れん

 遊泳監視員のアルバイトをしているいつきには、秘密があった。


 夏真っ盛りの浜辺で、樹は今日も監視塔から人々のバカンスを見守る。大体がひとりきりのお勤め中、いつも樹のそばに黙って寄り添ってくれるのは、仕事場にはとてもそぐわないメロンソーダのフロートだ。玩具のクリスタルみたいな翠色の液面を、縁が反り返ってふくふくとしたチョコ風味のアイスクリームがほとんど独占している。組み合わせとしては王道を外れているものの、子どもの頃通っていた水泳教室の帰りによく食べたチョコミントのカップアイスに雰囲気が似ているから、樹はこのフロートが好きだった。

 ただ、樹がお客向けの余暇余暇しいドリンクをこうしていつも仕事場に持ち込んでいることには、他の理由がある。


 浜で砂遊びをしている親子を見つめながら、樹はアイスを一欠片、削って啜り込む。

 母親の麦わら帽子が風に煽られ、飛んでいってしまった。こんなことはよくある。序の口だ。

 カメラを片手に同じ場所をぐるぐると歩き回っている男が目につく。樹は溜息を吐きながら、今度はメロンソーダをひとくち、吸う。

 女の子たちの笑い声がした。ファインダーを覗いたそいつはシャッターを切れなかったらしく、カメラをまるごと振り回しながら立ち止まった。

 監視塔の下で走り回っている子どもがうるさい。さっきから他のお客にぶつかってばかりで、周りに迷惑をかけているというのに親たちは注意をしない。あんなのはかわいくもなんともない、消えた方がましだ。そう考えながら、樹はまたひとくち、端に向かって段々に霜が降りたチョコレートのアイスを齧る。

 監視塔の鉄柱の足元に走り込んだ子どもは、それきりそこから出てこなくなった。親はお喋りに夢中で、気づいていない。


 このソーダフロートは、樹が願ったものをこの世から『消してしまう』。


 ひとくち、またひとくち。

 頭の中でそれらが消えるイメージを浮かべながら。

 音も、風も、人も、星さえも、消えてくれたらいいな、と樹が考えたなら、そのままに失せてくれる。同じドリンクは下の海の家でふつうに売られているけれど、樹はそれらしい噂を耳にしたことがない。なのに日を変えても、おかわりをしても、樹の手元ではその不思議は必ず起こった。

 ソーダフロートを飲むなり想像したとおりにあらゆる物事が消えていくのに気づいた樹は、しかしそうすることを止めなかった。

 世直しのつもりはない。単純に、こんなこともあっていいじゃないかと思った。世界は馬鹿で、退屈すぎる。この海のアルバイトだって、ちょっと泳げるからという理由で知り合いの知り合いに頼まれて仕方なく引き受けただけで、特別楽しいものでもない。たまに若いカップルの水着を全部剥いでやるのは慰謝料みたいなものだ。社会貢献ですらある。

 理屈はわからなくても、そもそもそんなものが初めからないとしても、この僕がそれはいいことだと直感したならたぶんそれは本来正義だろうと、樹はそう考えていた。


 浜のゴミを片付けたソーダフロートの残りは、グラスの内側をラクガキのように走りながら色褪せて、もう僅かになって沈んでいた。

 今日もこの時がやってきた。最後のひとくちに懸ける願い事を、樹は毎回同じ内容に決めていた。

 ストローとスプーンを抜き、頭の中にその光景を思い浮かべながら上を向いて、溶けたチョコ色の筋がまだらに浮く緑色の液体をグラスの縁から直接、一気に喉に流し込む。

 あたりを見回す。左腕を曲げて掌を見つめる。何も変わらない。目の前の晴れた空と澄んだ海もそのままだ。足をつけて立つ場所が瞬きの一瞬で変わったということはない。

「つまんないの」

 気に入らないものはすべてゴミ。尊敬に値する他者なんていない。なんでもすぐくだらないと感じて、反射的に全部消えればいいのにと考える。そんなだから誰にも認められない。大切にされない。価値がない。

 樹がこのソーダフロートに出会う前から長いこと、一番に消したいと考えていたそれは、今日もいなくならずに世界に残って、喉まで出かかった溜息を噛み殺しながら空っぽのグラスの縁をちろりと舐めた。

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