異国刀

橘 酒乱

第一話「大坂の炎」

熱気が肌に張り付く。湿った潮風に混じるのは、生々しい血と硝煙しょうえんの匂い。

汗が目に入り、視界がにじむ。


灼熱のシャムの戦場で、俺は槍を構えた敵兵と睨み合っていた。


相手の槍先が空気を切り裂きながら俺の頬をかすめ、皮膚が裂ける熱い痛みが神経を駆け抜ける。


その瞬間——


遠くで響いた火縄銃の轟音が、時を巻き戻した。



大坂城が炎に包まれた、あの日の轟音。



慶長けいちょう二十年、初夏。


俺の名は浅葱 真之介あさぎ しんのすけ。二十歳になったばかりの若輩だが、豊臣の旗印はたじるしのもとで死ぬ覚悟はできていた。


大坂城天守の影が、午後の陽光に黒々と伸びている。


「ご報告いたします!」


血で顔を半分染めた同輩が、石段を駆け上がりながら声を張り上げた。


「敵勢、本丸に迫っております……!そ、それに、幸村様が……討たれました!」


その報告が胸に落ちると同時に、鼓動が速くなった。冷たい汗が背を伝う。


真田 幸村さなだ ゆきむら。豊臣家最後の希望。その人すら討たれたのか。


城外からは、徳川勢の勝鬨かちどきが響き渡る。


「もはや、これまでか……」


誰もが黙然と悟っていた、豊臣家の命運は尽きたのだと。


俺は腰のつかに手をかける。握りは汗で滑り、指が柄に食い込む。


主君と共に死ぬ。それが武士のほまれ。


そう思って立ち上がった瞬間——


ドォォォォン!


地面が跳ね上がり、俺の体を宙に放り投げた。


大筒おおづつの直撃。石壁が砕け散り、瓦礫がれきの雨が降り注ぐ。


土埃で視界が真っ白になった隙を縫って、徳川兵が雪崩なだれ込んでくる。


俺は刀を抜いた。


迫りくる敵兵に斬りかかる。刃が肉を裂く感触、骨にあたる振動、血が頬を濡らす。一人、二人と斬り伏せる。


だが波は止まらない。


息が上がり、肺が焼けるようだ。熱い。汗と血で手が滑る。


その時——


一人の敵兵が俺の間合いに潜り込み、柄頭つかがしらを腹部に突き上げた。


内臓が潰されるような衝撃。


――その攻撃は、急所を外されていた。


わずかな違和感が脳裏をかすめた瞬間、背後から別の敵兵に側頭部を打たれた。


視界が歪み、世界が斜めに傾く。耳鳴りが頭を支配し、口の中に鉄の味が広がる。


膝から崩れ落ち、俺は燃え盛る天守を見上げた。


秀頼ひでより公……よど殿……」


声にならない呟きが喉に詰まる。無力感が胸を引き裂き、意識は暗闇に沈んだ。



鳥のさえずりで目が覚めた。


見上げれば、すす一つない白木の格天井。金泥きんでいで描かれた雲龍の絵が、まるで生きているかのように光の中でうごめいている。


横たわる俺の体には清潔な白い包帯が巻かれ、麻の浴衣がかけられていた。


どこだ、ここは。


なぜ俺は生きている。


疑問が頭の中で渦を巻く。



低く落ち着いた声が、静寂を破った。


振り返るとそこには、 が、黒漆くろうるし胡床こしょうにどっしりと腰を下ろしていた。


心臓が跳ね上がる。呼吸が乱れ、冷や汗が背筋を流れる。


敵の大将がなぜここに。なぜ俺を生かした。


「なぜ……私を……」


喉がカラカラに乾き、声がかすれる。


「お前を知っておるからじゃ」


家康の目が細まり、口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「浅葱 真之介。豊臣家臣の家に育ち、幼き頃より武芸に秀でていた。そして——」


家康の視線が俺を射抜く。



血の気が引く。特別な血筋とは何のことだ。


俺は歯を食いしばり、家康を睨み返した。


「……何を言われているのか、分かりませぬ」


体に力が入らず、起き上がることもできない。それでも目だけは逸らさなかった。


「私は豊臣家の家臣。徳川に従うつもりなど、毛頭ございません」


家康は眉一つ動かさない。


「ほう。では、死ぬつもりか」


静寂が落ちる。畳の目の数さえ数えられるほどの沈黙。


俺の鼓動だけが、太鼓のように耳に響く。


「当然です」


俺は唇を噛み、血の味を確かめるようにして言葉を吐いた。


「主君のために死ぬことこそ、武士の本懐ほんかい。貴様に救われるなど……屈辱以外の何ものでもない」


家康は立ち上がり、障子に向かって歩いた。その背中は、まるで巨大な山のように見える。


「それは武士の死に方ではない」


その声は低く、しかし不思議な温もりを帯びていた。


厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうど——けがれた世を離れ、清らかな浄土を求める。それが我が信ずる道じゃ」


家康が振り返る。


「単に死ぬのではない。この穢れた世を少しでも良くするために戦い、清らかな心で死んでいく。それこそが真の武士道ではないか」


家康の瞳が俺を見つめる。


「お前に、その気概きがいはあるか」


胸の奥に冷たい風が吹き込む。

これまで信じてきた忠義の概念が、微かに揺らいだ。


俺は唇を震わせた。


「しかし……主君を失った武士は、どう生きれば……」


「それを見つけるのが、お前の役目じゃ。ただ一つ、言えることがある。

武士とは、死ぬために生きる者ではない。


その言葉が胸に突き刺さる。


「お前が守りたいものを見つけたとき、真の武士道が分かるであろう」


家康はそう言い残し、静かに部屋を出て行った。


残されたのは、畳の上に横たわる俺と、胸の奥の重たい余韻だけ。



俺はやがて、徳川幕府に仕えることになった。選択の余地はなかった。


だが心の奥では常に自分を責めていた。裏切り者。卑怯者。恥知らず。


そんな折、一通の便りが届いた。


浪人たちを異国に派遣し、”武傭兵ぶようへい”として働かせる新制度。


武傭兵——その響きが胸を熱くする。


異国の地で、しがらみのない大地で、もう一度武士として生きる。

家康の言った「守りたいもの」を見つけるために。


俺は決意した。




そして今、シャムの戦場。


槍を構えた敵兵の筋肉が再び弾ける。俺は柄を短く握り、刃先で槍の軌道を弾いた。


金属と金属がぶつかり合う甲高い音。


「ッ——!」


息と同時に踏み込み、肩から腰へと力を乗せて袈裟けさに振り下ろす。


刃が胸板を切り裂き、鈍い手応えが腕に伝わる。


足を止めれば死ぬ。異国の大地。吹きすさぶ熱風。


故郷の城で感じた恐怖と、今この戦場の緊張は同じ匂いを持っている。


武士道とは何か。俺が守りたいものとは何か。


答えは、まだ見つからない。


だが——


仲間の”武傭兵”たちが視界に映る。異国の地で、それでも武士として生きようとする者たちが。


彼らと共にいる限り、俺はまだ戦える。まだ答えを求め続けることができる。


あの日の記憶を背負いながら、俺の旅は続く。


真の武士道を見つけるまで。



第一話 了

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