第10話 風のない午後に歩いた
合宿所のホテルから教習所までは、実はけっこうな距離があった。
何も無いありふれた地方都市の道を車で15分ほど。
送迎バスが毎朝8時に迎えに来てくれるが、寝坊すると徒歩での移動を強いられる。
その所要時間、およそ1時間強。ちょっとした罰ゲームだ。
人生のなかに、こういう微妙な距離って案外たくさんある。近すぎず、遠すぎず、でも本気で歩こうと思うと少しだけためらう――そんな距離。
だからみんな、眠くても必死に起きて、どんなに二日酔いでもバスには這ってでも乗るのが鉄則だった。
まるで沈みかけたフェリーに飛び乗るように。
「歩いて帰ってみようか」
その日、しおりが言った。
午後の教習が早めに終わった日だった。
まだ陽は高く、風もなく、空はやけに広く見えた。
空の青さが、何もかもリセットしてくれるような気がした。
「いいよ」と僕は即答した。
理由も目的もない。
でも、それは“恋人っぽいこと”のように感じられた。
意味もないのに誰かと長い時間を共有する――それは、ある種の信頼のようなものだった。
例えるなら、出発点も終着点も分からない小旅行に、二人で乗り合わせるみたいなものだ。
初めて歩く道だった。
いつもなら、バスの車窓をぼんやり眺めているだけの景色のなかに、自分たちの足音が入り込んでいるのが、なんだか奇妙だった。
住宅街を抜け、寂れた本屋を横目にしながら、舗装のざらついた歩道を進む。
道路の縁石がまるで、古い映画のフィルムのフレームのように、僕たちの影を区切っていった。
しおりは、はじめのうちはやけに饒舌で、朝食のパンの味や、学科で一緒だったおじさんのクセの話や、昨日の夢の内容まで話していたが、やがて静かになった。
僕たちは無言で並んで歩いた。
言葉がなくても、景色が会話を代わりにしてくれた。
通り過ぎていく電柱や信号機が、僕たちの代わりに何かを話していた。
潮の匂いが強い場所では、しおりが少し顔をしかめた。どうやら海が近い。
鼻が利くんだね、と言うと、
「動物っぽいとよく言われる」
と彼女は言った。
「でも、たいてい褒め言葉じゃないの」
その言い方が少し照れくさそうで、でも、どこか誇らしげだった。
途中、野良犬のような猫が1匹、畑のへりで毛づくろいをしていた。
しおりが立ち止まって、じっと見ていた。
「実家で飼ってた猫、ああいう顔してた」
そう呟いたあと、しばらく何も言わなかった。
彼女の言葉は、どこか抽斗の奥にしまってあった何かを、不意に取り出してしまったような響きだった。
僕は訊かなかった。
彼女の表情に、訊かないほうがいい気配が漂っていた。
風のない日だった。木の葉も、海も、空も、ぴたりと止まっているようだった。
時間がその場に寝転がって、昼寝でもしているかのように。
反対側の車道を送迎バスが通り過ぎる。
運転手のおじさんがこちらに気づいて、少し驚いたような顔をした。
僕は手を軽く上げて挨拶したが、おじさんはリアクションを返す余裕もなく走り去った。
バスの音だけが後に残り、すぐにまた静寂が戻ってきた。
道ばたのフェンス越しに、小さな菜の花が咲いていた。
まだ2月なのに、ずいぶんせっかちだなと思った。
まるで春のスニーカーを一人だけフライングで履いてきた小学生のようだった。
途中、小さな公園で缶の紅茶を買って、ベンチで少しだけ休憩した。
どこにでもある、なんてことのない場所だったけれど、しおりがすこしだけ足を前に投げ出して、「あーあ」と言ったその声が、やけに印象的だった。
声というより、感情の輪郭そのものが空気に染み出したような響きだった。
「歩くって、いいよね」
「うん、会話が遅くなる感じがする」
「それ、いい表現だね」
彼女の声は、あいかわらず少し鼻にかかっていて、やわらかかった。
僕たちは、ゆっくり会話した。
まるでテレタイプ通信みたいに、ひと文字ずつ確認しながら、ことばを届けあった。
小戸之橋まで来ると、もうすぐゴールだ。
毎朝のバスで、ホテルを出て程なく渡る橋だから知っている。
長い橋の中央に向かうほどに、風が少し強くなる。
川の向こうに広がる住宅地の屋根が、ゆらゆらと陽炎のように揺れていた。
熱された都市の記憶が、空中でふらふらとよじれているみたいだった。
しおりが欄干にもたれ、遠くを見た。
「たまにね、橋の真ん中で立ち止まって、しばらく動けなくなることがあるんだよ」
「高所恐怖症?」
「ちがう。理由はないの。理由がないから、怖いのかも」
そう言って、彼女はまた歩き出した。
僕もそれ以上は訊かなかった。
訊いてしまうと、何かが壊れてしまいそうな気がしたからだ。
ホテルにたどり着いた頃には、ちょうど夕暮れの光が斜めに差していた。
脚は棒になっていたが、ふたりともどこか満足していた。
途中の、教科書で見たことのある社会主義国の販売所みたいなスーパーで買った安い麦茶を分け合って飲んだ。
「歩いたぶんだけ、ちょっと大人になった気がしない?」
しおりが、あの少し鼻にかかった甘い声で言った。
「うん、でもたぶん明日は筋肉痛だよ」
「それはそれで、青春ってやつだよ」
そんなふうに、僕たちは恋人らしくなっていった。
なにかを決めたわけでもないし、どこかに行ったわけでもない。
でも、しっかりと日々は進んでいた。
そのあとの数日間も、大きな事件は起こらなかった。
誰かが仮免を落ちて落ち込んだり、バイク教習の組がやたらうるさかったり、缶詰のミカンばかり出る朝食にみんなでブーたれたり。
細かいことは山のようにあったが、どれも“エピソード”と呼ぶには物足りない。
でも、そういう日々こそが、僕たちの記憶の底に長く沈むものになるんじゃないか、という気がしていた。
雨は一日も降らなかった。
風もほとんど吹かなかった。
まるで季節が迷い込んだように、宮崎の2月は、春の仮面をかぶって僕たちをだまし続けていた。
しおりはよく笑った。
僕も、よく笑った。
そして、ときどき沈黙を挟みながら、それでも不思議と居心地のいい時間が流れた。
何かが始まったような、終わったような、また始まっていたような。
その曖昧さが、今の僕たちにはちょうどよかった。
恋というには静かすぎて、友情というには密すぎる、
その間のグレーゾーンを、僕たちはふたりで歩いていた。
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