🌕第23首 月見れば🌕
月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど(大江千里)
街灯の下で息を吐くと、白く揺れてすぐに消えた。夜気は薄い湿りを帯びていて、肌に冷えが貼りつく。歩道のタイルに落ちる影は長く、頭上には擦りガラスを思わせる月が浮かんでいる。
「今夜はやけに明るいな」
そうつぶやいても、返事をくれる人はいない。駅前の広場は終電を降りた人が足早に散って、残るのは私の足音だけだ。
月を見上げると、胸の奥に沈めていたものが勝手にほどけていく。名前をつけられない感情ばかりが、胸の中で膨らんでは溶ける。失敗したこと、失ったもの、誰かの言葉。とりとめのない悲しみが、勝手に湧き出して止まらない。
「別に、私ひとりが特別なわけじゃないのにな」
小さく笑った声が夜に吸い込まれる。月は無関心のまま光を落とし続ける。
アスファルトの上に敷かれた光は、まるで水面のように震えて見える。街路樹の影がゆらぎ、足を進めるたびに濃淡を変えて私を追いかけてきた。影と光の境目を踏むたび、胸の奥にあるざわめきが音を持つように感じられる。
ふと、遠くで笑い声がした。振り返ると、マンションのベランダに並んだ洗濯物が風に揺れている。その間から、若い二人が肩を寄せ合って夜空を見上げていた。彼らの笑いは軽く、月明かりに触れて透けるように澄んでいる。
胸がちくりと痛んだ。けれど、同時にどこか安堵もした。悲しみを抱えているのは私だけじゃない。彼らの笑い声の裏にも、きっと言葉にならない影は潜んでいる。そう思うと、わずかに息が楽になった。
雲が流れ、月が一瞬かすむ。その隙間から零れた光が、歩道の水たまりに落ちて、揺れる銀色の模様を描いた。私は足を止めて、それをじっと見つめる。
「…きれいだな」
その声は誰に向けたわけでもなかった。けれど口にしただけで、胸のざわめきは少し薄らいだ。
空を仰ぐと、雲はすでに遠くへ流れている。月はまた形を取り戻し、静かに夜を照らしていた。光に包まれていると、自分の影の存在すらやさしく思えた。
私は歩き出す。影は長いままついてくるけれど、それも悪くはないと思えた。
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