ホラー掌篇「魚」

chocolateSphinx

 魚が嫌いだ。

 スーパーの鮮魚コーナーで氷の上に並べられた一匹丸ごとの魚。「ソレ」を見かけると、喉がぎゅっと閉まるような、得体の知れぬ嫌悪感がする。

 少し前まで生きていたであろう、ぬらりと光る生々しい鱗。

 虚脱した半開きの口。

 眼が怖い。

 意思を宿さない大きな黒球。人間とは別の生き物であることを否応なく感じさせる、あの眼。

 生きているのか死んでいるのか定かではない、あの眼。

 白い発泡スチロールの中に横たわる「ソレ」は、遠目からでも視界の端に映る。俺はいつも目を逸らし足速に「ソレ」の横を通り過ぎる。

 どんなに避けようとしても、あの眼が、俺を捕捉しているような気がしてならないのだ。眼だけがギョロリと旋回し、俺の動きを追いかけ回すような…。


 子供の頃、父に連れられて釣りに行ったことがある。初めての海釣り。「たくさん釣って、父に褒めてもらうぞ!」と息こんでいた。

 数時間、釣糸を垂らしていても一匹も引っかからない。俺はすっかり不貞腐れていた。   

 父は調子よく何匹も釣っていて、ご満悦の様子。すねた俺のご機嫌をとろうとしたのだろうか。釣った魚をバケツに入れて俺の前に置いて、さっさと自分の釣り場に戻ってしまった。

 幼かったのだ。

 そうとしか言いようがない。

 怒りが俺の身を焼いた。

 衝動に任せ、バケツをひっくり返す。

 埠頭のアスファルトの上を魚がピチャピチャ跳ねる。

 俺は、魚を力の限り踏みつけた。

 

 何度も、何度も。

 

 ぐちゃ、ぐちゃ…。

 はらわたが地面と靴を往復する音に紛れて、奇妙な音が聞こえた。


「キュェェ…」


 魚の声だ。

 我に返ると、アスファルトは赤黒く染まっていた。体液のなかに転がったビー玉のような眼球が俺を見ている。

 テトラポッドに打ちつけられた激しい波の音が、鼓膜に響く。俺は自分のしでかしたことが怖くなった。

 釣り道具を急いでまとめて、父親の元に駆け寄り、手を引いて、「父さん、早く帰ろう」と駄々をこねた。

 好調の波は過ぎて飽きていたのか、言われるがまま帰宅の途についた。


 帰りの車中。

 後部座席で気だるげに外の景色を見ていたら「ソレ」がいた。

 人影がない静かな浜辺の上に大きな鯛が浮かんでいる。

 俺をひと飲みできるくらいの巨魚。

 そこが定位置であるかのように口をパクパクさせながら停止している。

 いや、浮かんでいるのではない。

 「ソレ」には足が生えている。

 人間の足だ。

 細く艶かしい足。女の足だ。 

 一瞬のことで、あっという間に姿が見えなくなった。

 追いかけてくることもない。

 ただ、巨大な黒い眼球が俺を追いかけるのを感じた。


 それから、魚の近くに来ると「ソレ」は姿を現す。俺を待ち構えているかのように。

 スーパーの人混みの中でも、家族と囲む食卓でも、どこにでも現れる。

 何かをしてくる訳ではない。ただ黙って、俺を見つめる。それが俺にはたまらなく恐ろしい。

 魚には、魚の神が存在するのか。

 「ソレ」は、俺が再び魚に非道をしないか、監視しているのかもしれない。

 魚が嫌いだ。

 奴らが俺たちとは全く別の何かであることを、俺は知っている。

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