履歴に残る顔

異骸

第1話 サブスクリプション

俺は寝るときPCで"Stream+"というサブスク限定の動画サービスを利用し、動画を再生しながら眠りにつくことが日課になっていた。

 妙に落ち着くのだ、俺以外の声、あらゆる場面に合わせて激しく変わる表示光は俺が一人でないと語りかけているようだった。

 今日も俺は動画を自動再生にしたまま眠りにつく。


目が覚めると、天井はまだ夜の続きのように暗く、部屋のどこかで低い音が鳴っている。冷蔵庫か、あるいはスマホの小さな振動。枕の横に画面の光。Stream+は相変わらず気軽な顔でトップページを差し出して、自動再生が止まらず、俺の眠りは無造作に踏み荒らされていた。起き上がる気力が出るまで、通知を一つずつ指で撫でるみたいに流していく。おすすめの列に聞き覚えのあるタイトルが並ぶ、昨夜の映画は途中で記憶が切れている。寝落ちはいつも通りで、何もおかしくない、そう思って、いつもの癖で視聴履歴を開いた。

 ひとつ、知らないタイトルがある。


「2025/09/12 02:13」

 ただ日付と時刻だけ。灰色のサムネイルには再生マークもバーもない。

 寝ぼけた頭で、バグだろうと片づけようとする。けれど親指は勝手にタップしていた。起動音、映像は暗い、すぐにノイズの薄皮の向こう側に見覚えのある輪郭が浮かんだ。

 俺の部屋だ。

 天井の角、ちょうど火災報知器の影になる辺りから、ベッドを斜めに見下ろしている。布団の形、枕の色、床に投げた靴下。全部、俺の配置。

 ――俺が、眠っている。喉が乾いて、小さく空気を吸うと、イヤホンの片方が布団から転がり落ちて小さな音を立てた。それが映像の中にも遅れて現れ、カラリと床を跳ねる。現実と映像が呼応する感覚が足元を冷たくする。

 再生を止めようとして、指がもつれる。映像は淡々と続く。五分、十分、何も起きない。眠る俺を、角度の定まった視線がただ見ている。やっと停止できたとき、掌の汗が画面に丸い跡を残していた。

 偶然だ。誰かがアカウントを使った。パスワードは使い回しだし、寝ぼけて何かしたのかもしれない。自分で言い訳を並べながら、俺は天井の角を見上げる。火災報知器は白い円盤のまま、無関心だ。羽音みたいな冷蔵庫の唸りが、いやに大きく聞こえる。


その夜は、逆に眠れなかった。動画はつけず、部屋の灯りを最小にして横になる。目を閉じて開けば、暗さは同じ顔をして戻ってくる。

 朝、いつもより早く目が覚めて履歴を開く。


 ――あった。


 「2025/09/13 01:54」

灰色のサムネイル

 眠気を言い訳にする余地はもうない。タップ、映像は雨の音で始まった。ベランダの手すりに雨粒が当たり、滑り落ちていく。ガラス越しにぼやける室内、ベッドに横たわる俺。

 ベランダだ、二階の狭いベランダ、外に覗き込めるほどのスペースはない。誰が、どうやって。

 映像の中で、カーテンの裾がゆっくり揺れた。風だろう。けれど揺れは徐々に一定のリズムになり、息遣いのように見えてくる。俺は画面の音量を絞り、ベランダの窓に近づく。外には薄い朝の雲。濡れた手すりに水滴が細く並んでいる。足跡は、もちろん、ない。

 管理会社に電話するべきか迷ったが、説明のための言葉が見つからない。“視聴履歴にみたことないタイトルがあって、自分の部屋が映ってて――”受話器の向こうの沈黙が目に浮かんで、やめた。

 スマホのカメラで天井の角、ベランダ側、ドアの隙間、ベッド下を撮って拡大する。埃の粒や細いキズが巨大になって、余計に心細くさせるばかりだ。

 出勤の時間が迫り、イヤホンケースをポケットに押し込みながら玄関の鍵を回す。金属の擦れる音に、背中の神経が一本、細い線になって残った。


昼休み、同僚の岸本にそれとなく話してみる。話半分に笑われるのは覚悟していた。

「履歴の仕様かもな。ほら、たまにテスト配信とかあるだろ」

「うちの天井、写さないだろ」

「おまえの寝顔、需要あるかも」

 岸本の笑いは軽い。でも悪意はない。軽さが救いになるほど、俺はもう正気の確認を他人に求めていたらしい。

 その夜、意地でも起きていようと、カフェインを詰め込んで点滅する心拍を持て余していた。零時、零時半、一時、瞼が重くなるたび、頬をつねる。

 翌朝、履歴は増えていた。


 「2025/09/14 02:07」

 再生、画面は暗い廊下、寝室のドアの隙間からの映像だ。黒い帯の向こう、ベッドの輪郭が細く見える。手前で、何かが動く気配がして、わずかな擦過音がマイクに触れる。

 俺はドアを実際に開けてみる。現実の隙間はただの空気で、冷えた床の匂いがするだけだ。

 映像の中で、隙間の影がほんの少し濃くなる。呼吸だ、と直感する。誰かが、そこに顔を寄せている。

 停止。

 耳の奥が熱い。鼓膜の裏側で自分の呼吸だけが肥大して、冷蔵庫のハム音と混ざり合う。観葉植物の葉先が、エアコンもつけていないのにわずかに震えるのを見て、俺は視線を逸らした。

 道路は日曜日ということもあるのだろう、車が素早く通り過ぎる。俺以外の人を確認する。余計に現実に引き戻される。

帰宅、玄関のドアを閉める音が、いつもより重い。靴を脱ぎ、部屋の真ん中に立つ。

 ……静かだ。

 静けさは、何かを隠しているときの音だ。

 俺はStream+を開いた。トップページの色がほんのわずか、灰色に寄って見える。おすすめの帯の中央に、見知らぬサムネイルが居座っている。

 顔だ。

 灰色の面、目も鼻も口もあるのに、どれも輪郭が曖昧で、霧の中に浮かんでいる。タイトルはない。カーソルを合わせると、無音のままサムネイルがわずかに拡大する。

 視聴履歴には、まだ新しいものは増えていない。胸のどこかが、次の瞬間を待っている。

 待つという行為そのものが、招く儀式のように思えた。


翌朝、アラームより先に目が覚めた。画面の明るさを最小にして、履歴を開く。

 「2025/09/15 02:19」。

 灰色の面。再生。最初に来たのは音だった。

 硬い床を踏む、乾いた足音。廊下だ。映像はまだ暗い。黒の中で、一定の間隔で音だけが進んでくる。やがて寝室のドアが画面にうっすら浮かび、隙間が白い線になって立つ。音はそこで止まり、呼吸に置き換わる。

 その呼吸は、現実の俺の喉の奥にも届く気がした。映像の中のマイクに、吐息が触れて、微かな風の乱れが生まれる。ドアと枠の間、紙が一枚通るかどうかの狭さに、誰かの顔の厚みがあるのだと、体が先に理解する。

 映像は三分ほど続いて、何も起きないまま静かに切れた。

 俺はベッドから出て、裸足のまま廊下に立った。フローリングがひやりと温度を押し返す。寝室のドアの縁に耳を寄せる。木の匂いと、古いワックスの甘い残り香。向こう側に気配はない。

 玄関のチェーンを外し、廊下に顔を出す。共有の暗がりは、朝に吸い取られて薄い。足音の余韻だけが鼓膜に残っている。耳鳴りなのか、本当にそこにあったのか。

 部屋に戻ると、観葉植物の葉先が、また、ほんの少し揺れていた。エアコンは切ってある。窓も閉めたまま。

 俺はドアの隙間に指を差し入れて、ゆっくり閉め直す。隙間を消すみたいに。ずれた蝶番が軽く鳴いて、音はすぐ飲み込まれた。


不安を理由に、昼休みに管理会社まで足を運んだ。

 受付の女性が担当者を呼び、背広の男が出てくる。応対は丁寧で、テンプレートの言い回しでも、言い切ってくれる分だけ救いがある。

「隣室の四〇二は、この三カ月空きです。出入りがあれば、清掃業者の記録が残ります。夜間のベランダ側に人が立つのは構造上難しいはずで……」

 男は図面を出して、ベランダの手すりの高さと幅、隣室との間仕切りの固定具を指で示した。

「監視カメラは廊下とエレベーターホール。ベランダ側はありません。廊下の映像は——」

 パソコンのモニターに、昨夜から今朝にかけてのタイムラインが並ぶ。二時十分前後、三十秒ほど灰色の帯が走っていた。

「ここ、ノイズが入っていますね。時々こういうのが……」

 男の声が曖昧に濁る。

「機材の劣化かもしれません。必要でしたら交換は手配します。念のため、室内の火災報知器と通気口、電源タップ周り、不審な機器がないか点検しましょうか」

 午後、作業員が部屋に来た。脚立を立て、報知器を外す。白い皿の裏は空洞で、埃が薄く輪を作っているだけだ。換気口のカバーを外すと、古い綿埃が重たく落ちる。ベッドの下も、タンスの裏も、何もない。

 作業員は「異常なし」と短く言って、報知器を元に戻した。

 書類にサインをしながら、ついでのように訊く。

「この建物、前に何かあったりしませんでした?」

「特には。退去理由も普通ですよ」

 普通。普通はいつも、何かの背中にくっついている言葉だ。

 玄関で靴を履く作業員の背を見送ると、部屋はまた俺ひとりの音に戻った。冷蔵庫のモーターが、遠くの工場みたいに鳴る。ドアの隙間は、もう残していない。

 俺は天井の角、ベランダ、ドアの縁をもう一度見回した。何もない、という事実が、何かがある、と同じ重さを持ち始めていた。


 仕事帰りに岸本と駅ビルのフードコートで落ち合った。プラスチックのトレーの上で氷が小さく歌っている。

「点検、異常なし。廊下カメラはグレーの帯。——で、おまえの幽霊は相変わらず配信中か」

「笑ってくれ。俺も笑って済ませたい」

 俺はスマホを取り出し、PCと連携してあるStream+を開く。履歴の列を指で送る。灰色のサムネイルは、そこにあった。

 岸本に画面を見せる。彼は身を乗り出し、眉を上げる。

「タイトルが時刻ってのは、気味悪い演出だな。押すぞ」

「押してくれ」

 岸本の指が画面に触れた。再生の円が回り、エラーの表示が一瞬だけ白く光って消える。

 映像は、流れなかった。

 俺は取り返すように端末を自分の側に引き寄せ、同じタイルをタップした。今度はすぐ、音が来る。廊下の足音。岸本は目を細める。

「——何も映ってねぇけど」

 彼の側の画面は、再び灰色に戻っている。俺の画面には、寝室のドアの隙間が出ている。

「見えないのか?」

「何が?」

 声がわずかに乾く。周囲のテーブルの音が、一枚膜越しに遠くなる。

「俺のにも出せる?」

 彼が自分のアカウントでStream+を立ち上げる。履歴の列には、俺と同じ灰色のサムネイルはない。

「ほら、やっぱ仕様かバグだって。アカウントごとだろ」

 岸本は笑い、ストローを噛む。歯の当たる小さな音が耳に刺さる。

「だったら、俺のアカウントを貸す。今夜、一緒に見るか?」

 言ってから、自分でもそれが恐ろしく救いのある提案だと思った。ひとりで見ないで済むことの価値。

「悪い、今日は帰って作業ある。明日でもいいか?」

 約束は空中に浮いたまま、二人は駅で別れた。

 電車の窓に映る俺の顔は、疲れている。目の下の影が、いつもより濃い。

 帰宅し、鍵を二重にかけ、チェーンをかけ、窓の鍵を確認してから、灯りを落とす。

 Stream+を開く。履歴の列は、灰色の点々で見慣れない模様を作っている。さっきのタイルをタップする。

 音が、すぐに来た。

 足音。

 今度は映像より少しだけ早く。

 俺は画面から目を離して、廊下のほうを見た。

 床が、ごくわずかに、鳴った気がした。

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