第3話 影と形
「神秘とは、太古より存在するものであり、科学的に説明不能な存在、現象を指す言葉である……って言うのは、前回の座学でやったよね?」
「はい、覚えてます。」
「(是」
「うむ、宜しい。
神秘には君が深く関わっている神や呪物の他にも、伝承、ミーム、民話など、さまざまな形を取ってその存在を確立している。
私達は、そんな神秘の力を借り受けながら戦うという手法を取って、人間社会に著しい被害を与える神秘への対処をする事を目的としている。
これも、覚えてるかい?」
「勿論です。」
「(是」
「そしてその力を借り受ける人々の中で、神から力を借り受ける者。それを神宿(かみやどり)。
夜音、君のような者のことを指す。」
「神宿。」
「しかも、君は呪いに魅入られてもいる。所謂呪抱(のろいだき)と呼ばれる者だ。
神宿に呪抱なんて、これは滅多にないことだ。誇っても良い。」
「そう...なんですか。」
イマイチ実感がない。
何人に一人とか、なん分の一の確率とか、そういったことを言われても、実感が沸かずどう扱えばよいのか判断に迷う。
自分の想像力の足りなさなのか、身の丈にあった話じゃないと、中々想像するのも難しい...
「分かりやすいように言うなら、ゲームを起動して御三家を選んだときにメスの色違いだったのが君だ。」
「それは誇れますね。」
「だろう?」
そう言ってヘスが満足げに微笑む。
室内に少し笑いが広がって、肩に顎を乗せているツクヨミまでもが、くすりと笑ったような気がした。
けれど――
笑ったまま、夜音はふと黙り込む。
胸の中に湧きあがる、小さな違和感。
ツクヨミと地獄を切り壊したあの夜。
確かに何かが変わったような気がする。
けれどそれが、「神宿」と呼ばれるような大それたものに足る変化だったのかは……正直、よく分からない。
目に見えない“価値”を、他人が勝手に定義しているような、そんな不安。
それが、静かに私の心を鑢で削っている。
「……ヘスさん」
「ん?」
「私、神秘の力を使えるって言われても、まだ正直ピンと来てないんです。
それに、“神から力を借りる”って……本当のところ、どういうことなんですか?」
ヘスは少し目を細めて、夜音を見つめた。
「良い質問だね。では話を続けよう、神とは――」
そのとき。
コン、コン。
静かなノックの音が教室に響いた。
「失礼しまーす、ヘスさん。依頼が入ったみたいっすよ。」
扉を開けて顔を出したのは、七だった。
ヘスは少し眉を上げると、夜音に視線を戻す。
「――さて。
残念だが、座学はここまでにしよう。どうやら、君の出番が来たようだ。」
________________
「それじゃあ初任務。張り切っていこうか、夜音ちゃん。」
薄曇りの空の下、くすんだビル群の間を歩きながら、七は相も変わらず軽い調子で夜音に語りかけていた。夜音は支給された制服の上から黒い革ジャンを羽織り、傍らを歩く男に苦笑を浮かべる。
「張り切るような内容じゃない、ってカロンさん言ってましたけど……」
「うん。俺もそう思う。今回はただの“異常感知”の調査だし。暴れる奴がいたら俺が抑えるから、夜音ちゃんは後ろでメモでも取っててくれればいいよ。」
「……はい。でも私も……何かできるようになりたいので。」
向上心...いや、追いつかないといけないという不安、焦りからの背伸びか。
若いねぇ。
おじさんから見るとその初々しさがまぶしくてたまんない...と、適当に言っておきたい所だけど。
……夜音ちゃん、君はそれをする程、弱くも、愚かでもないんだよ。
「偉い偉い。やる気があるのは結構結構。でも、死んだら元も子もないからね。」
そう言って七は片目を瞑ってみせたが、その顔に浮かぶ笑みはどこか冗談だけでは済まないものを感じさせた。
「今回の調査地点は、ここから少し離れた旧商店街の路地裏。通報者の話だと、“陽が沈む直前に黒い人影が壁から剥がれて歩き出す”んだってさ。」
「それって……幽霊とか、そういう?」
「さあ? “神秘”の分類で言うなら、霊体か現象の記憶か、あるいは呪物由来のミームか。どれにしても、実害が無いなら放っておいてもいいレベル。でも、万が一に備えて調査は必要ってわけ。」
そう話す七の横で、夜音は歩調を合わせながら周囲に目を走らせる。ツクヨミは今日も彼女の後ろにぴたりと付き従い、言葉を発さないまま、それでも気配を通じて見守っている。
やがて、二人は問題の旧商店街の路地へと足を踏み入れた。
夕暮れの影が長く伸びる中、人通りのない通りに微かな不穏が漂う。空気が――“重い”。
「……ちょっと濃いな。夜音ちゃんも感じる?」
「はい……何というか、呼吸が浅くなるような……。」
ツクヨミの気配が僅かに前へ出る。彼女の布の表面に浮かんだ文字は――「(危」
「お出ましだ。」
七は甚平の内側から鈍く輝く金の鎖を取り出し、片手で鎖を掴みながら前方に視線を据える。
「……来る。」
夜音が呟いた次の瞬間。
コンクリの壁に投げられた影が、ぐにゃりと歪んだ。
その影がまるで水面のように揺らめきながら壁から剥がれ、形を持った“何か”として立ち上がっていく。輪郭は不明瞭で、目のようなものも口も無い。だが、それは確かに――“見て”いた。
「ツクヨミ、お願い。」
夜音がそう言った瞬間、ツクヨミが一歩踏み出し、その身を夜音の前に差し出す。影の化け物は音もなくツクヨミへと手のようなものを伸ばした――が、次の瞬間。
ジャラジャラとした音とともに、その影の腕が“拘束”される。
七の鎖が影を締め付けるが、その感触に七は難色を示す。
「うーん、物理効いてるけど、コレじゃダメだ。夜音ちゃん、ちょっと頼んでもいい?」
「……はい。ツクヨミ!」
夜音の声に応えるように、ツクヨミの布が揺れる。
空気が震え、風がざわめく。そして――
カン。
金属同士が衝突する鈍い音、ツクヨミの刀は確かに影を切りつける筈であったが、その刃が当たった部分に影を集中させて防御する。
「コイツ...」
見誤った...
自分を構成する影をそのまま移動させて防御力を瞬間的に上げるとは。
雑魚の神秘にしては、良い小技を持っている。
...…が。
「とった。」
瞬間、影の背後から夜音の一太刀が振るわれ、影が縦に裂ける。
影の塊が一瞬、震えたように見えたかと思うと、苦悶のような揺らぎと共に“消えた”。
後には静寂と、濃密な空気だけが残る。
七は鎖をしまいながら、ふっと息を吐く。
「……やっぱり、君たちの相性は良い。神宿としても、向いてる。」
いや、厳密には、向いてるで済ませて良いものではない。
神宿という存在は、どうしても神の力頼りになりがちだ。
仕方ない。力を借り受ける当人は、結局は神の存在を維持するための楔でしかないのだから。
しかし、夜音は違う。
自ら動き、指揮し、連動する。
それを可能にする身体能力、状況判断の速さ。
正に理想的な神の繰り手、天性の才。
夜音は刀についた煤を振り払い納刀すると、こちらの方を向く。
金色の瞳孔が、何故か不気味に映った。
神宿はその名の通り、神を宿す。
それは言葉以上に大きく、深い。
いつか”人としての形”を変えてしまうこともあると、七は知っている。
「今の……何だったんでしょうか。」
「現象の記憶かな。数か月前にここで焼死体として発見された男が居たらしい。多分ソイツの“痕”が残ってて、それが条件を満たした時に具現化していた。今回は被害が出る前に抑えられて良かったよ。」
夜音はしばらく黙って、消えた影のいた壁を見つめていた。そこに今は、何も無い。
「……怖かったかな?」
七の問いに、夜音は顔を下に傾ける。
夜音は地面を見たまま、じっと立ち尽くしていた。
ツクヨミが静かにその背後に佇み、何も語らず、ただ“共に在る”ということだけを示している。
「……なんで、あんなに、冷静だったんでしょうか、私は。」
ぽつりと、夜音は呟いた。
七はその声に眉をひそめながらも、すぐに返事をせず、ポケットからタバコを取り出して火をつける。
「刃を抜くのも、ツクヨミに指示を出すのも、相手が消えた後も……なんだか、全部、自分じゃないみたいで。」
震える声ではなかった。ただ、感情が追いついていないという、静かな違和感。
「それが、“神宿”になったってことさ。」
七は煙を吐きながら答える。
「神と正式に契約を結ぶってのは、力を借りるってだけの話じゃない。夜音ちゃんの中には、既にもう一人――いや、“一柱”の意志が棲んでるんだ。自分で考えて行動した、という感覚が段々と麻痺してくる事もある。」
夜音はゆっくりと目を伏せる。
ツクヨミの気配が、背中越しに何かを訴えているのがわかる。言葉じゃなく、感覚で。
「……私、あのとき……“斬ることに迷いがなかった”んです。」
「……そりゃあ、必要だったからだろ?」
「いえ、違うんです。必要だったからとかじゃなく…やれと人に言われて刀を抜いて殺すという選択に一切の迷いがなかったことに、“恐怖”を感じてるんです。」
七は少しだけ目を見開いた。
そして、その反応を見て、夜音はさらに追い打ちをかけるように言葉を繋げた。
「私は。
...いつか、殺すんでしょうか。手を握るのと同じように、雑談をするのと変わらないように。
目の前に居る親しい人をなんとも思わずに、流れるように。
やれと言われやる理由があるのなら、殺すんでしょうか。」
その目が、ほんの僅かに揺れていた。
神に選ばれた者。強さと引き換えに、確実に“変わっていく者”。
七は一つ、タバコを路面に押し付けて火を消すと、口元に苦笑を浮かべた。
「例え、そうなるんだとしても。
その瞬間が訪れるには、まだ時間がある。」
「……?」
「変わっていく自分に“恐怖”を抱いてる。それこそが、君がまだ人間だって証拠だ。」
夜音の目が見開かれる。
「経験上、神秘に呑まれる奴ってのは大体、自分の変化に気づかないか、気づいても喜ぶ。“異能”とか“特別”に酔っ払って、ブレーキを壊していく。でも夜音ちゃんは違う。“自分を疑ってる”。――それだけで、今は十分だ。」
夜音は息を吸って、静かに、ツクヨミのほうへと視線を向けた。
布の表面が、わずかに揺れて――「(寄)」という文字が浮かんだ。
「夜音ちゃんは、ツクヨミが怖いかい?」
色々な事が分からなかったけれど。
その答えだけは、決まっていた。
「いいえ。」
彼女の存在は、行動は、最終的には安心に繋がるものが全てだ。でも――
その安心感を感じているのは、“自分”なのか? “神”なのか?
それを考えると、ちょっとだけ。
私の背を置いてある手が、冷たく感じた。
「……でも、分かってる。これは必要なこと。私が私であるために。じゃないと、ツクヨミを知ることなんて、できませんから。」
そう呟いた夜音の目は、さっきよりもほんの少しだけ、強かった。
七はそれを見て、小さく肩をすくめる。
「はぁ……今の子ってやっぱ凄いねぇ。俺なんて、二十代で全部流されたのに。」
「それは……七さんがだらしないだけじゃ。」
「うわっ急にえぐっ」
空気が少しだけ和らいだ。
だがその奥底には、確実に芽吹いた変化があった。
――“神に近づく”ということは、“人間から離れる”ということ。
夜音は今、確かにその第一歩を踏み出したのだった。
________________
「ただいま戻りました。」
「お帰り~、初任務お疲れ様、夜音。七もね。」
優しい目で、ヘスさんが褒める。
人間性の欠如を危惧していたが、まだそのやさしさを感じることはできた。
その無邪気な笑顔をなんだか無償に撫でまわしたくなるのは人間性の欠如だろうか。
否、そうではないと信じている。
「帰ったか。」
「カロンさん、お疲れ様です。」
「何言ってんだ。仕事をしたのはお前だろうが、俺はなんもしてねえ。
...それよりだ。
おい七、お前また黙って冷蔵庫のデザート食っただろ。」
「え?いや前から俺じゃないって言って...」
「うるせぇ。甘味食べるのなんてお前以外にいないんだから言い訳すんな。罰として掃除だ、コッチ来い。」
そう言って、七さんがカロンさんに襟を掴まれながら厨房へと連れて行かれる。
その瞳が、夜音とぶつかる。
「夜音ちゃ~ん、可哀そうなおじさんを助けて~。」
「知りませんよ、冤罪だとしても自分で何とかしてください。」
「ちょ、それは流石に酷___」
その言葉を最後に、厨房の扉が閉まって七は連行された。
なんとも言えない気まずさが部屋内の二人を包む。
「...珈琲でも飲む?」
「いただきます。」
少女焙煎中...
取り敢えずカウンター席に座り、ヘスさんが珈琲を淹れる様を眺める。
流れるような、慣れた手つき。
専用の機械を細い指で操る様は、まるで一種の魔法にすら思える。
その結晶が、カップに並々と注がれていく。
挽いた豆の香りは豊かで、芳醇な香りが鼻腔を刺激する。
「ミルクと砂糖はどうする?」
「どっちも大丈夫です。ブラック派なので。」
「大人だねぇ。
はい、お待たせ。夜音のお口に合うと幸いだよ。」
「いただきます。」
香りを楽しむのも程ほどに、先ずは一口。
刺激、とはまた違う重みという衝撃が脳を直撃する。
カフェインがそのままぶつかるような、その後染みこんでいくような。
何かに取り憑かれたかのような感覚。
だが、それを不快とは感じない。
美味しさとなつかしさが、そのすべてを塗りつぶしていたからである。
前回飲んだときはもっと違和感があったが、二回目ともなるとその違和感もかなり薄れた。
「美味しい...ですけど、やっぱり不思議な味です。」
「よく言われるよ。私自身は特に変わった淹れ方をしてるつもりは無いんだけどね。」
寂しそうに、頬を掻きながら伝えるヘスの顔に、夜音は唐突にある疑問が浮かぶ。
「ヘスさんは。」
「ん?」
「...この店をやる前は、何をしていたんですか?」
咄嗟に出たその言葉に夜音はハッとする。
失礼な質問だった。
人の過去を詮索する行動は、普段なら絶対に取らない選択なのに。
その質問にヘスは聞かれると思わなかったと目を丸くさせていたが、夜音が自分自身に驚いているのを見て口の端を緩ませる。
「...店をやる前、私は一人旅をしていてね。このまま死ぬまでこんな生活が続くんだろうなって、なんとなくそんな考えでふわふわと過ごしてたんだけど。
ある日、ふと喫茶店に入ったんだ。なんの特徴もない、人気もない、そんな寂れた店。
珈琲を頼んで、壁掛け時計の針が進む音を聞いて。
そうしている内に珈琲が運ばれてきて、何も考えず一口飲んだんだ。
その時の珈琲の味は、今でも覚えている。
少し熱すぎる、薄めの並々注がれた珈琲。
決してお世辞にも美味しいとは言えない味だったけど、その味は間違いなく人生で一番の珈琲だった。
私も、こんな珈琲を。
だれかの思い出の中になる味を、淹れてみたい。
心からそう思った。
そうして心機一転。この町に住んで、昔から馴染みだったカロンを誘って、店を開業したという訳さ。
...おっと、つまらないとは言わないでくれよ。
それが分かっているからこそ普段話さないのだからね。
話させた責任は取ってくれたまえ。」
そうにししと笑うヘスを見て、夜音は我慢の限界に達して、ヘスの顔を両手で包む。
「そんなこと、言わないで下さい。
私は嬉しいです。ヘスさんの事を少しでも知れて。
だからつまらないなんて、言わないで。」
眼を見て、夜音は心の底からそう怒る。
忘れがちだが、夜音は自他ともに認める紛れもない美少女。
とにかく顔面が良い女のその真っすぐな感情と大胆な行動に、ヘスは情報が処理しきれずにぐるぐると目が回る。
「こ、これはあれだね。年頃の女の子特有のあれ……ん、アレってなんだっけ……ああもう、なんでこんな時に言葉が出てこないのか……!」
あわあわと慌てるヘスの顔が、夜音にはなんとも可愛らしくて。
思わず食べてしまいたく...
バコッ。
それ以上の行為になる直前、ツクヨミが夜音の背後から後頭部を鞘で殴打する。
その衝撃で夜音は椅子から転げ落ち、その頭からは湯気が立ち上る。
「痛た...何するんですかツクヨミ!!」
「(危」
「はぁ!?なにが危なかったですか、確かにちょっと性的に食べたいなぁとは思いましたけども。」
「思ってたんだね!?」
「(淫」
「今のは聞き捨てなりませんよ!?誰が淫乱女ですかこの...!!」
ギャーギャーギャー
三人のわちゃわちゃは店内に響き、落ち着いた雰囲気の店内が喧噪に包まれる。
そんなに騒いでしまえば、もちろん厨房にも聞こえる訳で。
「お前ら...」
いつの間にやら立っていたカロンが、拳を携え青筋を立てながら仁王立ち。
「全員、黙って、掃除しろ。」
カロンの静かな怒号が、今日も喫茶店に響き渡るのであった。
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