3.

 昔々あるところに、ひとりの青年がいた。

 青年が生まれ育った国には、魔法を使える人、魔法を使えない人、それから人を襲う魔物がいた。

 魔法を使える人は、魔法を駆使し民の生活を支えたり、魔物から民を守るのが当然の義務となっていた。

 青年は名門の魔法使い一家の長子で、魔法学校を卒業する頃にはその国で六本の指に入る実力を持っていた。

 青年はなんの疑問も持たず、希望も持たず、絶望も持たず、恵まれた才能を民のために使い続けた。

 富も名声もあった。

 肩を並べる同胞とはそれなりに親しくしていた。

 ただずっとどこかに、渇きを覚えていた。

 あるとき、その国で一番の魔法使いが、その身を犠牲にして、その世のすべての魔物を葬る魔法を編み出した。

 魔物に襲われることのなくなった国は平和になり、魔法使いは英雄ではなく優秀な歯車として社会に溶け込んでいった。

 青年はといえば、それまでの活躍の反動のように、定職につくことなくぼんやりとした日々を過ごしていた。

 ある日は図書館に行って本を読み耽った。

 ある日はシアターで一日中劇を見た。

 ある日は狩猟し料理をした。

 どの日でも、街で困っている人を見かけたら、手を貸した。

 そしてときどきの夜に、かつて六本の指に入ると言われた、今は五人となった魔法使いたちで集まって酒を酌み交わした。今にあくびをこぼし、回らない呂律で過去を談じながら。

 その会合が行われた、ありふれた夜のことだった。

 五人の魔法使いの体が急に透け出した。まさかまた魔物がこの世に生まれたのではないか、と困惑し各々魔法での抵抗を試みたが、その現象から逃れることはできず、皆の意識はやがて濁流に飲まれるように薄れていった。

 そして次に目を覚ますと、五人は見知らぬ場所にいた。

 大地は荒れ、湖は枯れ、空と海は黒々と濁った場所だった。

 間違いなく人ならざる力が働き乱され、そこに住まう人々の顔には希望がなく窶れていた。争いも多く起きていた。魔法が使える者は見当たらず、このままではそう遠くないうちに滅ぶに違いなかった。

 思いがけない出来事に当惑しながらも、民のために才能を使うことが当たり前にあった五人が、その世界の救済を決意するまではそう時間がかからなかった。

 魔法使いたちは、魔法が存在しない世界で、魔法をふるい、この世に奇跡をもたらした。

 そこだけを切り取れば、他愛のない御伽草子、ありふれた英雄譚のはじまりだった。

 けれど、その実は。

 奇跡が齎すのは、喜びだけではない。



 のそりと、葉と毛布でできたベッドからユラが体を起こす。

 火に薪をくべていたオリアスが彼を見て「おはよう」と言えば、ユラもひどく掠れた声で「おはよう」と応えた。

 汚したい服は水魔法で洗い、火魔法で乾かし、壁にかけているため、ユラは着替えさせた下着と、シャツ、毛布だけを身に纏っている。

 少しでも身じろげば目に毒な光景になるのだが、本人はさして気にする様子もなく立ち上がろうとして、その体をぐらつかせた。オリアスはすぐにユラに駆け寄り、抱き留める。

 するとユラもオリアスを抱きしめ返し、すりすりと頬を擦り合わせてくる。

「なにか、話してた?」

 ぼんやりと尋ねてくるユラに、オリアスは答える。

「独り言は、呟いてたかもな」

「ふぅん」

 ユラの腹がぐう、と鳴る。

「そろそろ起きるだろうと思って、肉、焼いておいた。食べるか?」

「うん」

「じゃあ、持ってくるから」

「うん」

「……ユラ。離してくれないと」

「うん」

 生返事。

 ユラを引き剥がすことぐらい、オリアスには容易ではある。けれど、たっぷり気持ちよくなって、疲弊して、眠って起きたばかりのぽやぽやと甘えてくるその人に、そんなことをする気が起きるはずもない。

 けれど、腹の虫は慰めてやりたいし、栄養は摂らせたいから、オリアスはユラを抱き上げた。鹿の肉串を盛りつけた皿を手に持ち、一緒にベッドに座り、ユラの口元に肉を運んだ。肉たっぷりと頬張ったユラは「美味しい」とかすれた声で零し、眦を綻ばせた。



 吹雪が去ったのは、それから三日後の未明のことだった。

 その間、オリアスとユラはただ身を寄せ合ってのんびりと過ごしたり、他愛ないことを駄弁ったり、昼夜を気にせず体を重ねたりもした。日中に目的地に向けた移動をしないこと、それから、ユラが普段以上にオリアスにくっついてくることを除けば、概ね通常運転だった。

 吹雪明けの朝に、オリアスとユラは小屋を出た。

 薄水の低い空、太陽は淡い光を零し、あたり一面に積もった雪がそれを眩く反射する。

 オリアスはユラの旅程——正確には、ユラの養父が辿る予定だった旅程が記された地図を広げ、コンパスで進行方向を定めると、オリアスの背に頭を埋めて抱きついているユラを振り返る。雪が反射する陽光に目が痛くなったらしい。

「ユラ、そのまま行くつもりか」

「んー……」

「担いでやろうか」

「んー……」

「……もう一泊するか?」

「もう一度小屋を建てるのか?」

 晴れたのを確認し出立を決めると、オリアスは小屋を解体した。使用した木々は重ね置いているからいつかここを通りかかった誰かが焚き火にでも使うかもしれないし、そのうち大地に還るかもしれない。

「ご主人が望むのなら」

「いらない。出立はする」

 案の定、きっぱりと、ユラは断った。彼はどうしようもなく、墓守だ。

「でも、もう少しだけ」

 そんなに目を焼かれたのだろうか、と少し心配になったところで、ユラの手がオリアスの腹の方に回された。ぎゅうっと力を込められると、オリアスの頬はだらしなく緩む。

「俺にくっつくの、そんなに楽しいか」

「別に楽しいわけじゃない」

「わけじゃないのかよ」

「けど」

「けど?」

「あんたとくっついていると、あったかい」

 腹に回されていた手がゆっくりと解かれる。

 それからユラはオリアスの手を握った。ひとまわりは違う小さな手は、オリアスの手よりもあたたかかった。オリアスを仰いでくる顔は、寒さにか、それともあたたかさにか、鼻や頬がほんのりと染まっていた。

「行こう。次の場所に」

 吹雪と焚火だけがふたりを包んだ穏やかな日々を少しだけ名残惜しく思いながら。

 オリアスはユラとともにコンパスが指す方へと歩き出した。

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