ルナをさがせ!
春日七草
ルナをさがせ!
ピンポーン。
チャイムの音に、俺は我に返った。
まずい。木嶋だ。
木嶋とは今日、要らなくなったゲームを譲ってもらう約束をしていた。時計を見ると午後三時。いつの間に。
「はーい、ちょっと待って」
俺はクローゼットの扉を閉めると、バタバタと玄関に走った。
「よっす。外はけっこう寒いぜ」
ドアを開けると、マフラーを巻いた木嶋が玄関に立っていた。
「ああ、木嶋、その……」
俺は一瞬の間、逡巡し、
「頼む、助けてくれ。ルナを探してくれ!」
ほとんど叫ぶように頼みこんだ。木嶋は細い目を少し丸くした。
「ルナがいなくなったのに気づいたのはいつ?」
木嶋は玄関を見回す。
「二時間くらい前かな……あ、家の中はもうあらかた探したんだ、それで」俺は額の汗をぬぐう。「ホントにうっかりなんだけど、換気のために風呂場の窓を開けっぱなしだったのに気づいて。そこから――」
「外に出た?」
木嶋は目視で風呂場の位置を確認する様子を見せ、すぐにきびすを返して玄関の扉を開く。
「善は急げだ、行こう」
俺も後に続く。申し訳ない気持ちを抱えながら。
ルナは木嶋に譲ってもらった子猫なのだ。
去年の秋頃。俺と美優は、木嶋の家にいた。木嶋の家の猫が子猫を産んだ。元々美優が猫を飼いたがっている話をしたところ、一匹譲ってもらえることになったのだ。
「かわいいー!アオくん、この子にしようよ」
美優が抱き上げたのは、黒い子猫だった。足の先まで真っ黒な毛並みがツヤツヤ光っていた。
「おお、いいじゃん」
俺も一も二もなく賛成した。元々二人で、かっこいいのがいいだの、黒かグレーがいいだの、メスがいいだのと話していたのだ。
「生まれてちょうど半年だから、甘噛みするかも。あ、ワクチンは打ったから」
木嶋が色々と説明してくれた。好きなエサ、お気に入りのクッション、風呂の入れ方。
俺は猫を飼うのは初めてだが、美優は実家で三匹飼っていた経験者だ。熱心に木嶋の話を聞き、メモをとっている。
帰りに二人でエサを買って帰った。
「名前はルナにしようよ」
家で猫じゃらしのおもちゃで遊んでやりながら、美優はそう言った。
「美優ちゃんは?」
ペットボトルの水を飲み干して木嶋が聞く。
「出張。名古屋。明日までだって」
俺はペットボトルのお茶をふうふう冷ましながら答える。そしてあることに気づき、頭を抱える。
「ああー美優の部屋探してない……美優に連絡してからにしようか迷ってたんだよな。お前がくる直前LINE送ったんだけど」
「まじか、お前今探してきなよ、俺はあっちを見てくるから。聞き込みもしてくる」
木嶋は親指を立てて北の方、小学校が見える方向を示す。
「そうするわ、悪いな。あ、俺終わったら外に出るかもだから、戻ってきて鍵閉まってたら勝手に上がってて。冷蔵庫の麦茶とか飲んでいいから」
俺は木嶋に予備の家の鍵を渡す。手を合わせて頭を下げ、家の――アパートの一室に戻った。
美優とは大学四年の時に知り合った。俺たちのサークルと美優のサークルが合同で、文化祭で出し物をすることになったのだ。
「アオくんっていうんだ。あたし白井美優。よろしくね!」
美優は美人で気さくで話しやすくて、俺はすぐ好きになった。
明るくチャラっとした雰囲気に反して、根は本当に真面目だった。
「あたし浮気って許せないの」
友人の浮気相談に二人で乗った時も全力で力になってあげていた。相手の浮気の証拠をつかみ、別れ話にまで立ち会ってやっていた。
「ルナにとって居心地のいい家が一番だからね」
ルナが怖がる様子があればおしゃれなカーテンロープもしまいこみ、細長い野菜――キュウリやゴボウを買うのをやめた。ルナに危ないと思えば植木鉢も置かなくなり、電源コードは全てカバーをつけてひとまとめにして壁にケースをかぶせて隠した。
行きたがっていた広告業のそこそこ大きな会社に就職してからは、仕事に明け暮れて多少俺との時間は減ったものの、休みの日は美味しいご飯を作ってくれたり、一緒に出かけたり、家のこともきちんとやってくれる自慢の彼女だ。
だから、美優がもし、ここにいたら――
とんでもなく取り乱し、心配するだろうな。
俺は美優の表情を想像しそうになり、首を振る。
だからこそ、俺が責任を持ってルナを探さなくては。
時計の針が午後四時半を回る頃、木嶋が戻ってきた。
「この辺の近所で聞き込んだけど、黒猫を見かけたって人はいないみたいだ。そっちはどうだ?」
「いない」俺は汗だくのシャツをパタパタと扇ぎながら答える。重労働の後で息が切れている。「どうしよう……」
木嶋はしばらく黙りこんで何か考えている。そして言った。
「美優ちゃんにはLINEした?」
「したした。でも全然既読つかないんだよな……」
俺はスマホをスワイプしてLINE画面を見せた。木嶋はうーんとうなる。
「仕事中なのかな。忙しいの?仕事」
「うん、そうらしい。イベントとか会議が目白押しだって聞いてる」
「広告会社だったっけ、忙しいんだな」
「普段はそうでもないみたいだけどね、この時期は出張が多いみたいでさ」
「美優ちゃん真面目そうだしな」
木嶋はしたり顔でうなずく。就職する前は、美優は、木嶋と俺と同じ大学の経済学部だった。木嶋も交えて三人かそれ以上で飲んだことも何度かある。
なお、俺と木嶋は同じ社会学部で、サークルも同じ。大学一年の時からの長い付き合いだ。
「まあでも美優ちゃんが帰ってくる前にルナが見つかるのが一番だよな」木嶋はそう言って腰を上げた。
俺も立ち上がり、部屋の扉を開ける。
「もう一度家の中を探してみよう。美優ちゃんの部屋以外は俺も入っていいか?」木嶋が聞いた。
「もちろんだ、どんどんあさってくれ」俺はうなずいた。
リビング、トイレ、風呂、洗面。寝室にそのクローゼット。俺の部屋。
あらかた探し終えてしまい、俺は絶望と諦めの混じり合った気分でリビングのソファに座りこんだ。
暖房を切ってある部屋は冷えこんでいる。
「……遠くまで行っちゃったのかなあ」
「それは考えにくいと思うけどな」木嶋は冷静だ。「ルナは慎重な性格だし」
それはたしかにそうだ。ルナは慎重で臆病な猫だ。
「美優を探しに行っちゃったのかも……」
自分で口にして、背中をイヤな汗がつたう。
「ルナは美優ちゃん大好きだもんな」
木嶋にもわかっていたのか。ルナは俺より美優になついていた。美優の手からは二か月ほどでエサを食べるようになったが、俺の膝に自分から乗ってきてくれるようになったのは、つい最近のことだ。
やっぱりネコ飼いの経験の差なのか。それともルナがメスだからなのか。
「じゃあ外に――」
もう一度、と言おうとした時。
ゴトッ。
何かが落ちるような音がして、俺と木嶋はさっと振り向いた。
洗面所の方だ。
……足音をしのばせて、洗面所に入る。
「……洗濯機?」
黒いドラム式洗濯機を見つめて木嶋がつぶやく。
「洗濯機、裏は見たけど……」俺は小声で言う。
「俺ものぞいてはみた、が……」木嶋もささやくような声で言う。
どちらからともなく、洗濯機に手をかける。
「せーのっ」
洗濯機を一緒に持ち上げ、運び出し、洗濯機スペースの前にドンっとおろす。
そして二人同時に、洗濯機の置いてあったスペースをのぞきこむ。
毛を逆立てて縮こまり、こちらを見つめるルナがいた。
「ルナ!」
俺はホッとして手を伸ばす。ルナはさらに身を縮こませる。
「……ま、エサを置いときゃ出てくるだろ」
木嶋も安堵した声で言う。
「でもなんか……怖がってるのか?何かあったのかな」俺はつぶやく。
「あれじゃないか?」木嶋は呆れた目で俺を見る。「お前の部屋に散らばってたヒモ」
「あ……」
以前もきゅうりやゴボウに怯えていた姿を思い出す。
「荷造りでもしてたのか?」
「やー、溜まった雑誌とか整理しようと思って」俺は頭をかく。
「猫はヘビみたいに見えるモノが苦手なやつが多いからな」
木嶋はため息をつき、手元の腕時計を見る。
「あ、今日夜勤?」
「そ、まあまだ時間あるけど……」
「いいよいいよ行きなよ、ありがとねホントに」俺は慌てて木嶋の背中を押す。木嶋は大学卒業後就職した会社がブラック残業御礼で、猫の世話ができないからとすぐに辞め、今はホテルスタッフと医療事務をやりくりしながら八匹の猫を養う生活なのだ。「今度お礼させて。疲れたろ、仕事前に家でひと息ついてきなよ」
「そ?まあ、じゃあ……ルナになんかあったら連絡くれよ。あと美優ちゃんによろしくな」
木嶋はうなずいて、スタスタと帰って行った。
――深夜零時。洗濯機の前に置いたエサにはまだ手がつけられてない。
そっと洗濯機の裏を覗き込む。ルナはすみっこに丸まっている。寝てるのか――と思いきや、キョロっと開いた丸い目がこちらを見つめた。
「……ごめんな」
ささやいて、俺は離れる。しばらくそっとしておいた方がいいだろう。
俺は外に出て、ドアの鍵を閉めた。
木枯らしが吹きつけてくる。マフラーを巻き直し、車に乗りこむ。エンジンをかける。
目指すは海。
夜中の港は誰もおらず静かだ。
この辺は街灯も少なく、暗闇の中、三日月が波をちらちらと照らすばかり。
静かに波の音が響く。
俺は車のトランクを開けて、それを抱えた。
港のへりまで歩いて、あとは、これを投げ落とすだけ――
「アオ」
ふいに暗闇から名前を呼ばれる。
足が止まる。
なんで――
ここにいるはずのない、木嶋の声が。
「変だと思ったんだ」
木嶋の声が続ける。
「ルナを探してたとはいえ、この真冬に、暖房もつけずに、汗びっしょりで」
足音がゆっくり近づいてくる。
俺は動けない。
「ルナはあんなにおびえて、何を見たんだろうな」
のどがかわく。声が出ない。
「美優ちゃんは本当に出張中なのかな」
そうだ、それは、そうなんだ。
ちがうんだ、木嶋。聞いてくれ。
俺は、騙されていたんだ。美優に。
美優はたしかに、明日まで出張だと言っていた。
だから俺は、チャンスだと思って、昨日、ホテルに行ってデリヘルを呼んで。色々と楽しんで。
朝、家に戻ったら――
いたんだ、美優が。俺の部屋に。
スマホのカメラをこちらに向けて、ポッと録画のスイッチを入れる音がした。
『なんで――』
俺は言葉が出なかったよ、今みたいに。
『出張、昨日までだったんだよね』
美優はなんでもないように言った。
『ずっとつけてた。全部撮ったよ』
俺がラブホに入るところ。デリヘル嬢がラブホに入るところ。二人で出てくるところ。
油断しきっていたから、なにも対策とか工作なんてしていない。
言い訳のしようがなかった。
『浮気は許さないって言ったよね』
美優は今までに見たことのないほど冷静で、冷徹な表情をしていた。
『これ、あんたの知り合い、職場、家族、全部に送るから』
『やめろ――』
かすれた声がやっと出て、
『やめろなんて言う資格、お前にないよね?』
美優のこちらを見る視線に耐えきれなくて、俺は。
美優に飛びかかって。
俺はただ、スマホを取り上げなきゃって。
動画を消して、それから話し合おうって。
美優は。
俺に押し倒されて、頭を棚の角に打ち付けて、
美優は、
『――美優?』
俺が我に返った時には、美優はもう息をしてなかった。うつろに開いた目は、どこも見ていなかった。唇がびっくりするほど白くて、肌が土くれみたいな色になっていた。
抱き起こそうと頭を触ったら、頭の後ろが嫌な感じに凹んでいた。そこに血がべっとりついていた。もっとさ、血ってたくさん吹き出してくるもんかと思ってたからさ、まさかそんな怪我してるなんて思わなかったから、本当に驚いたよ。
しばらく現実感がわかなかった。
でも、少しして、隠さなきゃって思った。美優は今日帰ってくるなんて誰にも言ってない。今日こうしてここにいるってことは、会社にも、出張の日にちを誤魔化して伝えてるか休みを取ってるかしてるんだろう。動画もまだどこにも送られてない。美優の指を使ってスマホを開き、動画と写真を全部削除した。必死で手を洗って、血のついた棚や床を何度も拭いて、ホームセンターに走って、長い長いロープを買ってきて、美優をぐるぐる巻きに縛って――
ルナはそれを見ていた。全部見ていた。
かわいそうに、あんなにおびえて。俺のせいだ。
ルナがいないことに気づいたのは、美優を縛り終えた時だ。血のにおいとか色々消すために窓という窓を開けていた。そこから逃げたんだと思った。こんな寒空に子猫一匹。目の前が真っ暗になった。美優を殺してしまった時より、ルナがいなくなったと気づいた時の方がよほどショックだったよ。
そこにお前が来たんだ。
俺はとにかく、美優を隠さなきゃって思いと、ルナを探さなきゃって思いで、頭がいっぱいだった。
だから一も二もなく、助けを求めた。目の前のお前に。
ルナを探してくれと。
「美優ちゃんの部屋を探すって言って、一度俺とお前は分かれたよな。あの時に美優ちゃんを、車に運んだのか?」
木嶋は見てきたかのように言う。
そうだ、その通りだ。俺の部屋から車のトランクまで、汗びっしょりになって美優の体を運んだ。それさえできれば、木嶋を家に上げられる。家の中を思う存分探すことができる。
「俺とお前が家でルナを探してる間も、見つけた時も、ずっと美優ちゃんはお前の車のトランクにいたんだな」
その通りだ。
「ルナが見つかったら、お前は早く俺を帰したそうだった。夜勤まで時間があると言っても、持ってきたゲームも受け取らず、鍵を俺に渡したままなのも忘れて、お前は俺を帰したがっていた」
そうだ、お前、夜勤は?
「夜勤はまあ嘘だったんだけどな」
鍵は?鍵を、予備の家の鍵を渡しっぱなしだった。
ふいにこちらに向かってくる車が――パトカーが見えた。ヘッドライトが木嶋を照らす。
木嶋の腕の中には、ルナがいた。体を丸めて。
ああ、鍵は、俺の家からルナを回収するのに使ったのか。
「ルナは返してもらうよ。こんな飼い主の元には到底、安心して預けられないからな」
それもそうだな――と俺は思った。
パトカーが、一台、二台。
俺は抱えていた美優の死体を、そっと地面に下ろした。
なんだか不思議とホッとしていた。
木嶋の腕の中のルナと目が合う。
ルナ、美優を奪ってしまって、本当にごめんな。
ルナをさがせ! 春日七草 @harutonatsu
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