第13話 Better Daysと翔んだカップル
午後の教習が終わったコースには、夕立を遠くに眺めているような静けさが漂っていた。
僕としおりは、実車コースの端にある朝礼台のような台の上にいた。正確には僕が腰をかけて、しおりが僕の両脚の間にすっぽりと収まるように立っていた。背中を僕に預けて、顔だけ上に向けている。
僕はタバコをくゆらせながら、煙と一緒に、午後の退屈と、しおりの饒舌を吸い込んでいた。
しおりは何のスイッチが入ったのか、サザンオールスターズについて熱心に話していた。
「サザンってさ、ほんとすごいよね。なんか、“歌謡曲”とも“ロック”とも言い切れない感じでさ。ああいうの、私すごく好き」
好きを語るときのしおりの声は、いつもの少し鼻にかかった柔らかなミルキーボイスとは違い、わずかに低くなって芯を帯びる。それが妙に心地よくて、僕はその変化を聞き逃さないよう耳を澄ませていた。
「“Ya Ya”の歌詞に出てくる“Better Days”ってさ、“より良き日々”って意味に思うでしょ? でもね、あれ、実は桑田さんたちが学生のときに入ってた音楽サークルの名前なんだって」
「え、マジで?それは知らんかった」
「それにね、サザンがデビューしたての頃、テレビ収録の楽屋でピンクレディーにサインもらってたとか、知ってた?」
「いや、初耳」
「完全にファン目線だったって。“ザ・ベストテン”かなんかの収録で。そういうの可愛くない?」
しおりは声に笑いを混ぜながら、僕の顔を見上げた。その声がまたいつもの少しだけハスキーな甘い調子に戻っていて、太陽の反射を受けた瞳とともに、僕の胸の奥を揺さぶった。
「他にもあるよ。たとえば、“ニューハーフ”って言葉、実は桑田さんが言い出したのが最初なんだって。どこかのラジオ番組で言ってた」
「……しおり、サザンの広報担当か何か?」
僕が笑いながらそう言うと、しおりは「広報じゃなくて研究員」と返してきた。なるほど確かに、情報量が並外れている。
もちろん、僕もこの時代を生きる高校生だ。自宅のカセットボックスには、レンタルレコードから録音したサザンやユーミンやチューブがぎっしり詰まっていたし、たいていの曲は何となく口ずさめる。でも、しおりの語る“裏話”は僕の知らないサザンだった。B面のさらに奥にある音の断片たち。
「仲良いわね~。カップルで合宿免許来たの?」
その声に僕らは同時に振り返った。ときどき顔を合わせる地元通いのおばちゃんだった。50前後だろうか。日に焼けた顔と愛嬌のある声で、誰に対しても物怖じせず話しかけてくる人だ。
「いや、この合宿で知り合ったんです。もう今は“彼女”ですけど」
僕はちょっと誇らしげに言った。
脚の間にもたれていたしおりの脇に手を入れて、「よいしょ」と持ち上げ、自分の股の間に座らせた。
「何だか恋人ってよりは、お父さんと娘みたいねぇ~」
おばちゃんは笑った。
失礼な。こう見えて同い年だ。
でも「カップル」と最初に言われたことは、思いのほか嬉しかった。
そのささやかな満足感を吹き飛ばすように、けたたましく声が飛んできた。
「あー! こんなとこにいた、翔んだカップル!」
あおいとりかこだ。まるでお笑いコンビの突撃ロケのような勢いで僕らの前に現れた。
「しおりちゃん! トオルちゃん泣いてたよ?! 告白したら『中田とは付き合ってない』って言ってたのに、あっという間に付き合ってたってさ?(笑)」
あおいはカラッとした声で笑いながら言った。
「そんなの見てたら分かりそうなもんだけどねー。トオルちゃん、“ちょっと待ったー!”するタイミング逃したね」
りかこも呆れたように笑った。
「ねるとんか……」
僕がぼそっと言うと、りかこがすかさず乗っかった。
「これはまさかの……大どんでん返~し!」
「……って、タカさんの声で脳内再生された」
「でしょ? あたし、今ちょっと自分の中の石橋貴明が出てきたもん」
トオルの涙は本物だったかもしれないけれど、あおいとりかこのカラッとした性格が、その場を夏の風通しの良い部屋みたいにしてくれる。重たい空気を置いていかない二人の軽やかさは、たぶん合宿中いちばんのエアコンだった。
午後の陽射しはゆるやかに傾き、コースの白線がだんだんと橙色を帯びていく。
合宿の教習は終盤に差しかかっていた。卒検の日程もほぼ決まりつつあり、残留組のあおいやりかこも、ようやく路上に出るようになっていた。
とはいえ、順調というわけではないらしい。
「30メートル手前と3秒前と、両方“3”だからややこしいんだよ!」
あおいが憤慨したように言い放った。
誰に対しての怒りなのかは不明だが、たぶん道路交通法そのものに向けられた嘆きだと思う。
そんな午後だった。
大事件も、告白も、涙も笑いも、少し前のことのように感じられるほど、今日は穏やかだった。
僕はというと、最近は京都に戻ったあとのことを考えてよくひとりでニヤニヤしていた。
京都に戻ったら、しおりとどこへドライブに行こうか。六甲山の夜景でもいいし、琵琶湖でもいい。奈良公園で鹿せんべいを買うのも悪くない。あの声で「コラー!」とか言って、鹿に囲まれてあたふたしてるしおりの姿が目に浮かぶ。
音楽はやっぱりサザンからだろうか。車は、親が4WDのスプリンター・カリブを新車で買ってくれることになっている。
ただ、その妄想のバックミラーに、まだ気付いていなかった。
まさかそれが、タカさんに「大どんでん返しー!!」と絶叫される展開になるとは──。
僕はそのとき、まだ知らなかったのだ。
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