第3話
「ただいま集計中です。もうしばらくの間お待ちくださいませ」
放送席から透き通った声が響く。秋空は澄み渡っており、微かに西の空に薄いスジ雲が空の高さを際立たせていた。
校舎前に掲げられていたスコアボードはすでに撤収されている。お昼過ぎの時点での得点では『黒龍』が一歩リードしていたはずだ。私たちの『青鹿』は三位だったが、二位とは僅差、一位とも三十点差だったので、まだまだ逆転のチャンスはある。
「ワンチャン優勝あると思うんよな」
隣に座る江崎と大沢が語り合っている。江崎は先ほど行なわれたリレー競技でアンカーを務めた。一位で受け取ったバトンを受け取り、そのままトップを維持したままゴールテープを切ったのでいまだ鼻息荒い。リレー競技は数ある種目の中でも花形競技であり、他の種目より若干点数も高い。『黒龍』が最下位だったこともあり、どのグループにも優勝の芽はあった。
体育座りのまま、運動場の砂をつかむ。乾ききった砂は僅かに砂埃を立てる。周囲は浮き足立っているが、私の心は冷めていた。どこのグループが一位かなんてどうでもよかった。
「余裕であるやろ。ウチらにはあのパネルがありますけん」
太々しくあぐらをかく大沢が『青鹿』の櫓方面を顎で示した。つられるように顔を上げて、またすぐに運動場の砂に視線を戻す。舌打ちしそうになるのをグッと我慢する。
櫓に掲げられたパネル絵は西日に照らされて全体が橙色に染まっていた。キャンパスの中央には大きな角を持つ鹿が微笑んで立っており、その周囲にそれぞれのグループを表す動物たちが鹿と一緒に笑顔で踊っていた。
元々は青鹿が静かに屹立しており、周囲の動物たちはこちらに背を向けて青鹿を見つめている構図だった。
「ここまで手伝ってもらったんやけん、少し絵も変えよう」と言ったのは誰だったのか。田島だったか、今山さんだったか。今となっては覚えていない。誰の発言であろうと、その言葉にその場にいた数十名に異論を唱えるものはいなかった。皆で作ったのだから、皆の団結を示せるような絵にしよう。その意見に口を挟める者はいなかった。
「元のラフを描いた彩の気持ちはどうなる」と、心のうちで叫んだ。しかし、口はぎゅっと結んだままで黙り込んでいた。どうせそんなことを言ったって彩は困ったような顔をして、皆の意見に声を揃えるだけ。怒涛のスケジュールに疲れ果てていた私にも、大多数の意見に立ち向かうだけの気力がなかった。
彩は絵の変更に同意して、それどころか代案を裏紙にさっと書いてみせた。「うまい、さすが」と持て囃されて笑う彩の顔に、頭の中でバッテンをつけた。周りを取り囲む奴らもバッテン。私の顔にもバッテン。全員ここからいなくなれ。
集計の結果が終わったらしい。アナウンスが入り、どよめきが一瞬大きくなり、すぐに静まり返った。
壇上に立つ運営係より点数の内訳が発表されていく。競技部門、劇部門、応援部門……。部門ごとに加点がなされていき、それぞれのグループから歓声が起きる。適当な拍手を打ちながら、願った。
「続いて、パネル部門の発表です」
どうか。
「今回1位に選ばれたパネル絵については、特別なエピソードを話す必要があります」
どうか1位を取らないでください。
「イベントにはアクシデントはつきものですが、このパネル絵もその例に漏れませんでした」
運営係がつらつらと原稿を読み上げる。運営係の顔にも、バッテン。
「とあるグループの夕方のパネル絵は、一度はできあがった状態でした。しかし、予期せぬ悪天候にあい、風雨に打たれて使えなくなってしまいました。残された日数は3日間。グループ内で解決ができないと踏んだパネル係は、ほかグループの力を借りることにしました」
まるで武勇伝を語るかのように、先日からの騒動が会場全体に伝えられる。記憶の中の一連の流れが、幼稚園児が描いた絵のように輪郭が滲んで歪んでいく。鼻で笑いたくなるのを堪える。よくもまあここまで素晴らしきことのように文章化できたものだ。運営係は、一致団結して描き切ったその情熱と、一丸となった足跡を絵に残した点を評価した、と告げる。
「パネル部門1位は、『青鹿』に決定致しました。30点が加算されます」
わあっと歓声が上がった。爆ぜるように拍手が鳴り響く。運営係がお立ち台の下にいる先生から何かを耳打ちされた。
「『青鹿』パネル長の水島彩さん、いらっしゃいますでしょうか」
拍手がまばらになり、会場の人々の頭が忙しなく動く。ややあて私の座る列の前方から手が上がった。運営係に促されて、おずおずと立ち上がる。
「絵の完成にはパネル長である水島彩さんの尽力なくしてありえませんでした。皆様、今一度彩さんに大きな拍手をお願いします」
再び拍手喝采が巻き起こった。彩は控えめにお辞儀をして返礼する。ここからでは背中しか見えない。どうせ困ったように笑っているのだろう。私は白線がかき消されたグラウンドに視線を落とした。
「それでは、最終順位を発表します」
会場全体が三度静まりかえる。大沢と江崎はすでにガッツポーズを構えている。ここまで点数が発表されていれば、自ずとどこのグループが一位かは皆薄々わかっているはずだ。
「第四位……『紅鯨』。320点」
グラウンドの右端から残念そうな声が漏れる。ただ皆途中経過でわかりきっていたのか、そこまで悲観的な響きはない。
「第三位……『黒龍』。390点」
悲痛な声が上がった。左隣の男子ががくりと肩を落とす。
「第二位」
江崎と大沢が拳を突き上げる準備をしている。
「『銀虎』。420点」
落胆と歓喜の声が同時に上がった。青色の鉢巻が宙を舞った。
「第1位、『青鹿』、440点。今年の優勝は、『青鹿』です。おめでとうございます」
すぐ前に座る大久保さんと柏さんが抱き合って喜んでいる。大沢は大袈裟に立ち上がって万歳三唱し、周囲の笑いを誘っていた。
「『青鹿』総長は壇上までお願いします」
「ちょい行ってくるわ」と立ち上がりかける大沢を「いやいやお前ちゃうお前ちゃう」と江崎が止める。周囲の忍び笑いを確認したのちに「ああちゃうかったか」と満足気に座る。
そしてこう言い放った。
「ま、忖度優勝ってことで」
「いやいや、お前それはガチでまずいやつや」と江崎が嘲笑しながら口の前で人差し指を立てる。「ああ、ちゃうかったか」と大沢が体を揺らす。
ペンキがあったら頭からぶっかけてやるのに。そんな出来もしない空想を、心の中で嘯いた。
*
優勝したパネル絵は、翌日の撮影のために保管しておくこと。
一年生のときは、体育祭後のパネル絵の行方など知るよしもなかった。パネル係で絵を掲げて撮影するために、運動場脇の倉庫に保管されるとのことだった。
「なんにせよ無事に終わってよかったわ」
担任の島田先生が頭の鉢巻を外す。
「薄墨もよう頑張ったな。水島と薄墨がおらんかったら優勝できとらんからなぁ」
心の底から喜んでくれているのだろう。メタボリックシンドロームに認定されたという丸い腹と汗っかきな体質のせいで、一部女子生徒からは嫌われているが、素直な人格で人を褒めるときにまっすぐ言葉を投げてくれるので、私はむしろ好意的に見ていた。今はその直線の言葉が忌々しいが。
「その小道具も倉庫に入れといてな。鍵は職員室に返してくれたらええけん」
小さく頷くと島田先生は汗を拭きながら去っていった。私はハケをペンキの中に入れて倉庫に向かう。
すでに日は夕焼けを通り越して夜に近づいており、校舎に設置された照明が生徒たちを照らしていた。
体育祭が終わって片付けもほぼ完了した段階となると、生徒も思い思いに過ごしていた。運動場では流行りの洋楽が大音量で流され、その場のノリで成立するフォークダンスを踊っていた。「ほどほどにしとけよ」と注意に来た先生も、生徒に誘われて嬉し気に輪に加わっていた。そのような喧騒が必要ないカップルは、運動場脇でひそひそと語り合っている。
かちゃかちゃと、手に持ったハケがペンキ缶にぶつかる音がする。ひょっとするともうペンキで絵を描くことは生涯ないかもしれないな。そう思うと少し寂しい。
数刻前まで煮えたぎらない感情が胸中で渦巻いていたが、片付けが終わる頃には少し気分が晴れてきていた。終わりかたこそどうあれ、私たちは描き切ったのだ。「あんなんヤラセやんけ」というほかクラスからの声も聞こえてきたが、島田先生含め多くの人は褒めてくれた。
そもそも私こそ最高の独りよがりではないか。彩の気持ちは、彩の作品は、などと宣っているが、彩自身が不満を漏らしたことなど一度もない。それどころか昼の部の絵を描くときにラフからの変更を認めていた。彩にとっては、パネル絵の作成は自分の絵ではなく、パネル係全員の絵だったのだ。そんな当たり前のことを、勝手に心情を思い測って、勝手に一喜一憂していたのは私だけ。よくよく考えれば、グループのパネル絵を我が物にしようとするのは傲慢が過ぎる。
やはり、彩の絵が好きなのだ。認めたくない部分こそあれど、彩の描く世界が好きなのだ。だから、その世界に異なる色が混じってほしくなかったのだろう。
今度、彩に絵を教わろうかな。二人で出かける約束もしたし、私も絵を描きたくなってきた。
運動場の隅にある倉庫は、四方を灰色のコンクリートで囲われており、屋根上に枝を伸ばす桜が、枯れた葉を周囲に散らしていた。鉄格子の付けられた窓の下にペンキ缶がふたつ置かれていた。
元は青色だったのだろう扉は、塗料が劣化してほとんど白に近い色になっていた。手に持った塗料も青色だ。塗ってやろうか。これが青色なら気持ちがいいだろうな。
空想の中の青い扉に顔を綻ばせて、ドアノブを回して室内を除く。
薄灯照らす狭い倉庫の中心に、彩が佇んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます