金木犀の香る夜
火之元 ノヒト
金木犀の香る夜
僕の心には、もうずっと前から、薄い膜のような希死念慮が張り付いていた。激しい絶望ではない。ただ、朝目が覚めると「ああ、また一日が始まるのか」と、うんざりする。そんな、ぬるま湯のような諦めが、毎日僕を浸していた。
ある雨の日、窓ガラスを伝う雫をぼんやりと眺めているうちに、奇妙な言葉が頭に浮かんだ。「死に心地」という言葉だ。
どうせこの生を終わらせるのなら、最高の「死に心地」を味わいたい。まるで極上のワインを選ぶソムリエのように、僕は自分にふさわしい最期をプロデュースしようと思い立った。
手始めに、一番好きな音楽をかけた。何度も聴いたはずの美しい旋律は、けれど、乾いた心には少しも響かなかった。次に、一番美しいと評判の夜景を見に行った。宝石箱をひっくり返したような光の洪水も、まるで分厚いガラスの向こう側にある景色のように、僕には関係のないものに見えた。
何かが違う。僕の五感は、とっくに死んでいたのだ。これでは、最高の「死に心地」など得られるはずもなかった。
途方に暮れて、近所の公園のベンチに座った。日は暮れかかり、涼しい風が吹いている。隣に、いつの間にか腰掛けていた老婆が、しわくちゃの笑顔で僕に話しかけてきた。
「いい匂いがするねぇ。金木犀だよ」
言われてみれば、甘く切ない香りが風に乗って漂ってくる。僕が何も言わずにいると、老婆は続けた。
「毎年、この匂いがすると、ああ、またこの季節を生きられたんだって、思うんだよ」
そう言って、老婆は自販機で買ったらしい温かい缶コーヒーを僕にくれた。「冷えるから」とだけ言い残して、ゆっくりと去っていく。
その夜、アパートの部屋の窓を開けると、昼間よりもずっと濃密な金木犀の香りが流れ込んできた。僕はその香りを、深く、深く吸い込んだ。
温かい缶コーヒーの熱が、まだ指先に残っている気がした。老婆の言葉が、耳の奥で静かに響いた。
最高の「死に心地」なんて、どこにもなかった。僕が追い求めていたのは、そんな幻だったのかもしれない。
心の膜に張り付いていた希死念慮が、消えてなくなったわけではない。それはまだ、僕の一部としてそこに居座っている。
けれど、金木犀の香るこの夜だけは。
この香りが続く、あと数日の間だけは。
生きてみてもいいのかもしれない。
僕はもう一度、夜の空気を吸い込んだ。それは、完璧とはほど遠い、少し湿った、でも確かな「生き心地」の味がした。
金木犀の香る夜 火之元 ノヒト @tata369
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