第2話


 笛の音が聞こえて来た。


 離宮にいる曹丕そうひの許を訪ねて来た曹植そうしょくはふと、歩みを止める。

 無粋にならない程度の人数の護衛も止まった。



「あの笛は……」



 曹丕も楽を奏でるのを子供の頃から好み、笛の腕前はかなりのものだ。

 楽を奏でる技術は、優れている。昔から文武に秀でた兄だった。

 しかし兄として敬いながらも曹植は、口には出さなかったが曹丕の楽の音はあまり好きではない。


 技術は優れているが、情感が乏しく、胸に染みるような何かが無いのだ。

 自分とは長く後継争いをして来たので、自分の前では心を開いて演奏することが難しいのだろうと思って来たが、父の曹操そうそうも曹丕の奏楽は嫌っていた。


『聞くと不快になる』とまで言っているのを聞いたことがあり、

 その話は曹丕も誰かから聞いたのだろう。

 いつの頃からか兄は、曹操の前では奏楽を全くしなくなった。


 曹丕と曹植は、後継者争いの渦中にあった。


 曹家にはたくさんの子供がいたが、長兄の曹昂そうこうがすでに戦で死んで、幼い頃から文武に対して優れた才気を見せていた、曹沖そうちゅうという弟が病死している。


 曹植そうしょくは詩や楽の才があったが、武才は曹丕そうひに到底及ばない。

 辛うじて弓はまだ使うが、遊びで的を射貫くだけだ。狩りだと、動物を殺すのに躊躇いが出て上手く出来ない。

 

 父である曹操はそれでも小さい頃から期待して、あとは一通りの武芸さえ一応形になればと側近の夏侯惇かこうとん夏侯淵かこうえんなどに指南させて来たが、どれだけやっても武芸は凡庸だ。

 それは曹植自身も自覚があった。


 曹操は、曹丕を嫌っている。


 文武両道の曹丕を長らく後継者に定めなかったのは、それしか理由がなかった。

 理由は、様々あった。

 詩人の魂を解する曹植は元々有能なこの兄を、父は他の兄弟が王になった時の信頼出来る補佐として使う気はあったのだろうと思う。


 だが後継者ではない。


 人として小さいところが曹丕にはあり、後継争いの柵を嫌い、他人に心を閉ざして過ごすことも多かった。

 王とは広く人材を活用しなければならないと考えている曹操にとって、曹丕持つ偏執なところが気に入らないのだろう。


 曹植は父親からの愛情を強く感じながら育って来たが、自分が偉大な父の後を継げる力を持っているとは思ったことは無い。

 

 今は乱世だ。平和の世なら温雅な王は讃えられるだろうが、自分は詩を読み、楽を奏でるしか才は無い。

 外敵を討つ気骨は持っていなかった。


 唯一、世継ぎ争いが苛烈だった頃思っていたのは、曹操に信頼される形で後継者に指名され、玉座についても、今まで通り父である曹操が助言と庇護を与えてくれる形でなら、自分も担えるかもしれないと思ったことはあった。

 

 曹沖は利発で、才気があった。

 若いながら馬や動物の扱いも上手かったし、性格は朗らかだが、周囲の人の話をよく聞いたが、自分の意見も述べる時は述べた。その意見は子供ながら善悪の判断がよく行き届き、大人から教えられるだけではない気概を感じるものすらあった。

 青年になったら、きっと王者の光を纏っていたはずだ。


 曹沖そうちゅうが成長するまで、自分が玉座を預かる形でも曹植は全く構わなかった。

 期限があり、託すべき相手がいると思えば、自分もそれまでは父に恥じない強い王を演じようと頑張れたはずだからだ。


 成人になった曹沖なら父の望む後継者になっただろうと思うから、曹植はこの幼い弟をよく可愛がった。


 亡くなった時は父と共に三日三晩泣いた。


 曹丕は最愛の息子を失った父親を気遣ったのだろうが、しばし落ち着いてから城を訪ねて来て、悔やみの言葉を言った。

 



倉舒そうじょが死んだことを喜んでいるのだろう!』




 たまたま、父と曹丕そうひの遣り取りを耳に入れてしまったのだ。

 父と兄の確執は知っていたが、さすがに自分の幼い弟の死を願ったりする人ではないと思った曹植は、この夜、曹操がこれほど曹丕を嫌っていたのかと、驚きを以って初めて思い知った気がしたのだ。


 野心の話ではない、

 父は兄に玉座をやるつもりはないのだと、その時分かった。


 例え自分が、その力がなくても愛情を向け育ててくれた、父に対する恩には報いなくてはならない。


 ――そういう、葛藤に悩んでいる頃だったのだ。


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