フオリエ・ナスコシテ
@kazuatto
第1話 赤い獅子の封印と。
今日も無事に子供たちが過ごせますように——。
そう祈る朝は、決まって何かが起こる。
トラーパニの港に白い帆が揺れ、紺碧の海が陽光を浴す。変わらぬ暖かな潮風が肌を撫で、遠く響く波音が繰り返される。
——いつもと同じ。平穏に見える日常だが、どこか予感めいた冷たい風が胸をくすぐった。
アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニは木箱の封に目を落とした。その理由は、これのせい。
そこに記された紋章は赤い獅子。——王国行政府財務省の証だった。
書類上ではよく見るもの。その癖、荷印としてはあまり目にしないもの。そして——
十四年前に彼女から、幸福を奪い去ったもの。
右手の指先が微かに震む。静かな音で封を剥がすだび、なぜか耳に残った。
トラーパニ子爵の後家として、彼女は積荷改めの責務を負う。日常を送るのに必要な仕事であった。
気を取り直し、中身を確認して認印を押してゆく。それを港湾職員たちが持ち出して、倉庫へ収めていった。やがて訪れる虚。目の前に、運ばれてくる筈の積荷が来ていない。
「オルト。次をさっさと持って来なさいな。丁寧に」
「俺は母ちゃんの奴隷じゃないっつーの」
振り返れば、汗を光らせた十九の息子が木箱を次々と担ぎ上げていく。
肩の筋肉は盛り上がり、力強さを感じさせる。しかし手つきは雑で、上段の木箱がぐらりと揺れる。眉をひそめる母。
握られた左手に力が少し伝わり、同時にオルトに向かって高い声がかかる。
「オルト、キリキリ働く」
辛辣な言葉を放ったのは、十二を迎えるルカだった。亡夫の姉の子で、祝い事への準備として年明けから起居を共にしていた。
「ルカ。お口の使い方」
アウグスタは嗜める。口数の少ない子であるが、躾は必要だ。
「オルトは、もっと沢山働きなさい」
髪を梳いてあげれば、左手への力がほんの少しだけ強くなる。浮かぶ微笑に肩の力が抜けてゆく。
オルトの「ルカ、お前も手伝えよ」と怒鳴る声は、港の喧騒へ消えていった。
後ろでは、古株侍女の婆やと新米侍女のリナが慌ただしく動き回っている。
家族と使用人の間に生まれるささやかな呼吸。港の騒がしさとは別に、足音や温かい笑い声が柔らかに響いていた。
アウグスタとルカは、港の光を静かに眺めた。
遠くで波が絶え間なく打ち寄せ、潮風が香る。陽光が水面に注ぎ、穏やかさを映す。
だが、その穏やかさの背後には、異界の影と霊核の光が静かに息づいていた。
——日常に潜む危険と恵み。
この海の向こうでは、異界が時おり口を開け、人を呑み、霊獣を吐き出す。
海は生と死で満ちている。
だが、そこで採れる霊核が文明を支える燃料である以上、人は船を出すことをやめない。
貴族は義務として異界と向き合い、冒険者は好奇心の赴くまま危地に挑む。どちらも命を賭ける点では同じだ。
今日も港には、その成果が届いている。
遠くでは真っ青な空の中、沖合の小さな暗雲が一つ。
近くでは慌ただしい足音たち。胸の奥に、言葉にならないざわめきが広がる。
僅かに鋭さを増した波音、いつもとは少し違う風の匂い。
木箱の封を剥がした指先に、微かな冷たさが走る。
風の音が止まり、背後の気配が一つ、近づいた。
皺だらけの手がそっと箱の縁をなぞり、唇が動く。
「赤い獅子の封印たい。裏切り者の臭いばすると」
婆やは小さく吐き捨てるように言った。
オルトは荷物を運び終え、一息つく。
「なんで母ちゃんがわざわざ出張るんだ? 誰でもいいだろう」
誰でも良い筈もない。貴族の荷物を改められるのは貴族のみ。それに思い至らぬ息子であった。
アウグスタは息を吐き、穏やかに返す。
「オルト。再来年からは貴方の仕事です。人任せにしてはなりませんよ」
木箱はありふれたものである。なのに妙に術力が濃い。まさかと思い、アウグスタは次々と木箱を開けてゆく。
お調子者のリナは自慢げに言う。
「法の適用範囲とか、大陸法は学びましたよね? 異界に法の威光は届かない、全てを自分が背負うとか」
そう。だからこそ、異界は恐ろしい。
「厳しい掟よ。誰も守ってはくれないわ」
「貴族には無礼打ちが赦されていますから、庶人が関わるのは危険なんです」
幼くとも利発なルカが加えると、「そんな貴族がいるのか?」などと、オルトは呆れていた。その言葉にアウグスタは一瞬手が止まり、息を吐く。
「ルカはお勉強熱心ね。学園で学んだのかしら?」
まだ十二の子供は首を横に振る。
得意そうに、嬉しげにして。柔らかな淡い色の髪を梳けば、瞳は猫のように細まった。
「それで、オルトは学園で学ばなかったのかしら?」
「ばっちり学んだぜ。単に忘れただけだ」
アウグスタは内心でため息をついた。――オルトの浅慮が悩みの種だ。
「ルカも勉強よりも力仕事だぜ。男は働きがないと尊敬されないぞ」
「やだ」
生意気な。と抱えようとするオルトの腕から逃れるルカ。足音が踊って埃が舞った。僅かに咳き込む。
「坊も、手伝わんね」
婆やに尻を叩かれて、オルトも積荷を運び始めた。
やがてアウグスタの指は封印を持ったまま止まる。
鈍く輝きを放つ、異界生物の核。
「……あったわ。霊核よ」
生活に欠かせない、術力の結晶だ。
家の灯りも、水も、暖炉も——この小さな核ひとつで賄われる。
リナは宝石のような輝きに目を奪われ、思わず息を呑む。
「こんなの、毎日使ってるなんて……やっぱすごいわね」
アウグスタは小さく頷き、そっと核を包み込むように持った。
「ええ。でも美しいだけじゃない。刃物と同じ、扱いを誤れば人を殺す結晶」
霊核と朱印の組み合わせはありふれている。
なのに、山背のような冷たさが背を抜ける。
十四年前と同じもの。——また、なのか。
赤い影が嗤う。
異界の闇に、夫は散った。
全身が血に塗れた背中が、こちらを振り返る。
「死なせねぇ」と笑った声が、耳の奥で揺れる。
貫いた穂先に刃が煌めき、鼻をつく濃厚な匂い。
身体は冷え、鼓動は静まっていく——。
あの日の記憶が胸を掻き毟る。
リナにそっと背中を触れられ、現実に引き戻された。
暖かな鼓動が伝わってくる。
この子たちに、あんな想いはさせられない。
そして、こんな姿も見せられない。
俯いた顔を上げ、微笑という仮面を被った。
家の中は静まり返り、夜が降りていた。
アウグスタ達夫婦の寝室。
「……霊核。赤い獅子たちが、また」
赤い封印。それは正規の証でありながら、幾度も不安の影を呼んでくる。
十四年前の記憶が、胸の奥を冷たく撫でていた。
けれど、それは形を持たない影にすぎない。
誰にも話せず、確かめる術もない。
——ふと、扉を叩く小さな音を聴く。
「入りなさい」
遠慮がちにルカが入ってくるが、いつものことだ。
この子も、霊核に宿った異様な気配に気付いたのかもしれない。
小さく、柔らかな身体を抱き上げる。軽い。
ルカは時たまこうして一緒に寝ようとする。
その子供らしさにアウグスタの肩の力が抜けてしまう。
「「おやすみなさい」」
もう、よいだろう。今日は疲れた。
体温が伝わる。
今は——明日に備えるだけだ。
ルカと共に朝を迎えたキエッリーニ邸。寝室の扉が静かに叩かれた。
「奥方様、アントニオ・マリオ=ペントラ・エーリチェ男爵閣下が面会をご希望にございます」
応接室で待つように伝え、ルカと目を合わせる。
「気の利かない男ね」
「
二人は軽く笑った。
「失礼いたします。奥方様」
騎士礼を取り、腕に抱いたルカの様子をちらりと確認した彼は、眉をひそめる。
「王都の学園から話が来たそうですな。ですが、ルカがまだ迷っているとは聞いております」
ルカが膝の上で小さく身じろぎし、呟いた。
「オルトが心配なの」
アウグスタはため息をつき、机の書類をそっと押しやる。
「ええ、そうなの。ルカは……ここを離れたくないようです。オルトや私のこと、色々考えているのかもしれません」
「子供には子供の世界がある。だが、あの学園は未来を拓く場所だ。可能性を広げるためにも、ルカには受け入れてほしい」
「そうは言うけど……」
アウグスタは言葉を詰まらせる。
自分も親として十分な覚悟ができているとは言い難い。けれど、子の未来への想いは理解出来るものだった。
アントニオは苦笑し、肩をすくめた。
「……役立たずの父親でしてな。だが、親の不安は、立場が違っても共通のものです」
二人の間に、わずかな共感が流れた。
「もう一度よく話をしてみます。ね?」
アウグスタは決意を固め、頷く。
「聴いていたな。よく考え、決断せよ」
アントニオは立ち上がり、部屋の奥の窓の外に視線を投げた。
「急ぎ戻らねばなりません。異界の霊獣どもが今日も私との舞踊を待っていますからな……いつも遅れてしまい、申し訳ない」
疲れた笑みを浮かべる彼に、アウグスタは言葉を失う。
踵を返す彼の腰には剣はなく、日常の姿だった。
アントニオの足音が遠ざかる。
アウグスタは膝の上で眠るルカをそっと寝台へ移し、薄布をかけて頭を撫でる。微かな寝息が返ってきた。
静かに窓の外を見やり、机へ向かう。
束ねられた目録には赤い獅子の印。
霊核、異界、血。
十四年前の記憶が胸奥を揺らす。
それでも、今は逃げない。
印章を手に取り、朱を押す。
乾ききらぬ赤が、静かに物語を綴る音を立てた。
昼下がりの日差しが椰子の木に短い影を落とす。
乾いた潮風の香りは、結晶のように残っていた。木陰には黄色いネズミが一匹。
「どうせ、シシリアの冒険者組合への土産だろ?」
「あんなんじゃ、幾らあっても報酬は雀の涙ですけどねー。せめて、この子くらいじゃないと」
黄色いネズミを捕まえたリナが、ルカへ差し出す。
ルカが手放すと、ネズミは走り去った。
その視線を追いながら、アウグスタはそっとルカを抱き上げる。
「ふふ、もう……大丈夫?」
「ピリッとしたの」
普段は朝一で到着する王都からの輸送船は、まだ港に着いていない。
遅れた一事が、胸の奥に小さな不安を膨らませる。
気のせい、考えすぎ——そう思おうとしても、不安は消えなかった。
「おっ。あれじゃね?」
波間に四艘の船が見えてくる。
ルカの身体が小さく震えた。
「ルカ?」
「なんか、変な感じ」
風向きが変わり、冷たい。
その瞬間、港の上空を舞っていた海鳥たちが一斉に飛び立った。
ざわめきが広がり、空が陰る。
海鳥の白が空を塗り、風が止む。
静寂——
地鳴りが、轟いた。
「津波だ! 避難しろ!」
誰かの叫びとともに、群衆が動き出す。
轟音が地の底から這い上がってきた。足元が波のように揺れ、支えを失った膝が石畳に落ちる。
堪らず座り込んだアウグスタの視線の先で、オルトの背が遠ざかっていく。それはあの日の光景にも似ていて。
「待ちなさい! オルト!」
立ち上がろうとするも、力が入らない。息子の背中に重なるのは十四年前の夫の面影だった。
手を伸ばす。だが手は伸ばしたまま、届かずに止まった。
海風が顔をかすめ、指先が空を切る。胸の奥で、過去の記憶がざわめき、心臓が締め付けられる。
「放っておけねぇよ! トラーパニの仲間は俺たちが守るんだ! 行ってくる!」
勇気も、優しさもある。
だが——それだけでは領主の座は継げない。
海鳴りが低く唸り、遠くの水平線が震えた。
再び海面が揺れる。
アウグスタは息を呑み、オルトの遠ざかる背を見据えた。
あの日の記憶が胸を締め付ける。
届かない。また——それでも彼女は手を伸ばしたまま、届かずに止まった。
——無事で。
今日も無事に子供たちが過ごせますように——。
その祈りだけが、彼女を動かしていた。
祈りは音にもならず、唇の動きだけが残る。
風が止まり、潮が凍る。
世界の呼吸が、一瞬だけ止まった。
その瞬間、港の光が反転した。
顕現の光が、全てを呑み込んでゆく。
世界は祈りに応えず、ただ光だけが返ってきた。
大波がうねり、港が震えた。
霊獣の咆哮が、天地を裂くように響き渡った。
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