再生できない通信で、君と話した48時間

はちねろ

──最後の通話を、あの人と使い切るために。 そして、応答ボタンを押した。

 通信ログは、あと48時間。

 声は送れても、録音も再生もできない。

 俺は、その最後の通話を、あの人に費やすと決めていた。


 軌道の片隅で、警告音が鳴っている。

 呼吸はまだ確保できる。燃料も残っている。だが──


「……ログ、再生不可か」


 ヘルメット越しの独り言が、狭いコクピットに溶けた。


 この艦に積まれた通信装置は、最大48時間。

 その時間だけ、声を“送る”ことが許される。

 再生も録音も、解析すら不可能。


 ──ただ、会話を続けるだけ。


 俺は指先で操作パネルを撫で、繰り返し点滅する信号源の座標を睨む。

 計測不能の距離。救出不能の軌道。けれど──


「いるんだよな」


 通信ログ:00:00:01

 起動。


『……っ、こちら……誰……? 応答……願いま……す……!』


 音は歪み、ざらつき、時折途切れる。

 それでも、あの頃の響きが確かにあった。


 たった一言で、胸がきしむ。


 ──忘れるはずがない。


『お願い……誰か、誰か聞こえてたら……』


「……俺だ」


 通信の向こうで、一瞬の沈黙。

 不意に、ノイズが途切れる。

 耳の奥に絡んでいた緊張が、わずかに解けていく気がした。

 だが、その刹那が永遠のように長く感じられる。

 ──もし、違っていたら。

 彼女じゃなかったら。

 言葉を口にした直後、胸の奥を冷たいものが静かに這った。


 やがて、小さな息を呑む音が届いた。


『……え?』

「俺だよ。覚えてるか?」


『……うそ。まさか……』


 静けさに包まれていたが、次の言葉には涙のにじみが混ざった。


『……本当に、来てくれたんだ』


「今、お前の声が聞こえてる」


 ああ、この声だ。

 何年経っても、決して忘れることなどできない。

 通信演習で、無線越しに耳にしたあの頃の声よりも、

 少し擦れて、弱々しくなって──それが今の彼女だ。

 気づけば、もう何年も前の口ぶりに戻っている。


『信じられない。ほんとに、ほんとに』


『──でも、本当は私の方が迎えに行きたかったのに』

「君が?」

『……そっちのほうが、カッコよかったでしょ?』


 彼女の声は揺れる。

 震えと安堵、そして罪悪感めいた色が滲んでいた。


 言いかけた言葉が途切れるたび、通信ログのカウントが進む。


 00:03:42


 00:04:01


「酸素は?」

『もって……あと一日ちょっとかな』

「通信は、48時間ある」

『──そっちの燃料、削ってまで来てくれたの?』


「……会いたかったからだよ」


 沈黙。

 そして、小さく笑うような声が、ノイズに混じって聞こえた。


『昔と変わらないね、そういうとこ』

「お前もな」


 彼女の声は少しずつ落ち着きを取り戻す。

 気づけば、もう何年も前の口ぶりだった。


『……あの時さ、放課後。グラウンドの端でさ』


 確かに、あの日。

 夕暮れの校庭で、俺たちは同じ場所に立っている気がした。

 けれど、その距離を越える言葉は、どこにも見当たらない。

 誰かに聞かれるのが怖くて、傷つくのも怖くて。

 それだけの理由で、俺はその場に釘付けになった。


 あの時、勇気を出せていたなら──

 ずっと、そんなことを考え続けてきた。

 けれど結局、また何もできないまま、今ここにいる。


「ああ、野球部の声がやたらうるさかった日な」

『うん。私、君がこっちを見てたの、知ってたよ』


 画面には何も映らない。ただ、音だけが流れている。

 それでも──彼女の存在は確かにここにあった。


『あの時、話しかけてくれたらって、少し思ったんだ』

「話しかけたい気持ちはあったさ。でも……勇気が出せなくて」

『うん、わかる。私も、臆してる自分がいた』

『だから、今こうして声を交わせるのが嬉しい……ほんとに救われるよ』


 ログカウント:00:11:27。

 まだ、ほんの序章に過ぎない。


 だが、燃料の針は確実に下がっていく。

 時間は等しく削られていく。


 次の通話は、二時間後。

 彼女は酸素を節約するために一定時間ごとにスリープに入る。

 こちらもシステムを冷却し、最低限のエネルギーで耐えるしかなかった。


 ──そして、再び通信を開いたとき。

 彼女は夢の話を切り出した。


『ねぇ、君。さっき、夢を見たの』

「どんな夢だ?」

『川があってね。私たち、制服のまま川の中に立ってた』

『冷たかったけど、怖くはなくて。君が笑って、私も笑って……それだけの夢』

「……いい夢だな」


 通信は静まり返っている。

 言葉がなくても、繋がっているだけで十分に思えた。


 彼女が黙れば、俺も口を閉ざす。

 それでも、相手がそこにいると分かるだけで、胸の奥に温かさが広がっていく。


 意味のある会話を交わさなくても、息遣いが空間を満たしている。

 ただ、それで救われる気がした。

 孤独と空虚を切り取るには、言葉よりも“気配”のほうがずっと確かに思えた。


 通信ログ:21:07:55。

 昼と夜の区別すら、もうつかない。


 残り時間は残酷な数字となって目に突き刺さる。

 あと27時間。だが、彼女の酸素は──そこまでもたない。


 ──知っている。本人も、俺も。


『……ねえ』

「ああ」

『君のいる方角に、星が瞬いてる』

「そっちは曇ってないのか」

『うん、きらきらしてる。地球とはまるで違う。少し……寂しく感じる』

「ここからも見える」

『じゃあ、同じ星を仰いでるのかもしれない』

「きっと、同じ星だろう」


 通話の途中、彼女の声が何度か掠れる。

 酸素が薄いのか、それとも疲労が濃くなっているのか。

 彼女は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。


 声の端が擦れるたび、肺に届く酸素が少しずつ削られていくのが伝わる。

 呼吸はノイズに混じり、不規則な波を描いていく。

 それでも生きようとする意志だけは、通信回線を通して確かに響いてきた。

 ──その声を受け止めながら、未来を知る者として、俺には黙って耳を傾けることしか残されていない。


『私ね、訓練、すごく頑張ってきたんだ』

「知ってる。あの頃から、ずっとそういう人間だった」

『そっか……見てくれてたんだね』

「目は離さなかったよ。ずっと追ってた」


 短い沈黙。

 彼女は静かに息を吐き、声色を少し落として続ける。


『あの時も思ってた。君、目だけは逸らさなかった』

「逃げようとはしたさ。でも、心までは覆えない」

『……そうだったんだ』


『じゃあ、どうして……話しかけてくれなかったの』

「怖かった。あまりに強く見えて、俺は言葉を飲んだ」


『バカだな』


 彼女は笑う。

 優しく、それでいて今にも泣き出しそうな笑みで。


『私ね、君とずっと話していたかった』

「……それを今さら言うのか」

『今だからこそ、口にできるんだよ』


『──ほんとはさ、名前を呼んでほしかった』

「……呼んでるつもりでいた。心の中では、いつも」


 ログ:28:34:10。

 カウントは進み、やがて半分を超える。


 通信ログ:38:02:29。

 通話のたびに、彼女の声は花びらを剥がすように薄れていく。


 ──これが、最後の会話になるのかもしれない。

 警告音は何度も鳴り、声もかすかに震えていた。


 それでも通信を開くと、

 彼女は一言、はっきりと言い切った。


『──迎えに、来てくれたんだね』


 その響きに、俺は返す言葉をなくす。

 なぜなら、まさにその通りだったから。

 救い出す術もなく、抱いて帰ることもできない。

 それでも──“ここにいる”という選択だけは残されていた。


『嬉しいよ。君がいてくれて』

「俺もだ」


 ログ:42:16:58。

 残された時間は、あとわずか。


 通信ログ:47:59:07。


『……ありがとう』

「何に、だ?」


 問い返す声は軽く装う。だが胸の奥では、確かに何かが崩れていく。


『……“君が君でいてくれたこと”』


 少し間を置き、彼女はぽつりと呟く。


『君がもし君じゃなかったら──私は、もう壊れていたと思う』


 それは強がりを捨てた、本当の声。

 飾りもなく、だからこそ胸に深く刺さる。


 俺はしばらく言葉を探した。

 けれど、適切なものはどうしても見つからない。


『ふふ、変なこと言ってるよね、私……』


「いや。変じゃない。……嬉しいよ。ありがとう」


 そう答えた瞬間、彼女の息が少し揺れた。


『君さ……高校の頃、私が話しかけるたびに、目を逸らしてたでしょ』


「ああ……うん。だって、お前の目が綺麗すぎてさ。落ち着かなかった」


『えっ……』


 短い沈黙。


『……いまさら、なにそれ』

「本当のことだ。好きだったんだと思う。ずっと」


 通信のノイズが、一瞬だけ静まる。

 まるで宇宙そのものが、耳を澄ませているかのように。


『……あのね、君』


 声は少し甘くなり、続いた。


『私も、同じ気持ちだった』

『いつも視線を感じてた。教室の隅でも、廊下の向こうでも』

『君が見てるの、ちゃんと気づいてたよ』


 そして彼女は言う。


『でも、話しかけてくれなかったから……私は勝手に傷ついて、勝手に諦めた』

『“きっと興味ないんだろうな”って』


「バカだな」

『……ほんとだよね』


 笑い声が、かすかに通信越しに広がる。

 その直後、ほんの少しだけ震えが混じった。


『──でもね、あの時の私を、今の君に会わせてあげたかった』

『“好きだった人が、ちゃんと気づいてくれてたんだ”って伝えたいよ』


 胸が締めつけられる。

 ようやく届いた言葉。

 けれど同時に──遅すぎる現実が押し寄せる。


『もし、こんな終わり際じゃなかったら……』

『きっと、もっといろんな話ができたんだろうね』


「……いや。まだ話せるさ」

「あと少ししか残ってなくても」


『そっか……そうだね』


 その返事だけで、彼女の声はわずかに明るさを取り戻した。


『──ねえ、もしまた会えるとしたら』

『そのときは、ちゃんと……名前で呼んでくれる?』


 不意の言葉に、息が詰まる。

 いままで、ずっと“お前”と呼んでいた。

 名前を口にすれば想いが溢れそうで、できなかった。


「……呼んでるつもりだった。心の中では、いつも」

『声に出してくれなきゃ、届かないよ』


 少し拗ねたようで、甘えるような声。


『名前を呼ばれたら……きっと泣いちゃうけど』

「いいじゃないか。どうせ俺だって泣く」


 その一言に、彼女は笑う。

 音声通信なのに、不思議と笑顔が浮かぶ気がした。


 この数十時間で、やっとたどり着いた──

 そう思えた。

 もしここで終わっても、彼女の心には何かが残るだろう。


『ねえ、ありがとう。ちゃんと届いたよ、全部』

「……そっちこそ、感謝してる」

『なんで?』

「その声が……こんなに俺を支えてくれるなんて、知らなかったから」


『君の声、好きだった。ずっと。だから──もし名前で呼ばれたら、泣いちゃうかも』

「……じゃあ、次に呼ぶときは覚悟しておけ」

『ふふ、楽しみにしてる』


『全部。……話してくれて、聞いてくれて、来てくれて』

「当然だろ」

『──当たり前じゃないよ』


 その声は、最後の滴のように落ちる。

 ノイズは徐々に宇宙の無音へと溶けていった。


 終わりを知る言葉は、どうしてこんなにも優しく響くのだろう。

 きっと彼女も分かっていた。

 それでも──声は柔らかい。

 まるで誰かを抱きしめるように、慎重に紡がれていく。


『ねえ…… 』

「ああ」

『もしまた声が届くなら……今度こそ、聞いてね』


「──聞くさ。絶対に」


 沈黙が訪れる。


 通信ログ:48:00:00。

 終端。

 全システム停止。通信燃料残量:0%。


 ……何も、聞こえない。

 けれど、その“何も”がやけに重かった。


 それでも俺は、その場を動けなかった。


「……聞こえるか。

 もう一度だけでいい。

 君の声を。」


 気づけば、ヘルメットのバイザーに小さな手が触れている。

 本当に温もりを持っていたのか、錯覚だったのかは、もはや問題ではない。


「──遅いよ」


 その声は確かに耳に届く。


 けれど、そこに彼女はいない。


 瞬間、ようやく重力という感覚を思い出した。


 俺は頷く。それだけで生き延びられると思う。


 きっと彼女も、どこかで同じ星を見ている。


 もう声は届かない。でも──確かに、ここに残っている。


 二人で窓の外を仰ぐ。

 蒼く冷たい星の海が、どこまでも広がっていた。


 漆黒の虚空に、幾千もの光点が瞬いている。

 星と呼ぶには小さく、惑星と呼ぶには遠い。

 けれど一つひとつが、俺たちの言葉以上に宇宙の深さを物語る。


 小さなデバイスが、掌に残っている。

 通信の全ログが、自動保存された端末だ。

 誰も再生できない。音声ファイルですら存在しない。

 ただ、彼女と交わした会話の“痕跡”が、そこに静かに眠っている。

 それで救われる気がした。


 再生は叶わない。けれど──この中には確かに彼女の声が息づいている。


 俺はそれを、そっと握りしめる。


 小さく、息を吸う。


「もし君がまた声をくれるなら、今度こそ──聞き逃さない」


 その声は、もうどこにも届かないはずだった。

 それでも、俺は耳を澄ませていた。


 宇宙の底で、誰かがその続きを拾ってくれると信じて。

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