眼鏡と本屋

@mizu47

第1話 眼鏡と本屋

小さな街の角にある古本屋で働いているこの女性の名は羽鳥橙花(はとりとうか)

ストレートのミディアムボブの髪を揺らしながら本棚を整えている。この店は橙花の祖父が経営している古本屋で時々店を手伝っているのだ。ストレートの髪に反して表情がころころ変わる彼女は、店に来る常連たちの間でもちょっとした名物だ。


しかし、彼女には秘密がある。実は活字が苦手なのだ。けれど絵本だけは別。色とりどりの絵、短い文章、ページをめくるたびに広がる小さな世界がたまらなく好きだった。


ある日、いつものように本棚を整理していた橙花は一人の青年に目を留めた。黒縁のメガネに静かな目元。何度も店に来ては本をじっくり読み、気に入った本を買っていく。


鷹山旺志郎(たかやまおうしろう)──本屋から近場の会社に勤めるその青年は、日々の忙しさの合間にここに立ち寄っては本の世界に浸っていた。彼にとって本は、日常から少しだけ距離を取るための小さな扉。

橙花はその日初めて彼に声をかけた。


「……あの、いつも読んでくださってありがとうございます。本がお好きなんですね」


驚いたように顔を上げた旺志郎は

「すみません、ご迷惑でしたよね。すぐ出ます」

焦ったように返事をすると、橙花はそんなつもりで声をかけた訳では無かったので慌てて「大丈夫ですよ」と笑顔で答えた。


「本は好きですね。気づいたら毎日読んでいます」

旺志郎は橙花の質問にそう答えた。

「そうなんですね。すみません急にお声をかけてしまって。ゆっくりしていって下さい」


橙花はそう旺志郎に伝えるとレジの方に戻って行った。丁寧でどこか控えめなその言葉に、旺志郎は悪い気はしなかった。


その日から二人は時折言葉を交わすようになった。主に旺志郎が今まで読んだ本について話しているのだが、いつも橙花が楽しそうに話を聞いてくれるので旺志郎はそのやり取りに心地よさを覚えていた。そんなある日、彼女が言った。


「鷹山さんは、絵本は読みますか?」

「絵本ですか?読まないですね。子供の頃はよく読みましたけど」

「そうですよね。大人で読む方っていないですよね。」


急に橙花がそんな事を聞いたので、旺志郎は落ち着いた口調でどうかしましたか?と聞き返した。


「実は、私長い文章が読めないんです。活字が苦手で絵本くらいしか、ちゃんと読めなくて。おかしいですよね、大人なのに絵本なんて……でも絵本を読むとページをめくるたびに少しだけ救われるような気持ちになります」

その言葉に旺志郎は一瞬だけ、何かを思い出すように目を細めた。


「俺は大人が絵本を読んでる事を変だなんて思わないですよ。……救われるか。いい表現ですね」

旺志郎は優しい表情でそう言った。

橙花は今までそんな風に言われた事は無かったので少し驚いた。


「ありがとうございます。そんな風に言われたの初めてです……すみません、変なことを言ってしまって」

彼女は旺志郎に深く頭を下げたがその表情はどこか嬉しそうだった。


閉店間際、夕暮れの光が本屋の窓辺を赤く染める頃。ふと旺志郎がレジ前に立ち手にしていた本をそっと橙花の前に差し出した。


「羽鳥さん、これ……読んだことありますか?」

差し出されたのはやさしいイラストが表紙に描かれた一冊の本。

橙花は、表紙を見つめながら小さく首を傾げた。


「……名前は聞いたことあります。でも読んだことはありません」

「文章は短めですし挿絵もある。おそらく羽鳥さんにも読みやすいと思います」

「私にですか?」

鷹山は少しだけ微笑む。

「はい、きっと気に入ってもらえる気がして。もし迷惑でなければですが」

橙花は一瞬言葉に詰まった。


(鷹山さんが……私のために選んでくれた本?)


「ありがとうございます。でも本当によろしいんですか? 私、活字苦手だから途中で読むのを止めてしまうかもしれませんよ」

「大丈夫ですよ。これは途中で止めても何度読んでも心に残る本ですから」


彼のその言葉に橙花は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。本屋の店員でありながら本を「読めない」自分。そんな自分に寄り添ってくれるような本を誰かが選んでくれた――それがこんなにうれしいなんて思わなかった。

橙花はそっとその本を胸に抱えた。


「……ありがとうございます。大切に読みます」


その本はこれから始まるであろう二人の運命の一歩だった。

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