第14話 リゾ・ラバ

教習所という仮初めの楽園にも、終わりの鐘は鳴る。スケジュール表の余白が、まるで人生の巻末に残された数ページのように広がっていく頃、僕としおりの午後はぽっかり空白だった。


路上教習を終えたのは、昼下がりの少し手前。まだ太陽は空の高みにいて、エンジンの熱を帯びたボンネットに手をかざせば、どこかで鉄が泣いているような気さえした。僕たちは教習車を降りると、そのまま二人でホテルへと戻った。理由は簡単で、他に行く場所がなかったから。いや、本当はそれだけじゃない。僕は少しだけ、いや相当に期待していた。


午後の中途半端な時間、人気のない静かなロビー。廊下を進むと、鍵のかかった部屋が並び、その奥にしおりたちの三人部屋があった。しおりが鍵を開け、僕たちはその部屋に入った。誰もいなかった。あおいも、りかこも、誰も戻ってきていない。まるで誰かが僕に都合よく舞台装置を用意したかのような静けさだった。


不埒な希望が心の奥で跳ねていた。そういえば僕は、以前のある夜、酔ったしおりに「いいよ」と囁かれたにもかかわらず、「酒が入ってるから」と見栄を張って断った。あのときの自分を、小一時間ほど膝の上に乗せて説教してやりたい。


今日は違う。酒は入っていない。下心はポケットにしまってある――つもりだった。僕たちは他愛ない話をしながら、なんとなく空気の密度を測るように時間を過ごしていた。


「ここでさ、甘い缶コーヒーこぼして、地球上の全蟻が集まってきたらどうしよう?」


「……『全蟻』って!!」


どうやら話の内容よりも、『全蟻』と言う音の響きがしおりのツボにハマったようだ。

しおりはベッドに突っ伏し、肩を震わせて笑い出した。嗚咽のような、あるいは魂の震えのような笑いだった。彼女の笑いは、時々どこか破壊的だ。世界の理を壊して、ただ「今」だけを肯定する音に思えた。


笑いが落ち着いてきたところを見計らって、僕はそっとしおりの肩を抱いた。何も言わずに顔を近づけると、彼女は素直に応じた。

唇が離れ、次の段階へと気持ちを傾けようとしたその瞬間だった。


「……ごめん」


その声は、コーヒーに落とした角砂糖のように、静かに、ゆっくりと溶けていった。少しハスキーで、でも透明感を湛えた彼女の声は、いつもより一段低く、胸の奥に鈍く響いた。


「……何が?」


しおりは、視線をベッドの隅に落としたまま黙り込んだ。まるで心の辞書をめくって、最も角の立たない言葉を探しているかのように。


「もうすぐ、この合宿が終わるでしょ」


それは、ただの事実なのに、彼女が口にするとまるで世界の終わりのように聞こえた。


「楽しい時間って、必ず日常に回収される。そう思ったら、大阪にいる彼のことを、また考えちゃった」


声のトーンには、迷いが滲んでいた。けれどその迷いは、真剣さの証のようにも思えた。


「すっかり忘れてた。…ううん、忘れようとしてた。でも、終わりが見えてきたら……前の生活の延長線が急にリアルに浮かんできて。別れられるのかなって」


「君のこと、好きだよ。それはほんと。ずっと一緒にいたいって思う。でも、現実を考えると、わたし……決められない」


言葉のひとつひとつが、胸の奥に棘のある鉛の玉のように沈んでいった。まるで、僕の期待という風船を、正確に狙って撃ち抜いてくるスナイパーのようだった。


「だから……『恋人になった』っていうのは、この先に進むのは、少し保留にしたい」


その最後の一言が、あの声でなければきっと受け止められなかった。そう思えるほど、やさしく、切なかった。


まさに『大どんでん返し』だ。

僕は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。空気が重力に負けて落ちてくる音が聞こえるようだった。


「……分かった。でも、少しだけ、僕の話も聞いてほしい」


僕は、過去の話をした。高2の頃、クラスで仲良くなった女の子。毎日一緒に過ごし、時には体を重ねた。僕は初めてだった。でも、彼女はいつもこう言っていた。


「私は中田くんのカノジョじゃないよ」


その言葉は、錆びたナイフのように僕の心を削った。フラれた方がまだマシだった。僕はその関係を続けながら、自分をすり減らしていた。そしてようやく別れを決意できたのは、彼女が僕の親友とも寝ていたと知った時だった。


「やからな、しおり。もししおりが僕だけを選べへんなら、宙ぶらりんにされるんなら、それは僕には耐えられへん。しおりの大阪の連絡先は聞かない。ここで終わりにする。楽しい思い出として。『リゾ・ラバ』や。」


口に出した瞬間、自分の声が自分のものじゃないように聞こえた。演劇の一幕みたいな台詞。心では未練たっぷりだったのに。


でも、しおりは「分かった」と言った。あっさりと。


「君にそんな辛い思いはさせたくない。ここで終わりにするなら、私もそれに従う」


部屋の窓から差し込む光が、いつの間にかオレンジ色に染まっていた。まるで映画のワンシーンだった。僕はおどけたふりをして言った。


「何だか映画みたいやね。『本当に出ていくのか?』みたいな場面。しおりは夕暮れのオレンジに染まった部屋で、荷造りをしてる。」


しおりは笑った。その笑顔に救われた気がした。これでいい、そう思えた。


「でもさ、帰るまでは……恋人でいようか」


僕は、そんなセリフで自分の未練を包んでみせた。しおりは頷き、今度は彼女の方からキスをしてくれた。

ああ、これでいいんだ。たぶん、きっと、今はまだ――。

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