異国刀
橘 酒乱
第一話「大坂の炎」
熱気が肌に張り付く。湿った潮風に混じるのは、生々しい血と
汗が目に入り、視界がにじむ。
灼熱のシャムの戦場で、俺は槍を構えた敵兵と睨み合っていた。
相手の槍先が空気を切り裂きながら俺の頬を
その瞬間——
遠くで響いた火縄銃の轟音が、時を巻き戻した。
大坂城が炎に包まれた、あの日の轟音。
◇
俺の名は
大坂城天守の影が、午後の陽光に黒々と伸びている。
「ご報告いたします!」
血で顔を半分染めた同輩が、石段を駆け上がりながら声を張り上げた。
「敵勢、本丸に迫っております……!そ、それに、幸村様が……討たれました!」
その報告が胸に落ちると同時に、鼓動が速くなった。冷たい汗が背を伝う。
城外からは、徳川勢の
「もはや、これまでか……」
誰もが黙然と悟っていた、豊臣家の命運は尽きたのだと。
俺は腰の
主君と共に死ぬ。それが武士の
そう思って立ち上がった瞬間——
ドォォォォン!
地面が跳ね上がり、俺の体を宙に放り投げた。
土埃で視界が真っ白になった隙を縫って、徳川兵が
俺は刀を抜いた。
迫りくる敵兵に斬りかかる。刃が肉を裂く感触、骨にあたる振動、血が頬を濡らす。一人、二人と斬り伏せる。
だが波は止まらない。
息が上がり、肺が焼けるようだ。熱い。汗と血で手が滑る。
その時——
一人の敵兵が俺の間合いに潜り込み、
内臓が潰されるような衝撃。
――その攻撃は、急所を外されていた。
わずかな違和感が脳裏をかすめた瞬間、背後から別の敵兵に側頭部を打たれた。
視界が歪み、世界が斜めに傾く。耳鳴りが頭を支配し、口の中に鉄の味が広がる。
膝から崩れ落ち、俺は燃え盛る天守を見上げた。
「
声にならない呟きが喉に詰まる。無力感が胸を引き裂き、意識は暗闇に沈んだ。
◇
鳥のさえずりで目が覚めた。
見上げれば、
横たわる俺の体には清潔な白い包帯が巻かれ、麻の浴衣がかけられていた。
どこだ、ここは。
なぜ俺は生きている。
疑問が頭の中で渦を巻く。
「気がついたか」
低く落ち着いた声が、静寂を破った。
振り返るとそこには、
心臓が跳ね上がる。呼吸が乱れ、冷や汗が背筋を流れる。
敵の大将がなぜここに。なぜ俺を生かした。
「なぜ……私を……」
喉がカラカラに乾き、声がかすれる。
「お前を知っておるからじゃ」
家康の目が細まり、口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「浅葱 真之介。豊臣家臣の家に育ち、幼き頃より武芸に秀でていた。そして——」
家康の視線が俺を射抜く。
「
血の気が引く。特別な血筋とは何のことだ。
俺は歯を食いしばり、家康を睨み返した。
「……何を言われているのか、分かりませぬ」
体に力が入らず、起き上がることもできない。それでも目だけは逸らさなかった。
「私は豊臣家の家臣。徳川に従うつもりなど、毛頭ございません」
家康は眉一つ動かさない。
「ほう。では、死ぬつもりか」
静寂が落ちる。畳の目の数さえ数えられるほどの沈黙。
俺の鼓動だけが、太鼓のように耳に響く。
「当然です」
俺は唇を噛み、血の味を確かめるようにして言葉を吐いた。
「主君のために死ぬことこそ、武士の
家康は立ち上がり、障子に向かって歩いた。その背中は、まるで巨大な山のように見える。
「それは武士の死に方ではない」
その声は低く、しかし不思議な温もりを帯びていた。
「
家康が振り返る。
「単に死ぬのではない。この穢れた世を少しでも良くするために戦い、清らかな心で死んでいく。それこそが真の武士道ではないか」
家康の瞳が俺を見つめる。
「お前に、その
胸の奥に冷たい風が吹き込む。
これまで信じてきた忠義の概念が、微かに揺らいだ。
俺は唇を震わせた。
「しかし……主君を失った武士は、どう生きれば……」
「それを見つけるのが、お前の役目じゃ。ただ一つ、言えることがある。
武士とは、死ぬために生きる者ではない。
その言葉が胸に突き刺さる。
「お前が守りたいものを見つけたとき、真の武士道が分かるであろう」
家康はそう言い残し、静かに部屋を出て行った。
残されたのは、畳の上に横たわる俺と、胸の奥の重たい余韻だけ。
◇
俺はやがて、徳川幕府に仕えることになった。選択の余地はなかった。
だが心の奥では常に自分を責めていた。裏切り者。卑怯者。恥知らず。
そんな折、一通の便りが届いた。
浪人たちを異国に派遣し、”
武傭兵——その響きが胸を熱くする。
異国の地で、しがらみのない大地で、もう一度武士として生きる。
家康の言った「守りたいもの」を見つけるために。
俺は決意した。
◇
そして今、シャムの戦場。
槍を構えた敵兵の筋肉が再び弾ける。俺は柄を短く握り、刃先で槍の軌道を弾いた。
金属と金属がぶつかり合う甲高い音。
「ッ——!」
息と同時に踏み込み、肩から腰へと力を乗せて
刃が胸板を切り裂き、鈍い手応えが腕に伝わる。
足を止めれば死ぬ。異国の大地。吹きすさぶ熱風。
故郷の城で感じた恐怖と、今この戦場の緊張は同じ匂いを持っている。
武士道とは何か。俺が守りたいものとは何か。
答えは、まだ見つからない。
だが——
仲間の”武傭兵”たちが視界に映る。異国の地で、それでも武士として生きようとする者たちが。
彼らと共にいる限り、俺はまだ戦える。まだ答えを求め続けることができる。
あの日の記憶を背負いながら、俺の旅は続く。
真の武士道を見つけるまで。
第一話 了
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