第2話 契約

 頭が痛い。足も痛い。手もいろんな所に当たったし、重い髪飾りが顔に当たることすら痛くて仕方がない。本当だったら今すぐにでも足を止め、体を横にして休みたかった。

 しかし彼女にそんな事が許されるはずもない。

 背後からは闇商人から仕向けられた追手の気配が迫っている。小さな体でどこまで逃げ切れるかもわからないのに、逃げた先のことは何も考えずに飛び出してきた。

 飛び出した先は楽ではなかった。人々は彼女のフェルモマ人らしい容姿を見ると、笑ったり、意地悪を言ったり、平気で石を投げたりした。

 奴隷として知名度の高い民族だ。差別は酷かった。

 無我夢中になって走っていると、ふいに目の前がぐらりと歪み、小さな体はあっけなく倒れてしまった。

 追われている身なのだから寝転がっている暇はない。ボロボロになった足に鞭を打ち、追手の足音がこの耳に届かなくなるまで、剥き出しの足でどこまでも走らなければならない。

 少女は身体に立てと言い聞かせた。しかし彼女の命令が届く気配は全くない。まるで頭と身体を繋ぐものが切断されたかのように言うことを聞いてくれやしない。

「立って。立たなきゃならないの。まだやらなきゃいけないことがあるでしょう!」

 苛立って声を上げたせいか、頭がくらっと揺れた。その拍子に視界が歪んで気分が悪くなる。

 気が付けば目の前の景色は何も見えなくなり、自分がどこにいるかなんてわからなくなっていた。

「こんな所で終わるなんて嫌」

 少女は手を握りしめ、あまりの苦痛に声を上げた。

「助けて、誰か!」




 ちゅん。

 ちゅんちゅん。

 ちちちち、ばさばさ。

 音に気付いて我に返る。気が付けば目の前には岩の天井があった。

 エリーは大きな目を見開いた。無意識のうちに力を入れていたことに気付き、拳から力を抜く。体を起こして辺りを見回すと、そこは浅い洞穴のような場所だった。

 日光が入り込んでいて明るい。今は日中だろう。

 起きてまず確認するのは、横の髪を束ねる髪飾りの無事。手首には手錠の名残の輪が付いていて重いが、手を髪飾りまで引き上げる。確認すると、金属特有のひんやりとした感触が手に伝わってきた。

 髪飾りの無事を確認して安心のため息をつく。ほっと胸を撫で下ろしたと同時に視線が下がると、沢山の草が身体の下敷きになっているのが目に入った。

 一度気付けば次が目につく。草が視界に入ると、次は自分がいるすぐ横に果物が三つ置かれている事に気付く。乱雑に転がっているのではなく一箇所にまとまっているところから、明らかに誰かがいたというのがわかった。

 エリーは目が覚める前の事を思い出した。

 商人から逃げ、追手に追われて森に入った。しかしそこからは記憶がない。

 状況から見ると誰かが助けてくれたのかもしれない。しかし、逃げてから人々の悪意に晒されてきた彼女は用心深かった。ここに果物を置いた人物がどの民族か、男か女か、雰囲気、喋り方、目線に至るまでどのような人間なのか確かめる必要がある。

 そこまで見極めなければならないほどに彼女の容姿は酷い差別を誘った。

 それともう一つ問題がある。エリーを追っていたのはハンルークというゴーレムだ。エリーが得た情報によれば、ハンルークは大商人フェリックスが所有しているゴーレムの中で最も腕が立つらしい。そんな彼女からエリーを守った人物がいるとすれば感謝したいところだが、それほど強い人物ならばエリーに勝ち目はないだろう。警戒しなければならない。

 その人物は近くにいるかもしれない。洞窟の外を調べてみようと考えたその時、聞こえていたはずの動物達の声がいつの間にか全く聞こえてこなくなっていることに気付いた。

「おや、目を覚ましたんですね!」

 洞窟の入り口の方から、春の風のように爽やかな声が聞こえた。

 振り返ると、洞窟の入り口の方に青年が立っていた。少し長めの黒髪に真っ黒な目を持ち、下半身に奴隷のようなぼろ布を纏った上裸の青年だった。彼の手首に手錠はなく、手には一つだけ果物が握られている。

 彼の顔が紙だったならば、溢れんばかりの喜びを描いたキャンバスのようだ。彼は煌々と輝く笑顔を浮かべてこちらに駆け寄ってくる。

 遠目で見た時、彼の顔付きはナルノ人に見えた。しかし近くで見てみると、堀の深さや眉、鼻の形など、細部が異色な雰囲気を放っており、彼がロハンネ人である事が見て取れる。

 爽やかなロハンネ人の青年はエリーのすぐ近くに来てしゃがむと、手に持っていた果物を置いてエリーの顔を見た。

「良かった。なかなか目を覚さないものですから、死んでしまうのではないかと不安になりましたよ。気分はどうです?どこか痛い所は?」

 ずいと顔を近付けられ距離感に圧倒されるが、エリーは負けじと青年の目を見た。

「大丈夫よ。あなたが私を助けてくれたのね、ありがとう」

 青年は警戒が滲んだエリーの視線を意に介さない様子だった。いや、気付いてすらいない。気付かないままにこやかに笑っている。

「えぇ、えぇ、勿論!どういたしまして。私があなたを見つけてここでしばらく見ていたんですよ。熱を出して倒れていたので、死んでしまうかと」

 男は興奮気味に声を弾ませて話し出す。死んでしまうのではないかと思ったという事を繰り返し言われるので、うんざりしたエリーは溜息をつくと彼の話を遮るように喉から声を押し出した。

「心配してくれたのはわかったわ。ありがとね。ところで、私はエリーっていうの。あなたは何をしている人?名前は?」

「私はずっとこの森に住んでいて、特に何もしていませんよ」

 青年は嬉しそうに自己紹介をし始める。

「私の名前は、レン…」

 ペラペラとお喋りな口は、先程までの動きが嘘かのように突如として動きを止めた。青年は目を見開いてどこか遠くを見つめ始めた。

 エリーは驚き怖くなったが、確かめるために声をかける。

「れ、レン。大丈夫?」

 レンと名乗った青年は問いかけと同時に我に返ったようで、すぐにエリーと目を合わせた。その表情は先ほどまでの人懐っこい愛嬌が残っているが、申し訳なさそうに少しだけ眉が下がっている。

「申し訳ありません。人と話すのは久しぶりなもので、少し動揺していたんです。気を悪くしましたか?」

「いいえ。少し驚いただけよ」

 返答を聞いて安心したように笑うと、レンは思い出したように果物を指した。

「そうだ。お腹が空いていませんか?あなたが何を食べるかわからなかったので、とりあえず果物を、と思い…フェルモマ人はこれが好きでしたよね?それともナルノ人の食文化の方が馴染みがありますか?」

 彼の言葉が引っかかった。

「えっと…なんでそんな事聞くの?」

 レンは不思議そうに首を傾げた。なぜそんな事を聞かれているかということが心底わからないようだ。

「混血にはあまり会ったことがないですし、どちらに馴染みがあるかなんて、見ただけではなかなか」

 悟られまいとするが、エリーのまぶたは僅かに揺れた。レンは彼女の動揺に気付いて不安げに俯き、目だけは弱々しく彼女に向ける。

「申し訳ありません。私、何か失礼なことを…?」

「い、いえ。そうじゃなくて」エリーは慌てて言った。「ただ、相手から混血だと言われるのは初めてで、驚いただけ」

「相手から?」

 エリーが怒っているわけではないとわかってレンは顔を上げた。好奇心のまま彼女の言葉を反復して聞き返してくる。エリーは少し考えてから言った。

「…私を見たナルノ人やロハンネ人は、フェルモマ人って言うの。フェルモマ人は、私をナルノ人って言うの。あ、別にそう言われるのが嫌って話じゃないわ。ただ、混血だって言う人が初めてで…よくわかったわね」

 彼は微笑んだ。その顔は儚げで、少し悲しそうだ。

「人は己と違うものによく気付きますからね」

 小さくそう溢すと、彼は声音を明るくして続ける。

「私の知っているフェルモマ人にそんな色の目を持った者はいませんでしたし、顔付きも違います。それに、その髪飾りはナルノ人のものでしょう」

 エリーは無意識の内に髪飾りに触れる。これはナルノ人である父から貰ったものだった。

「そんな事どうしてわかるの?」

「これでもあなたよりは長く生きていますから、知っている事も多いんです」

 レンは微笑んだまま果物を手に取り、エリーへと近付けた。

「とにかく今は何か食べましょう。それとも水が良いですか?」

「あぁ…これを頂くわ。ありがとう」

「えぇ、どうぞ」

 果物を受け取って食べ始める。久しぶりの食事をとっている間、レンはずっと彼女を見つめていた。気にしないよう、エリーはなんとか意識を逸らした。

 森に住んでいて、何の職もないロハンネ人。格好は奴隷のようだが手錠などの奴隷らしい痕跡は見られない。

 追われていた状況を考えると、追手が倒れたエリーをそのまま放っておいてくれるはずがない。このレンという男が追手を追い払ってくれたに違いない。

 エリーは商人の追手の中に強い『ゴーレム』がいたことを知っている。彼女はこの森に入る前、大商人フェリックスが所有する中で最も強いと名高いゴーレムのハンルークに追われていたのだ。

 潜伏していた村で見つかり、無我夢中で走った。エリーはなんとか撒こうしてあらゆる道を走ったが、齢十歳の少女の誤魔化しなどあのゴーレムには効かない。彼女が森まで逃げて来れたのは、ハンルークがエリーとの“追いかけっこ”を楽しんでいたからだ。エリーにはそれがわかっていた。だからこそいつ捕まるのかという恐怖と闘いながら必死で走った。

 やっとの思いで森にやってきたエリーだったが、森の奥へと走っている途中で力が尽きてしまい、気を失ったのだ。

 果物を食べながら思い出していくにつれて頭が冴えてくる。それと同時に身体中が思い出したかのように痛み出してくる。

 何も纏わず長い距離を走ってきた彼女の足は傷だらけで色も変わっていた。赤黒くなっている。

 エリーの視線に気付き、レンも彼女の足を見た。彼は自分の足が痛むかのように眉を下げてみせた。

「ひどく痛むんでしょうね。しばらくは歩かないほうがいいでしょう。必要なら私が運びますよ」

「えっ。そんな、申し訳ないわ」

「いえいえ、お気になさらず。暇なので使ってやってください」

 レンは爽やかな笑顔を浮かべてエリーを見つめた。

 結局のところ、エリーは彼の世話になることになった。食事になるものはレンが持ってきたし、水浴びをしたいと言えば近くの川まで抱きかかえて連れていってくれるという。

 見ず知らずの少女にこれほど親切にするとしても、エリーから提示できるメリットは明らかに少ない。怪しいと思うのが自然だろう。そう考えたエリーは、水浴びをする時にレンを警戒して見てみることにした。家畜扱いされるフェルモマ人とはいえ、そういう対象にされる事はある。大商人フェリックスの元にいる時にも“そういう目的”で売られていったフェルモマ人奴隷をエリーはその目で見てきたのだ。

 エリーが水浴びをしたいと言うと、レンは快く頷いた。警戒していたエリーは、私が良いと言うまで見ては駄目よと念を押したが、彼は不思議そうにするだけで嫌な顔ひとつせず頷いた。

 レンは彼女を姫抱きにして川のほとりまで歩いて行き、彼女を丁寧に地面に下ろした。終わったら呼んでくださいねと言って少し離れた所まで歩いていき、エリーのいる場所から背を向けて立つ。そこは川の中に入ったエリーから見える場所だった。

 こちらから見えるということは、あちらからも見えるということだ。エリーは自分の体を洗いながら、レンから目を逸らさないように注意した。

 結果を言えば、エリーが水浴びをしている間にレンは一度も振り返らなかった。それどころか、彼は一度も動かなかった。水浴びが終わったエリーから声がかかるまで微塵も動かなかったのだ。

 エリーがレンを呼ぶともう良いのですかと声が返ってくる。そしてエリーが返事をしてからやっとレンが振り返る。彼は服を着終わっているエリーを確認して再び姫抱きにすると、二人の寝ぐらとなっているあの浅い洞穴に向かってまっすぐ進んでいった。

 レンからは善意しか汲み取れなかった。だからこそ怖かった。何も持たないフェルモマ人の子供に親切にする意味が理解できないからこそ、彼の無償の親切がエリーの頭を悩ませた。

 今度は夜だ。夜がどんなに深くなってもエリーは起きていた。寝込みを襲うような卑劣な真似をされるかもしれないと考えたからだ。隙を突いて暴力をふるったり、髪を引っ張ったり。そんな酷いことをこの男がするとは思えないが、人を簡単に信用してはいけない。

 レンはというと、エリーが横になってからはずっと入り口の方に座って外を見ていた。エリーがどれだけ起きていようが、体を横にする気配はなかった。いつまで経っても動きのない男を見ていると、とうとうエリーの限界が近付いてくる。しばらく寝ていたとはいえ小さな身体で、たった一人で商人から逃げ回っていたのだ。彼女はいつの間にか眠りに落ちていた。

 明るい光を感じて目を開けると、眠る前に見た時と同じ場所に、同じ体勢のままのレンがいた。彼が日中にも起きていたのを知っているエリーは眠気などどこ吹く風で、急いでレンに駆け寄った。

「レン、大丈夫?」

 彼はエリーの様子に目を丸くしていた。

「私は大丈夫ですが……どうしたんですか」

「どうしたもこうしたも、あなたちゃんと寝たの?無理してない?」

 その言葉を聞いた彼は心から感動した。溢れんばかりの笑顔を浮かべ、エリーの手を握って歓喜の声を上げる。

「あぁ。なんて心優しく綺麗な人なのですか、エリー!どうぞ私のことは心配しないでください。昔からあまり寝なくても良いのですよ」

「そ、そう?なら良いけど…」

 エリーはますます混乱するばかりだった。

 それからしばらく二人の奇妙な生活が続くことになった。その間エリーはずっとレンの行動を見ていたが、彼が変わった人だとわかるだけで、悪質な意図や裏の顔というものが見えたりすることもない。

 とうとう考えることに疲れてしまって、エリーは小さく尋ねた。

「あなた、人助けがしたいだけなの?」

 その時だった。いつも爽やかに笑う男の顔に影が差したのを、エリーは見逃さなかった。

 暗くて悲しそうな顔だったが、なにより恐ろしかったのはその表情に人間味が一切感じられない事だった。暗い顔をした人形を作りましたと言われれば納得してしまう。そう思ってしまうほど人間らしさのない顔だった。

「それほど綺麗な存在で在れたなら良かったんですが」

 心なしか彼は何もかもを諦めきった者に見えた。エリーはそれを見なかった事にして彼の発言に触れる。

「という事は、やっぱり私に対価を求めているんじゃない?」

 対価、と言われた瞬間レンは顔を背けた。気まずそうに顔を歪めている。

「まぁ、そういう事になるんでしょうけど…私はあなたを水浴びに連れて行ったり、食べ物を探してやったり、夜の番をしたり…そういう事で十分なんですよ。だから気を遣うのはよして、何かあれば私に言ってください」

 それは善意とは違うものなのだろうかとエリーは頭を捻るが、とりあえず頷いておく事にする。レンは嬉しそうにしていた。

 何もない日常が過ぎていくと、エリーの足は歩けるほどに回復した。傷の跡はくっきりと残ってしまったが、それは仕方がない。

 自分で歩けるようになったのでもう運ばなくて良いと伝えると、予想に反してレンの元気がなくなっているように見えた。エリーが気遣う言葉をかけても、彼は大丈夫ですと言うばかりで何も教えてはくれなかった。

 目を覚ました頃のエリーは、足が治って体調が万全になればすぐに森を出てしまおうと考えていた。しかし彼女はその予定を延期した。確かめたいことがあったのだ。

 エリーが一人で歩けるようになってからもレンは水浴びの時に周囲を警戒し、果物を持ってくる事をやめず、夜の番も続けた。しかし、エリーから離れようとはしなかった。生まれたての小鳥が母鳥についてまわるようで、所謂”ひっつき虫”というやつだった。

 水浴びや夜の番の時にエリーの近くにいるのは理解できる。しかし、エリーが歩けない時はレン一人で果物を取って来ていたというのに、歩けるようになってからは水浴びの帰りの道で一緒に果物を取りたがった。

 勿論気のせいかもしれないとも考えた。作業を一人でやるのが好きだという人もいるが、人とやる方が好きだという人もいる。だからエリーは試してみた。

「お肉が食べたい」

 レンは目を丸くした。

「おや、肉食にも馴染みが?」

「えぇ。父に狩りを教わったこともあるわ」

「そうでしたか。早く言ってくれれば私も動物を取ってきたのに」

 待ってましたと言わんばかりにエリーは反応を示した。

「そうは言うけど、あなた動物を狩ったことあるの?」

 彼は居心地が悪そうに目線をずらした。エリーはやっぱりね、と続ける。

「ずっとあなたと過ごして気付いていたけど、あなたの周りって本当に動物が寄ってこないわ。飛んでいる鳥ですらあまり見かけないもの」

 エリーは語気を強めた。

「だからね、私が狩りをしてくるわ。その間果物を取っていてくれる?」

 その提案を聞いたレンは反論しようとするが、エリーはそれを見越していた。声の上から声を被せ、有無を言わさぬ圧をかける。

「頼んだわよ、レン」

 こうしてエリーは久しぶりに一人になったのだ。

 狩りといえど弓矢や短剣などの使える道具がないので、本来なら簡易的な罠を作ってリスでもとろうと考えただろう。しかし、彼女の狙いは肉ではなかったのだ。

 レンがいたあの浅い洞穴から十分離れた所で、罠を作るでもなく、仕掛ける場所を吟味するでもなく、彼女は突然走り出した。

 それはまるで浅い洞窟から、ひいてはレンから逃げるように。

 走り出してしばらくすると、森の様子が変だと感じ始めた。どこか暗い雰囲気が漂い、浅い洞穴から離れて少しづつ見かけるようになった動物達も怯えたように逃げ隠れてしまった。

 エリーは怖かった。もしかすると、得体の知れない何かの琴線に触れたのかも知れない。もしかすると、殺されるかも知れない。

 命の保証はない。しかし、彼女には殺されてやる気は微塵もない。

 彼女が走っていると後ろから恐ろしいものが迫っている感覚がした。背筋が凍り、逃げられないぞと本能に語りかけてくるような悍ましい気配だった。

 エリーはふいに立ち止まる。気を強く保とうと深呼吸をする。嫌に大きな心臓の鼓動も、首筋を伝う冷や汗も、何ひとつ止まることはなかった。だが彼女は意を決して振り返った。

 少し離れた所に少しばかり長い黒髪をしたロハンネ人の青年が立っていた。

「レン。あなたがいると動物がいなくなるって言ったわよね」

 エリーが嗜めるように言うが、レンは落ち込んだように謝るどころか彼女を睨んだのだ。初対面の時の爽やかな青年という印象は見る影もなく、今はただただ恐ろしい男だった。

「……なぜ逃げようとしたんですか」

 そう言ったレンの目からは一筋の涙がこぼれ落ちた。殺気のような圧迫感はまだあるものの、彼は突然泣き喚き出した。

「なぜ私から離れるのですか。私に原因があるんですか。ねぇ、教えてください。どうして」

 声は少しづつ小さくなっていく。教えてとは言っているものの、その声にはエリーを責めるような意味しか含まれていない。

 自分よりも大きな男が人目を憚らず泣き出す光景に、エリーは愕然とした。レンが追ってきているのは想定内だったが、子供のように泣き出す男を見る予定は立てていなかったのだ。

「えっ?ご、ごめんなさい。泣かせるつもりはなかったの」

 年上の男に言う台詞ではない。エリーも何故こんなことを言わなければいけないのかと心底困惑している。

 彼女の言葉を聞いたレンは涙を流しながらすとん、と無表情になった。そしてエリーに近付いたと思うと、彼女の腕を掴んで浅い洞穴の方へと歩き出した。その力はとても強く、エリーが痛みに顔を歪めるほどだ。

「レン離して。痛いったら」

 エリーの訴えにも反応せず、彼はただ黙って元居た場所に向かって歩を進めるだけだった。




 辺りはすっかり暗くなっていた。

 浅い洞窟の目の前で焚き火がゆらりと燃える。その火を挟んで座り、レンとエリーは黙り込んでいた。

 先に沈黙を破ったのはレンだ。

「どうして私から逃げようとしたんですか」

 そう言うレンは無表情で、人形のようだった。

 レンの発言を否定するように、エリーは首を横に振る。

「違うわ。逃げようとしたんじゃなくて、逃げるフリをしたのよ」

 レンの表情は疑いの色を濃くする。言い訳だと思っているのだろう。エリーは考えた事を素直に話そうと決めた。

「あなたが私についてまわってる気がしたの。だから試してみようと思ってね。私が逃げてみせた時追ってくるとしたら、あなたの本当の意図がわかる気がして」

 レンは本当にエリーについてまわっているのか。もしそうなら、エリーをこの森に留めておくというのが彼の願いなのか。それとも、森ではなく彼に縫い留めておきたいのか。その願いの理由は何か。

 彼が本当に彼女に求めているものは何か。

 色々確かめたい事はあるが、先にこれだけは尋ねておきたかった。

「ねぇレン。あなた、人間じゃないでしょう」

 そこまで言うと、レンは瞑目した。目を閉じただけなのだが、死んでいるようにも見える。しかしすぐに彼の口は動き出した。

「ご明答。私は泥で作られた人形、ゴーレムです」

 レンは目を開くと、真っ直ぐにエリーの目を見返した。目に見えないものに押されているような錯覚に陥るほど圧のある視線に息が詰まる。体が後に傾いたのを感じ、前に傾くよう姿勢を正して気を強く持ち直す。

「そう」エリーは続けた。「じゃあ、なぜあなたが私に執着しているのかを聞かせてもらえるかしら」

 レンは黙り込んでしまい、重い沈黙が流れた。しかしエリーは何も言わない。彼が話すまで黙っているつもりなのだとわかり、レンはため息をつく。

「…わかりました。話しますよ」

 そのゴーレムは思い出すように宙を見つめた。

「騙すつもりなんてなかったんです。ゴーレムだという事も、やましい事があるから言わなかったわけじゃない。ただ、怖がられて逃げられるのが怖かった。せっかく人間に会えたのに」

「人間に会ったのはいつ振り?」

「さぁ。人間にとっては気が遠くなるような年月を過ごしていますから、もう数えていません。この森に入ってから長い年月をずっと一人で過ごしていました」

 長寿のゴーレムは再び沈黙した。彼の無表情には圧がある。エリーは恐る恐る尋ねた。

「この森に入る前は何をしていたの?」

 その問いは彼の目を悲しい色に染めた。

「…戦っていました。でももう争いに疲れてしまって、己の責任を投げ出してここに駆け込んだんです。それでね、情けないことに私は死にたいと思ったんですよ。もう生きているのが辛くなった」

 ふいに彼の口角が吊り上がる。

「あぁ、生きていると言うのは傲慢ですね。私はただの人形ですから」

 エリーは彼の態度を見て、胸につんとした鋭い痛みを感じた。彼は確かにゴーレムだ。人間ではなく、泥でできた人形だ。こんな気持ちになるのは、彼が人間そっくりの容姿を模っているからだろうか。

 レンは己を嘲笑したまま話をやめなかった。一人でずっと抱え込んできたのだろう。やっと話せるというように、一度話し始めたら止まらなかった。

「死にたいと思ったので、この森で何度も行動に移しました。でもね、高い崖から身を投げた時は、落ちた先で体の形が崩れただけですぐにこの形に戻りました。水に身を投げたって、土が湿って形を崩しましたが、陸に上げられてすぐ元通りです。私は呼吸を必要としませんから、人間のように溺れる事もできなかった」

 話をしている彼の表情は、溺れて息ができない人間のように苦しそうな顔をしていた。

「何をしても死ねないんです。言葉通り、何をしたって。体を構成している土を削っても、この森にある土を引き寄せてまた体が元通りになる。だからもう死ぬ事すら諦めて、気が狂うほど長い時を過ごしました。そんな時にあなたが来た」

 レンの目がエリーを捉えた。彼の声は先程までの無表情な声音から、縋り付くように必死なものに変化した。

「一人ではこんなもの抱えきれなかったんです。ただ辛くて苦しいだけなんです。だから、人間が一人やって来てくれたから、少しでも紛らわせると思った。もう一人になりたくなくて、あなたが逃げないようにずっと見ていた。あなたが怖がらないように必死に親切になった」

 その時、レンの表情は驚きに染まった。

 彼の視線の先にはエリーがいる。彼女は悪巧みが成功した子供のように笑っていた。

「なんて都合がいいのかしら」

 短い生しか生きていない少女の顔とは思えない笑みを浮かべる彼女は、まさに悪女のようだった。

 エリーは誘うように甘い調べを奏で、優しい声でレンに語りかけ始めた。

「ねぇレン。私があなたの死に方を探してあげるって言ったら、あなたは私の言うことを聞いてくれる?」

「えっ?」

 素っ頓狂な声を上げたレンに吹き出しそうになってしまうが、真剣な顔を作る。なんせ、彼女が持ちかけようとしている話は真剣な話なのだ。

「私と取引をしましょう」

 次から次へとよくわからない話を持ち込まれるせいで、レンはすっかり困惑を隠さなくなってきた。エリーの顔を見て不思議そうに眉を顰めている。

「取引……ですか」

「えぇ、そうよ」エリーは言った。「私を手伝って欲しいの。あなたは事情を話してくれたから、私も話すわ。取引はフェアじゃないとね」

 そして、彼女は身の上話を始めた。

「私はフェルアティエというフェルモマ人だけの孤島で生まれたの。パパはナルノ人だったけど、良い人だったからみんなから受け入れられてた。でもある日突然島に人攫いがやってきて、みんな捕まえられた。中には殺された人もいたわ。私の両親がそうだった」

 いつもは大人びているエリーだが、この時だけは年相応に悲しそうな顔をした。それを見たレンはまたもや驚いた。

「ママのお腹には私の弟か妹になる子がいたの。多分ママはお腹の子を守ろうとして抵抗したから殺されてしまったんだわ。パパもママを殺した奴と戦ったけど、その仲間に撃たれて死んだ。私は運悪く殺されずに船に乗せられて、商人に売られたの。フェリックスっていう商人にね」

 エリーの手が髪飾りに触れると、手を後の方に動かして後頭部に触れた。彼女の髪飾りを付けている左右の毛は長い。しかし、それ以外の部分は不自然に短かった。

「私の髪の毛はママとお揃いで長く伸ばしてた。でもフェリックスの所に買われた時、機嫌を悪くした彼に運悪く目を付けられて髪を切られてしまったの。パパの形見の髪飾りまでつけられなくなる所だったから、必死に抵抗してここの髪だけは見逃してもらえたけど、私絶対にあの男のこと許さないわ」

 エリーの声には力がこもり、話に熱が入っていく。

「フェリックスはなぜか私に執着してるのよ。せっかく買った奴隷が逃げたら私にかけた分のお金が無駄になるとかいう理由でしょうけど、とにかく私を探してる。でも私はあんな奴の所で奴隷として生きたくない。いつ売られるかもわからないし」

 困惑しながら話を聞いていたレンがおずおずと口を開く。

「えぇと、つまり、捕まりたくないから守れという話ですか?」

 エリーは気まずそうな顔をした。

「あら、ごめんなさい。まぁ言いたいことはそうなんだけど、ちょっと違うの」

 彼女の目に強い光が灯る。レンはこういう目をする人間を知っていた。意志の固い人間がする目だった。

「私は故郷に戻らなくちゃいけないの。でも追手がいるから難しい。だから故郷に戻るまでの護衛をあなたに任せたい。私はあなたが死ねる方法を探すのを手伝ってあげるわ。それで見つかったら私の故郷に向かって、そこで二人で死にましょう。あなたにとってはこれ以上ない提案でしょう?」

 レンが死ねる方法を探してくれる。その為に一緒に旅をしてくれる。そして、その方法が見つかれば一緒に死んでくれる。彼女は、レンの“死にたい”という願いも、“一人になりたくない”という願いも叶えてくれると言っている。

 それでも、レンの口からは疑問が飛び出した。

「私にとっては良い提案ですよ。これ以上嬉しいことはない。しかし、あなたにとっては?私に付き合って死ぬなどと提案するのは、正直に言って正気の沙汰とは思えません」

 しかし、レンは再び困惑することになる。

 彼が口にした疑問を聞いて尚、エリーは笑っていた。少女らしいころころとした笑い声がこだまする。少女の笑い声を聞けば、普通なら誰もが笑顔になる事だろう。しかし、この状況でおかしそうに笑われたところで恐ろしいだけだった。

「言ったでしょう?“運悪く殺されずに船に乗せられた”って。私はあの時死にたかった」

 彼女の目に力が入った。まともな人間の目とは思えない、狂気に塗れた人間の目。この目で見つめられた人間は誰だって身が竦む。人間だけではなく、ゴーレムだってそうだった。

 レンの恐れなど気にも留めず、エリーは言葉を続けた。

「パパもママもいないのに生きてる価値なんてないわ。でもね、どこで死んでも良いって話じゃないの。二人ともいつまでもずっと一緒にいてくれるって、全部一緒だって、パパが言ったの。でも一緒に死んでくれなかったわ。私を置いて二人とも先に死んじゃった。まぁ、仕方のないことだっていうのはわかってるけどね。一番悪いのは、私と二人を引き離した人攫いよ」

 両親が殺され、故郷を追われた少女が死にたいと願うのはおかしなことではない。己が目の前の少女に感じている恐怖心がなんなのかレンにはわかっていなかった。しかし今、彼女が言った言葉で理解した。

 彼女は両親が死んだことに悲しんでいるのではない。両親が死んだ時に死ねず、二人と引き離された事に怒っている。それは、己と共に死んだのなら、両親の死を悲しむことはないという事だった。

 底知れぬ悪寒が背筋を走る心地がする。泥でできた人形には人間のような臓器も神経もない。人間のような痛覚もないし、恐怖心などないはずだ。しかし今はただ目の前の少女が恐ろしい。

 齢十歳。レンよりも遥かに細い手足に、小さい身体。レンがその気になれば、一度拳を振り下ろすだけで簡単に穴が空いてしまう。

 殺すのは簡単だ。何も怖くないはずなのに、それでも彼は恐ろしくなった。

 しかし、不思議な事にレンの口角は上がってしまう。それを見て、エリーも嬉しそうにする。

「私は故郷で、パパとママが死んだ場所で死にたいの。だからフェルアティエに向かわなきゃいけない。でもフェリックスから追われてる。だからあなたは私を守って。そして、あなたが守ってくれる代わりに私はあなたの命を断つ方法を探す。見つけたら二人でフェルアティエに行って、私と一緒に死ぬのを許してあげる。特別よ」

 ここまで言ってみせるが、レンはまだ頷かなかった。しかし彼の表情を見れば、答えが出ているのは確実だった。エリーは甘えるように、彼が頷きやすいように、しかし有無を言わせぬように言う。

「あなたを殺してあげる。あなたは喜んではいと頷けば良いだけ」

 その声のなんと甘美なことか。

 化け物だ、とレンは思った。男を誘う魔のように、人間の伝承にある存在はもしかすると彼女のような人間を元に作られた話なのかも知れない。

 レンはいつの間にか頷いていた。

「良いでしょう。その取引に乗ります」

 エリーはその言葉に少しだけ安堵した様子だった。嬉しそうに笑い、レンに手を差し出す。

「良かったわ。じゃあ、死ぬまでの間よろしくね」

「しかし」

 遮るような力強い声に、先程まで余裕を醸し出していたエリーの目が見開かれた。今度は彼女が驚き、レンが笑う番だった。

「この取引は重すぎて、口約束では足りない。ここは一つ“契約”をしましょう。ゴーレムには主人が必要だというのは知っていますか?」

 困惑するエリーを見て彼は続けた。

「ゴーレムは人によって作られた人形です。人間の為の道具なんです。つまり、使う人間がいなければ何もできないのですよ」

 そこまで言って、レンの声音はふいに軽くなる。

「それに、もし私を殺す方法を探している最中に逸れたら困りますからね。契約を交わして私の主人になれば、私はあなたがどこにいようと、あなたの居場所がわかるようになる」

 冗談を言っているような調子だ。しかし、彼の言葉は冗談などではない。それは“逃げられると思うな”という脅しの言葉なのだ。

 エリーはその意味に気付いた。彼の言葉を聞いて眉を上げると、すぐに悪い笑みを作った。

「あなたみたいな重い人好きよ」

「それは光栄です」

 契約を了承する返答を受けてゴーレムは微笑む。焚いていた火は小さくなって揺れていた。

「それで、契約って具体的にはどうすれば良いのかしら。私ゴーレムに関する魔術にはあまり詳しくないわ」

 首を傾げるエリーを見て、レンは己の胸を指し示す。宥めるような優しい声で説明し始めた。

「契約の手順は簡単ですよ。あなたの血を私の体にください。私の泥に垂らして、馴染ませて、あなたが主人だということをこの体に染み込ませる。そうすればあなたは正式に私の主人となる。やってくれますか、エリー」

 エリーの答えは決まっていた。彼女は頷いて、自分の左手を口に近付けた。親指を歯に当て、表面を上下の歯で挟む。指先に鋭い痛みが走ると口の中に独特な味が広がった。

 左手を口から離して見てみれば、指先からは赤い血が露出していた。エリーが左手をレンの方に差し出すと、彼はエリーの手を掴んで胸元に近付けた。

 指がレンの胸に触れる。途端、胸に穴が空いたように彼女の指は沈んでいった。エリーは驚きはしたが左腕を引くことはしなかった。

 こつん、と何か硬いものに触れた気がする。そう思った直後、血が出ていく感覚がした。しかし指はすぐに引き抜かれ、彼女の腕からレンの腕も離れていく。

 不思議な感覚がした。目の前の男と繋がっている感覚がする。体はすでに離れているし、二人の間には距離がある。だというのに、すぐ近くにいるような感覚が確かにあった。

「契約完了です」レンは微笑んだ。「これからよろしくお願いします。私のマスター」

「えぇ、よろしくね。私のゴーレムさん」

 こうして、二人の間には奇妙な契約が成り立った。死ぬ為の、世にも奇妙な契約だ。




「あの町からは結構離れているし、しばらくはフェリックスに居場所を把握される事はないかもね」

 スドゥとヴィルマンという追手と遭遇した後、二人は急いで遠く離れた街に逃げて来た。その距離は旅人が徒歩で二週間掛けるほどの場所だった。しかし、二人は五日でこの街に辿り着いた。金もなく急いでいた二人は、レンがエリーを背負い走り続けるというおかしな方法で、たったの五日で移動したのだった。

「走るのは目立ちますね。緊急事態以外はなるべく控えることにしましょう」

 エリーは頷く。走って移動した五日のうち、二日目にフェリックスの追手に見つかってしまったのだった。走って移動している旅人などおかしい。そのせいで、フェリックスとはなんの関係もないただの目撃者から情報が伝播したのだ。

「まぁ、とにかく今は情報収集しましょう。私は早く故郷に帰りたいの。永遠にあなたの用事に付き合っていたらその間に死んでしまうわ」

「それは困ります」

「そうでしょう。だから早くあなたの殺し方を見つけなきゃ。ねぇ、人に聞いても同じ答えばかり返ってくるから、次はゴーレムに聞いてみるのはどう?」

「それはいいですね」

 そう言った後、レンは気まずそうにした。察してほしいというようにもじもじするレンの態度は彼女の機嫌を悪くする。まだ知り合ったばかりだが、レンは怒りっぽい彼女の性格を嫌というほど思い知らされていた。彼は焦って言う。

「ま、待ってください。そう怒らないで」

 一旦彼女の怒りを鎮めることには成功するが、早く言わねば不機嫌な彼女としばらくの間歩くことになる。レンは意を決した。

「服を買いませんか?実は、この布は私の体の一部なんです」

「え?」

「人間の体を模すのは簡単なのですが、布の動きは複雑でどうも難しい。追手に遭遇して戦闘になれば、集中できなく……」

「ちょ、ちょっと待ちなさい」

 制止の声に一度黙るレンだが、その顔はきょとんとしている。エリーの困惑を微塵も理解していないようだ。

「つまりあなた、私の隣を全裸で歩いてたってこと?」

「まぁ、服を着ていないという点ではそうなのかもしれません」

 レンの口から肯定の言葉が出た瞬間、エリーの顔は引き攣った。それを見てレンは混乱したが、やはりよくわかっていなかった。

「なぜそんな顔をするんです?人を見る目ではありませんね。あぁ、私は人ではないんですけど」

 呑気に言ってのけるレンに我慢の限界がやって来た。エリーは顔を真っ赤にして憤慨し、大きな声で怒鳴り上げる。

「この変態!」

 二人は今日もゴーレムの殺し方を尋ね歩く。二人が共に死ぬ為に。

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