9.むずかしいものについて
その時の自分はやっと八十の漢字をまともに習い出した年だったけれど、それより少し前から字さえ綴られている紙の集まりであれば何でも目を通して。そして両親を捕まえては読みや意味をひたすら聞いていた。
「あの日は……お姉ちゃんが買ってた雑誌を勝手に開いていました」
私の姉はずっと色恋沙汰より生き物の肉体的な争いが好きだったから、その部屋には少年、青年向け漫画の低い塔が幾つも、今だって建っている。
私は角に白い欠けすら出来るのも嫌だけれど、姉はよくページの端にドッグイヤーを作る程には頓着なかった。その事で一度喧嘩になった事もある。最終的に乱入した母が勝った。
そんな人だったので、幼児に私物の本を手にされようがきちんと読める状態で返ってくれば何も言いはしない。年相応にお小遣いが少ない頃の私はそれに甘えていた。
「小さかったのもそうですけれど、だいたいの話を途中から受け取ったものですから。全部はよく分からないままに、とりあえずページをめくり続けて――そして」
そこで一度言葉を切って、私は強く瞼を瞑った。
「私は、出会ってしまいました」
今でも鮮明に思い出せる。
「あの微笑に」
ひどい出来事だった。あの日、私は遠くの眩い光源を目指して飛ぶ愚かな羽虫となったのだ。それが征く道照らしてくれるランプじゃなくて、身を焼く業火だなんて知らないで。
あの頃よく目にした三本の曲線が形作るものじゃなくて、薄らと開けられた蠱惑的な目と口に惹かれていた。
「好きな所はたくさんあります。いつも、どちらかといえば静かなのに、誰にも見られない時は偶に高笑いしてしまう所とか。無理に嫌いなタマネギを食べる事になった回、収録されたコミックスのカバー裏で酷い顔をしていた所とか」
ゆるり、目をひらく。
「けれど、私は。原稿用紙一枚埋めろと言われたなら、あの表情について書いたでしょうね……いえ、そこまで絞ってもはみ出すでしょうか」
難しいですね、と地面を見つめて苦笑した。
「好きじゃないですか」
制鞄から外した缶バッジの針が今更胸を突いたようだった。はっとして隣を向けば佐野さんは腰を上げている。数度彼女が爪先を鳴らした音が、近くの壁によく跳ね返って聞こえた。
長めのスカートが翻れば、今度こそ本当に笑みの剥げた顔が私を見下ろして。呆れて何処かへ行こうとしたのかと思ったけれど、動かない。
「好きじゃないですか」
もう一度、彼女はそう言った。低く涼やかな声で。
「だった、じゃなくて。今も」
触れられた時と似ているようで、違いもした。腹の底が冷たくなって私は僅かに震えた。それからかあっと何かが熱くなった。
光に透かされるなんて穏やかなものではない。ざくざくと胸の内を切り開かれているのだ。私の愛情は、きっと今更。手の平の上に取り上げてみせられていた。まるで私の最愛をその身に降ろしたかのような佐野さんの手の平の上に。
影差す彼女の瞳に宿る色は何故か異様に感じられて、けれどそれでも尚美しかった。
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