて喜んでいた。
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